1 肉体の記憶
クセルクセスの遺跡で見た壁の文様、聞かされた錬丹術の歴史・・エドワードは、錬丹術については何も知らないはずなのに、どこか身体の奥がざわつくのを感じていた。これは、デジャヴュという感覚だろうか。
それとも、過去に見た本の中に関連した記述があって、そのときには気づかずに、読み飛ばしていたのだろうか?
一応、気にはなっていたのだが、故郷で父ホーエンスに出会ったり、例の墓を掘り起こしたりするなど、その他にもエドを振り回す出来事が立て続けに起こっていたので、その違和感について落ち着いて考える余裕は、ちょっと無かった。
そしてこれは、ようやくちょっとだけ、そういうヒマができた頃・・のお話。
ともかく、錬丹術に関する文献を見てみよう・・とエドは思い立ったが吉日とばかり、軍の図書室に勤めている本の虫・シェスカを訪れた。
何しろこの少女、一度読んだ本は一字一句記憶してしまうというモノスゴイ記憶力の持ち主だ。図書館ごと燃やされてしまったティム・マルコーの蔵書を、奇跡的に再生させたのは彼女であり、その功績がなかったら賢者の石が・・人体を原料にしているなんて想像を絶する結論には、到底辿りつけなかっただろう。アポなしで押しかけたのだが、シェスカは案の定というべきか、いつものように本棚の整理の途中で手を止めて、本を読みあさっているところであった。
「あの・・シェスカ・・さん・・」
「きゃぁぁあああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、あたし、ついつい!」
「あ、大丈夫、俺だよ。エドワード・・それよりさ、知りたいことがあるんだ・・錬丹術についてなんだけど」
「錬丹術・・に関する本のこと・・ですか? 錬金術じゃなく?」
「うん、錬丹術に関することなら、何でもいいんだけど」
「えっと・・確かに何冊かありますけど、異国の文字で書かれていたんで、まだ読んでないんです」
「そっか・・読んでないもん、覚えてねーし、俺も読みようがない・・か」
エドがしょんぼりしたのがよっぽど気にかかったらしく、シェスカも申し訳なさそうに眉を寄せる。そして、ふと思い出したように、ポンと手を打った。
「あ、そうだ。参考になるかどうかわかりませんが、明日のお祭り、行ってみたらどうでしょう? 地元では地母神を祀った豊作を祈る祭りだと信じられていますけど・・東方から来て、錬金術をもたらした術師がモデルではないか・・という説もあるそうですよ」
「その本、今ないの?」
「・・あの火事で燃えてしまって・・書き出してもいいですけど、ホントに1行“この祭りには、東方から来て、錬金術をもたらした術師がモデルではないか・・という説もある”って、書かれてるだけでしたし・・そもそも学術書じゃなくて、旅行ガイドのパンフレットでした」
「そっか。じゃあ、せめて案内とかしてくれる?」
「・・明日は、仕事、休めないんです。図書館の方じゃなくて・・非常事態に備えて、文官も電話番として待機してろって・・」
「仕事じゃあ、しゃーないなぁ。シェスカも一応、軍人だもんな。じゃ、大佐にでも頼むか・・ありがとよ」
「あっ、あのっ・・大佐は、私以上にお休みとれないかと・・!」
シェスカが慌てて呼び止めようとしたが、元々トロいシェスカが、弾丸のように飛び出していったエドを捕まえられよう筈もなかった。
それから数時間後。ロイ・マスタング大佐の席の前に、側近であるリザ・ホークアイ中尉が仁王立ちしていた。
「・・これは何ですか、マスタング大佐」
「何って・・見て分からないのか。休暇届けだ」
「そんなのは分かっています」
「じゃあ何だ。書式でも間違っていたのか? 文字だって読めるように書いてやったし、サインも忘れずに入れているぞ?」
「そうじゃありません。明日、何の日か分かっていてお休みになるのですか、と聞いているんです」
「何の日って・・地母神の祭りだろ。セントラルの代表的な祭りだ。中尉は知らんのか? かくいう私も東部の田舎者で見たことはないのだがな」
「・・そういうイベントがある日には、テロに狙われやすいからと、わざわざ先日、訓練までしましたよねぇ? お忘れなんですか?」
「おお、実践さながらのな。あれだけ部隊が機能するのなら、私一人ぐらい休みをもらっても・・」
