誰なんだろ?
番っている相手に対してそんなことを想うのは妙な話だが、実際にどちらか分からないのだから仕方ない。
何回か呼びかけてみたのだが、返事がなかった。口を開けば、発音やアクセントですぐにバレると分かっているからだろう。それぐらい、あの異国訛りは特徴的で、隠しようがない。
糸目の、かなぁ。糸目のだといいなぁ。
だが、ぼやけかけた意識の中で「そういえば、糸目のはもう、いないのかもしれないんだっけ」と思いついていた。前に、俺が・・エドを人柱として使っちゃったと嘘をついて、それがショックだったようでヤツは意識を手放して・・それから、糸目のの意識が戻ってきた気配はない。
だったら・・グリードなのかな。
それにしては、触れられている掌が柔らかくて、温かいのだけれど。
「なぁ・・グリードなん? つうか、グリードだろ? 別に、も・・グリードでもいいからさ、せめて返事してくんない? こう、黙ってモクモクとヤるってゆーのも、どうよ?」
そう尋ねながら、男の目を覗き込もうとすると、脱ぎ散らかしていた服で顔を覆われてしまった。黒い滑らかな布・・多分、エンヴィー自身の服だろう。それを頭の後ろでぎゅっと縛られ、目隠しをされる。
「わ、ちょ、ちょっと・・痛いっ、髪っ・・髪の毛、巻き込んでる!」
喚きながら、自分で外そうと両手を後ろに回そうとして・・両手首を掴まれる。
「るっせ・・」
ようやく聞けた男の声・・だが、あまりにも断片的で、彼がどちらかの判別まではできなかった。
「ちょっ・・よせ! ばか、マジで髪の毛、痛いんだってば!」
バカ糸目の・・と、一瞬呼びかけようとしてやめ、グリードと言い直そうとする。その空白を狙ったかのように、口が塞がれた。多分・・唇で。柔らかくぬめっとした器官の入り口が、ねっとりと覆いかぶさってきて、エンヴィーの薄い唇を、小さな歯を、無遠慮に撫で回す。
その合わせめから、互いの唾液がこぼれて頬を、顎を、首筋まで伝った。
どっちだろうと・・この俺様にこんな扱い、後でただじゃおかない。上下の口を塞がれ、いいように弄ばれている現状から逃避するように、後でどうやって仕返ししてやろうか、空想することで気を紛らわせた。
「かはっ・・ぐぅっ・・はっ・・ちくっ・・しょおっ!」
やがて、ぐっと奥に楔が打ち込まれたままではあるが、突き上げる動きが停まって唇も解放される。ようやく一息つけたかと思うや、片方の足首を掴まれて、高々と持ち上げられた。
肩に担ぎ上げるつもりなのか、腿を開かせる気なのか・・いずれにせよ、エンヴィーにはこれ以上、好きに弄ばれてやるつもりは、さらさらない。
「やだっ・・!」
もう一方の足を軸に、思いっきり身体を反転させて逃げようとする。深々と刺さった杭に抉られて、中に痛みが走ったが・・まぁ、相手だって痛かったに違いない。
その証拠に、足首はあっさりと放り出され、互いの身体を結び付けていたものも、ズボッとえげつない音を立てて抜け落ちてしまった。
「けっ・・ざまぁみろ。ついでにそこ、ねじ切ってやれば良かったぜ」
肩で息をし、内壁の痛みのために俯せにうずくまりながらも、口先だけは達者に毒づいて、片手で目隠しを剥ぎ取る。
だが、もう一言、二言ぐらい憎まれ口を叩いてやろうと思った瞬間、後頭部を掴まれていた。
「いででっ・・てめ、この・・グリードだろ、絶対グリードだよな、こんなことすんのっ!」
チッ・・と舌打ちの音が聞こえた。
本当にグリードなんだろうか・・と、ふと思いついて、肌が粟立った。
確かに、グリードはいけ好かない野郎だが、正面切って殺しあいの類いをしたことはない。だが、糸目のとは彼が人間だった頃、何度も本気での闘いをしたことがある。グリードの中に居るということを内緒にして匿ってやるから・・という条件で性奴隷になることを約束させはしたが、心からの服従でないことぐらい、エンヴィー自身にだって分かっていたはずだ。