「良くありませんっ! 下士官に対する示しがつきませんよ。大体、休む理由が私用って・・まさか、デートかなんかですか?」
「まあ、そんなところだな」
「言語道断ッ!」
「そう怒るな、中尉。何をカリカリしてるんだ・・あの日なのか?」
「そんなもん、来てませんっ!」
「来てないのも問題があるぞ。父親は誰だ? 分からないのなら、私が父親になって育ててやっても良いぞ」
「・・妊娠なんかしませんっ」
「妊娠しないってことは・・もうアガったのか? 更年期にはまだ早いと思うぞ・・違うのか? まあ、疲れやストレスが溜まるとリズムが狂うらしいからな。おお、もう定時だ。中尉も残業せずに帰れよ」
あー言えばこー言うで、のらりくらりとはぐらかすロイに、リザはブチ切れそうになるが、フッと真顔になって「どうせ会場にいるんだ。何かあれば援護するから」などと言われてしまえば、引くしかなかった。
それに・・執務室を出てからふと我に返ると「私が父親になって育ててやっても良いぞ」なんてセリフ、丸でプロポー・・いや、あの人はどうせ、同じセリフで何人もの女性をたぶらかしたに違いない。
リザは、ポッと赤らむ頬を自分の両手でパンと勢い良く叩くと、廊下を歩き出した。
ロイ・マスタング大佐との逢瀬をすごく楽しみにしていたはずなのに、いざとなると足がすくんだ。中央でのロイの自宅を訪れるのが初めてだったという理由もあるだろう。住所と簡単な地図を走り書きしたメモを渡され、そっけなく「来なさい」とだけ言われて。
そういえば、東部でのロイの部屋は、男所帯というに相応しい荒れっぷりだった。職場が一応きちんとしていたのは、すべてリザ・ホークアイ中尉の尽力だ。
たまに片付いていると思ったら、中尉が呆れて掃除に来ただの、こないだ口説き落としたカノジョが泊まりに来て片付けてくれただの、そんな話ばっかり聞かされて。
だから、そんな女性の匂いが好きになれなくて、いつも自宅ではなく職場を訪れていた。東部では、執務用に個室が与えられていたからだ。帰るのが面倒で、執務室に泊まる・・というのも結構しょっちゅうだったらしく、いかにもおあつらえ向きで・・なにより、そこにはエド以外の恋人は自由に出入りできない、というのが良かった。
しかし、中央指令部ではまだ、個室が与えられるほどの階級ではないということで・・もうひとつ、上がれば、なと意味シンに笑われて、こっちはどう返していいのか、分からずに。
ドアの前で数分ほど逡巡した後、思いきって入った部屋は、拍子抜けするほど殺風景だった。掃除をしているとかそういうレベル以前に、まだ東部から引っ越してきた荷物を全部はほどいていないらしい。よくもまあ、そんなんで生活できるもんだと呆れるが、ここしばらくの忙しさにかまけて、部屋には眠りに戻るだけなのだろう。
「来たよ」
「そうか。もう終わるから、そこに座って、待っていなさい・・明日休みが取れたから、どうしてもこの書類は、今日中に仕上げておかなければならないんだ」
視線もあげずに答える、相変わらずのそっけない対応。
「なんだよ、持ち帰り残業かよ・・せっかく来たのに」
「君のために休暇を取ったのだよ?」
そういう男なんだと分かっていながら、どこか心がささくれだった。忙しいのはじゅうぶん分かっているし、お茶を出せとも言わないが、せっかく俺が来たのだから、少しぐらい嬉しそうな顔をしたって、罰は当たらないと思う・・などなど、つらつらと考えていると、胸の中のどす黒い塊が、どんどん膨れ上がってきた。
昼に、図書室を出てから、明日休暇をとるように頼んだときだってそうだ。うるさそうに片手を振って
「どうせホークアイ中尉が休ませてくれんだろう」なんて言って。どうしても一緒に行きたいとねだると「じゃあ、私が中尉に絞られる対価は、身体で払ってもらうぞ」・・って。
それが意味することに思い当たると、全身の血が逆流した。もう、どれぐらい長い間肌を合わせていないか、分かっているのだろうか・・それなのに、なんてそっけない。
「どうした? 腹でも痛いのか? 鋼の」
エドの表情に気付いたらしく、ロイがそう声をかけてきた。
「あ、いいや。なんでもない」
「そうか。じゃあ、そんなとこに突っ立ってないで、座りなさい」
「・・なんで?」
「なんでって・・そんなところに立たれていると、こっちが落ち着かない」
「そうじゃなくて、どうしてお腹が痛いのかなんて、聞いたのかな・・って」
「・・腹を壊していて下痢でもしてたら、大変じゃないか」
心配してくれたんだと思って嬉しかったのに、そんなムードのない返事をされて、エドはがっくりきてしまう。本当に、お腹が痛くなったと言って、帰っちゃおうか。そうしたら「お大事に」ぐらいは、言ってくれるかな。でも多分「一体、何しに来たんだ」なんて、つれないことを言われるのが関の山だろうな。
ため息をついてソファに身を投げ出し、いつものようにロイに「おいで、鋼の」と言われるのを待った。
「ダメ、今日、できない・・タンマ・・」
エドがぼそりと言う。ロイも異常には気付いていた。
ベッドの上でいつまで愛撫を重ねていても、エドの白い肌は冷たいまま、受け入れてくれる気配がない。女ったらしのテクニシャンを自称しているロイにとって、この事態は名誉に関わる一大事であるが、逆にいうと「女ったらしのテクニシャン」だからこそ、エドの身体が、女でいう“濡れない”状態に陥っていることに気付いたわけだ。
「・・体調が悪いのか?」
「いや、そうじゃない」
「なんか悩みごとでもあるとか?」
「別に。悩んでるとしたら、相も変わらず賢者の石のこととか・・かな」
「もしかして、私の浮気が気になるか? 中央に来てからは、色々騒々しくて、ゆっくり女を口説く時間がないから、それは心配するな」
「ま、それは部屋みりゃ分かるよ。東部から持って来た荷物そのまんまでさ、他人を入れるの、俺が初めてだろ?」
「じゃあ・・」
消去法によって、あり得ない、というか、考えたくない結論に近づきつつあった。腕の中から抜け出したエドは、早くも起き上がって、ノロノロと服を身に付け始めている。
「鋼の。まさか、他の誰かと寝たのか?」
「・・!! んなわけねーだろ」
これも即答で否定された。だが、エドの反応をみていると、どうもそうであるような気がしてならなかった。
確かに浮気はお互いサマではあるし・・男女間なら恋人や婚約者という縛りで貞操を強要することができるが・・それに、そういうエドだってもう16歳なのだから、誰か・・女の子でも、好きになってもおかしくないし、性を買って欲求を解消することだって・・ちょっとそれは早いような気もするが、親でも保護者でもないロイがとやかく言うことではない。
しかし、どう考えてもこれは、少年が女性を知ったというよりもむしろ・・女の恋人が秘かに浮気をしたときにそっくりだ。そう思い当たった途端、全身の血が音を立てて引き、ロイ自身もどっちらけてしまった。
「隠さなくてもいい」
「隠してなんかねーよ」
「まあ、もちろん言いたくなければ言わなくてもいいが・・」
「だから、他のヤツとなんか、こんなことしてねーって言ってるだろーが!」
「じゃあ、その反応は何だ? 身体は正直だぞ」
「ウソなんかついてねーったら! ・・それとも、浮気してたって言われたら、あんた納得すんのか?」
「ほう。やっぱり、していたんだな」
「しつこいな、してないんだってば。例えばの話だよ、例えば、の!」
「じゃあ、何故できないのか、教えてくれないか?」
「そんなの・・知るかよ! でも・・できねーもんはできねー。無理なもんは無理っ!」
エドの声が上ずってヒステリックになる。つられてつい、ロイもカッとして「じゃあ、用がないのなら帰れ」という言葉が飛び出してしまった。失敗った、と思ったがもう遅い。エドが蒼白な顔で、ガク然とこちらを見ていた。
「用・・ね。ああ、分かった。帰る」
「すまん。言い過ぎた。悪かった許せ・・せめて食事でも食べに行かないか? ご馳走する」
「全然、腹へってねーし」
「じゃあ・・車で宿まで送ろうか?」
「いらねー」
「おい、明日・・どうするんだ、待ち合わせの時間と場所・・」
エドは最後まで聞かず、バタンと音を立てて部屋を出て行った。
ロイは脱ぎ散らかした服を着始めた。一戦終えた後よりも、虚脱感が強い。
それに、本当に浮気じゃなく、長いことブランクがあったせいかもしれない。そりゃあ、前だって身体が慣れるにはずいぶんとかかったんだから。久しぶりでこっちも急いていたのだろうか。ともかく、明日、宿に迎えに行ってやろう。そして、そのとき謝ってやろう・・と、ロイにしては珍しく、しおらしいことを思ったものだ。
あんな言い方って、ない。本当に記憶にないのだから「してない」としか答えようがないのに。