もし今、彼の身体を支配しているのが糸目のなら・・グリードの『硬化』は使えないはずだ。
反撃してやろうと、エンヴィーは己の手指を変化させた。爪が長い爬虫類のそれに・・その指先に力がこもった、その瞬間。
後頭部を掴まれたまま、頭を思いきりベッドに叩き付けられた。
「ぶふっ!・・っつう・・てんめぇっ!」
額を打ち付けられた勢いで、カギ爪がマットレスに突き刺さり、引き裂いていた。
あーやっちゃったよ、やっぱ軍用のお古を横流ししたのは、粗末だしボロいしダメだね、今度ちゃんとしたのを買わなくちゃ・・などと、一瞬、余計なことを考えたのがいけなかった。
頭を上げて振り向こうとしたところを、さらにもう一度、叩き付けられてしまった。その一瞬・・エンヴィーの視界に入ってきたのは、破れたマットレスの下から突き出て来たスプリングだった。
やべ、危ないって、これ・・と避けようとしたが、その鋭い先端がものすごい勢いで・・いや、逆にスローモーションで、というべきだろうか? 視界いっぱいにぐいぐいと広がってくる。
「タンマ、ちょっ・・シャレになんね・・ゥアアアアアアッ!」
目をそらすことができなかった。
まぶたを閉じることすら、できなかった。
その先端がやけに鋭利で・・先端は折れていたのだろうか?
鋭いその金属の先が、水晶の角のようにいくつかの不揃いな面を持ち、その一部が微かに錆びていたのすら、やたら鮮明に見えてしまった。4インチはマットから飛び出てしまっている・・あれがまともに刺さったら、脳まで届くじゃねぇか・・と、余計なことまで考えてしまっていた。
どうせ、死なねぇけど・・いや、死ぬかもしんねぇ・・最近、俺もちょっと死にすぎだし・・第一、脳はまずいかも・・!
だが、後頭部をがっしりと掴まれていては、どうしようもなかった。
エンヴィーの悲鳴と、突然吹き出してベッドの枕元にべっとりと広がった血に、相手も異常に気付いたらしかった。
数秒間、手を離して呆然と見下ろしていたようだが、やがて両肩を掴んで抱き起こした。その一瞬、引っかかるような、引き戻される感触がした後、ジュブッと濡れた音がして急に手応えが軽くなった。
血と、脳漿を絡み付けたスプリングが勢いよく揺れて、男をギョッとさせた。
貫かれたのは、右の目だったらしい。
エンヴィー自身も、相手に右の頬に滴る血を指で拭われて、初めて傷付いたのはそちら側だったのかと知った。
肉体的な痛みはあまり感じていなかった。多少、傷口が熱いと感じる程度。なのに身体はやたら寒くて・・そして、頭の中は真っ白になってしまっていた。
それでも・・何も言ってくれないんだね。
名前すら、呼んでくれないんだ。
ぼんやりした意識の下で思いついたことは、それだった。
そう思うと、なんだか無性に腹が立って来た。
そもそも、この傷はてめぇがつけたんじゃねぇか。なのに心配そうに善人面しやがって、こんちくしょう。
「けっ・・なんてぇ顔してやがんだ、こんなもん、すぐ修復できるってよ」
寒くて・・本当は抱きついて暖めてもらいたいのに、そんなことをするのはプライドが許さないような気がして、わざと胸を突き飛ばすようにして離れた。
その一瞬、息苦しくなって・・しゃくりあげてしまう。自分でも思い掛けない生理現象に動揺しながらも、差し伸べられた手を乱暴に払い除ける。
「ばかっ、泣くかよ、俺がっ!」
鼻をすすりあげて・・だが、確かに涙はこぼれてはいなかった。
片手をぽっかりと開いた眼窩に添え、再生のための気を高める。時折、横隔膜が発作のように震えて、集中力を途切れさせた。
「こんなもん・・すぐ・・いいや、後で」
なかなかうまくいかないので癇癪を起こして中断し、足下に蹴飛ばしてしまっている毛布を掴んだ。
「明日の朝、治す。寝てる間に勝手に治ってるかもしんねーし。てめーも寝ろよ。あっちのベッドで、な」
服を着るのが面倒くさくて、そのまま毛布を身体に巻き付ける。
まだ、やたらに寒い・・もしかしたら、怪我でショック状態に陥っているのかもしれない・・だが、男にすがるのは、絶対に嫌だと思っていた。
・・ゴメン
そう聞こえた。ボソッとしたはっきりしない発音で、グリードとリンのどっち声かまでは、またもや判別できなかった。
「自分でやっといて、ゴメンじゃねーよ! てめーの目ン玉も突き刺してやろうか、ああっ?」
カッとして反射的に毒づき、顔を背ける。
慰めようとして抱きついてきたら、思いっきり突き飛ばしてやろう、と軽く身構えていたが、男の気配は逆に、スッと離れていった。
「おい、い・・行くのかよ、いや、そっちで寝ろとは言ったがな。いや、いいんだがよ、それで」
肩すかしを食らった気分で、エンヴィーが起き上がる。
だが、相手は振り向きもしないで、離れた位置にあるベッドに潜り込むと、背中を向けた格好で横になってしまった。
「・・糸目の!」
思わず呼び掛けると、男は片手をひらっと上げて、振ってみせた。
「グリード、だ」
もう何回も繰り返したやりとり・・だが、本当にグリードだから「グリードだ」と答えているのだろうか。それすら、もう、確信が持てなくなりつつある。
さっきまで番っていたのは、どっちだったんだろう?
乱暴に頭を掴んで、叩き付けたのは、どっちだったんだろう?
さっき小声で謝ってくれたのは、どっちだんたんだろう?
そして・・今、離れて横たわっているのは、どっちなんだろう?
どれひとつとして、判然としない。それらがすべて同一人物だったのかすら、定かではない。
一度目にしたあらゆる姿を模倣する能力がある自分が、相手の“正体”が見極められないとは、皮肉な話ではあるが。
それとも・・ふたつの魂は融合しつつあるのだろうか? いや、どっちの人格であろうと、それらがくっつこうと、自分にはまったく関係ないし興味もないことなのだが。
それでも妙に気になって、ベッドから降りていた。
ただでさえ寒気がしているのに、素足に石畳は冷たくて、全身がザワッとした。
「糸目の」
「グリードだ、ってば」
男が振り向いて、エンヴィーが近づいてきていたことに気付き、眉をしかめる。その仕種は、どちらの癖にも似ているような気がした。
「本当に?」
ベッドに膝を乗せる。エンヴィーが使っているものよりも若干新しいが、やはり軍需品のお古のせいか、ギシッと鳴る音は鈍い。
そのまま男の腹の上に跨がり、右目が使えないために首をかるく右に傾げて、左目だけで顔を覗き込む。
「本当は・・どっちなんだよ?」
「サァ?」
屈み込み、自分を訝しげに見上げ続けるその目に、キスする。
「左目がグリードなの? それとも、糸目の?・・こっちは、どっちなんだよ?」
返事はない。そのまま舌を這わせて・・そっと目蓋の間にこじ入れた。淡く塩分を感じる。眼球の味? 変なの。このまま歯を立てて、同じめに遭わせてやろうか・・だが、そんな物騒な事を考えているというのに、男は避けようともしない。
「・・したいの?」
ただ、ポツンとそう尋ねるだけで。
「ちゃんと教えて欲しいだけ。オマエ、糸目の、だろ?」
「グリード」
「嘘だ」
「グリード、だ」
呆れたように繰り返すと、男は起き上がって両腕の中に、エンヴィーを巻き込んだ。
その温かい感触に溺れてしまいそうな衝動に駆られながらも、エンヴィーは手を伸ばして、男の額にかかる前髪をかきあげて、なおも顔を覗き込む。
だが、いくらその瞳の奥を見つめていても、何も分からなかった。
ただひとつ「多分、決して分からないだろう」ということ以外は、なにも。
エンヴィーはため息をつくと、男の胸を押して「やっぱ、も・・俺、寝るわ」と小さく呟いていた。
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