いくら訴えても信じてもらえないというのはショックだし、その後で取ってつけたように、取り繕って機嫌をとろうとしたのが、ずるくて余計に腹が立つ。だったら・・ホントに浮気してやろうか。
「・・って、誰とだよ。それも男相手に? 俺、何考えてんだよ、ダッセーッ!」
酒場で一杯ひっかけてとか、盛り場でヒマを潰して・・などと色々考えてはみたが、どうせ酒場では「子どもは来ちゃダメ」って追い返されるだろうし(俺がチビだからって、子ども扱いかよ、失礼な!)、夜の街でステキな出会いを確保する自信もない・・結局、宿に帰ることにした。
そして・・宿に戻る道すがら、なぜか、今さらのように膝が震えるほど身体が疼き始めていた。
「あれ? 兄さん、今晩は泊まりって言ってなかった?」
気持ちが相当ささくれだっていたのだろう、出迎えた弟のアルフォンスの口調が、妙に神経を逆撫でした。
「帰って来ちゃ、迷惑だったか?」
つい、語気が荒くなる。アルに八つ当たりしても仕方ないのに・・だが「そういう意味じゃないけど」と答えるアルの側にも、どこか兄を煙たがるニュアンスが漂っていた。表情があればもっと分かりやすかったに違いないが、あいにくアルは鋼鉄の顔をしていた。
「誰かいるのか? 客か?」
乱暴にアルの身体を押し退け・・こいつ、どうして自室のドアをかばうように立ってやがったんだ?・・アルの部屋を開ける。ノブを引く瞬間、もしかしてアルのやつ、オンナでも連れ込んでいるのかよ、という思考が脳裏をよぎったが、もちろん空っぽの鎧の身体でそれはあり得ないだろう。だったら、またなんか拾ってきたのか・・
「やァ・・君か」
だが、そこにいたのは、野良犬でも捨て猫でもなかった。いや、アルが拾って来たことに変わりはないだろう、リン・ヤオがソファに腰掛けていたのだ。
「おまえ、こないだ叩き出されておいて、まだこの宿にいんのかよ?」
「アルフォンスのゴ好意デ」
「アルと仲いいのかよ」
「仲? 悪くはナイネー」
「お供はどーしたよ」
「留守番」
「留守って・・よそに宿が取れたのか、文無しヤローが」
「よーやく国から仕送りが届いてネ。いやァ、カネがないっテこんなニ不便とは、初めて知っタヨ。庶民ノ生活ってしたコトなかったからネー」
リンのへらへらした受け答えに、ただでさえ気が立っているエドの目が吊り上がる。唐突に爆発的な怒りの発作に襲われ、思わずリンの胸ぐらを掴んでいた。鋼鉄の右手を振り上げる・・その手首が、宙に止まった。
「兄さん・・それは無いんじゃないの?」
アルがエドの手首を掴んでいたのだ。さらにその腕で身体を持ち上げられる。
「イテテッ・・腕抜ける、肩が外れるッ! 降ろせッ!」
「じゃあ、リンに謝って」
有無を言わせないアルの口調に、エドは毒気を抜かれ、あっけに取られてしまう。どういうコトだよ?
「・・わ、悪かった・・」
一方、リンの方も多少戸惑いを見せながら「マーマー、オレは別ニ気にしてないシ・・」と割って入る。どことなく気まずい空気が流れていた。
「・・じゃア、オレ、そろそろオイトマしよーカ」
「そうなの? じゃあ、明日ね、リン」
エドが「明日って?」と尋ねようとして、アルに視線で制せられた。リンが苦笑しながら、ああ、ハイハイなどと受け答えている。なぜか、エドの胸の奥がちくりと痛んだ。
マイッタナー・・とリンは帰る道々、思い返しては頭を痛めていた。
最近、よくアルフォンスと逢って、賢者の石に繋がりそうな情報交換をしたり・・お互いの身の上話など、愚にもつかないおしゃべりをしたり、話題が尽きかけたときにも、チェスなどを教えてもらって対局しているわけだが・・今日はどういう話の流れでそうなったのか、話が猥談になった挙げ句、アルが「自分には肉体がないから、つまらない」と言い出したのだ。
肉体がないまま、精神だけ成長していくのが、どんなことなのか。
しかも、背も伸びず、体格も変わらず、ただ時がとまった無機物の我が身の隣にはいつも、髪が伸び、肩幅や背中が広く逞しくなっていく兄の生身の肉体があるのだ。意識せざるを得ない。
幼かった頃の兄と、今の兄。それに引き換え、生身の頃の自分と今の姿との間には断絶があり、今の姿は・・生身の肉体を取り戻さない限り、永遠にこのまま寸分変わらないのだ。
そしてもし、生身の肉体を取り戻したとしても、それが当時の少年のままなのか、それとも兄同様に「年齢相応に」成長しているのかすら、定かには分からない・・そんなことを一気に吐き出した後、
「だから、どうせ、ボクにはそーいう事なんて、どうせ分からないよ」
と、拗ねてみせたのだ。あまりにも唐突であっけに取られていたが、気を取り直すと「まあ、こういうことは肉体だけですルもんじゃないからサ」とフォローに入る。
「肉体だけじゃないって・・精神で・・ってコト?」
「正確には“気”で・・なんだけど・・やってみようか?」
ソファから立ち上がり、冗談半分でベッドに腰掛けているアルの首の辺りに手を伸ばす。触られている感触はあるのだろうか? 掌に気を集めて、アルに注ぎ込むことをイメージして、そっと撫でてみた。アルはちょっと驚いた様子だったが、おずおずと手を伸ばし、目の前に立っているリンの腰に手を回すようにした。
「こんなこと・・鎧の身体になってから・・というか、その前は子どもだったし・・初めてだな」
「・・なんか、感じなイ?」
実は、微かに手ごたえを感じていた。ただ、その気配は、目の前の鎧の中ではなく、どこか遠くにあったのだ。そして案の定、アルはかっくりと首を垂れた。
「・・何も。やっぱり、肉体が無かったら、だめなのかなぁ?」
「そっカ・・ナンカ悪いことしたな・・じゃあ、身体が元に戻ったら、遊郭に連れてってやるヨ」
「ユーカク?」
アルがしょげているのが可哀想で、わざと唐突に話題を変えたのだが、素直なアルは簡単にノってきた。慰めてやる意味も込めて、アルの首に片手を回したまま、その膝の上に座る。
「ウん、いいところダぞ・・うん、初めての時ハ、経験者に手ほどきしてもらウのが一番ダ。それも気の利かない素人じゃなくテ・・ああ、でもこっちの商売女よりも、シン国のオンナがイイぞ。こっちでは下品な商売扱いらしいガ、シン国では、遊廓は現世の“仙境”なんダ。“仙境”・・えーと、こっちの言葉でなんてーのかな・・まほろば? ともかく夢のような世界で。そこにいる女達も、こう、絹のようなぬめりのある、キメの細かい肌でな・・おっぱいはこう、掌に吸い付くような柔らかさで、掌に収まるサイズでサ・・」
故郷の女達のしどけない姿態を思い描きながら、たどたどしい言葉を繰って力説する。その髪、その肌、その体臭と、肉のボリューム・・思い返しているうちに、ふと、そのイメージに合わない、しかしやけに魅惑的な肉体の記憶がよぎった。
色素の薄い髪、ほどよい弾力の肌と、柔らかい唇の感触・・甘い味がした・・
あれ、そんなヤツいたっけな? リンは、記憶に残っている女を、指折り数えて思い出してみる。
房中術の講師、ちょっかいをかけた女官、性欲処理のためにと与えられた奴婢、お忍びで街に遊びに出たときに買った遊廓の女・・ここぐらいまではシン国の女だから、明らかに肌や髪の色が違う。国を出てから遊んだ、酒場の派手な女共か? そんなヤツいたっけか? 栗色の髪のヤツに、黒髪のヤツ、金髪も確かにいたけど、大柄で肌が荒れていたのを覚えている。それから、それから・・記憶の中の女たちのどれにも当てはまらない。しかしその肉体の感触と重みは、ぼんやりと思い出せる。
何回か指が往復したところで、アルがじっとその動きを凝視していることに気づいた。
「そんなにたくさん、カノジョがいるの?」
「アん? いや、違う違う・・これは指の体操」
「ふーん?」
疑っているのか、うまく誤魔化されたのか・・鉄鎧の顔からは表情が読み取れない。
「でもさぁ・・でも、どうせだったら・・」
アルが言いにくそうに、でもどこか嬉しそうに、つぶやく。
「一番最初は・・リンがいいな」
リンは「げえっ」という声を、かろうじて飲み込むことに成功した。いや、確かにさっきは冗談でそういうことをしたが、鎧の身体相手だから興味本位でやってみたのであって、別にリンにその手の男色趣味があるわけではない。
「あっ・・あのなァ、ソーいうノは、女相手に言うもんだ。オレはオトコだゼ? オマエ、好きな女の子とか、いないノカ?」
「昔、ウィンリィをどっちがお嫁さんにするかって、兄さんと争ったけど、ウィンリィはどっちもイヤだってさ」
「そんナン、いつの話ダヨ」
「子どもの頃」
「だっタラ、将来ドーなるカ分からんダローガ」
「それに多分、ウィンリィは、兄さんが好きなんだと思うし」
「・・あのナァ・・じゃア、パニーニャはどうなンダ? 仲良いんダロ?」
「確かに、チェスとか付き合ってくれるけど・・でも、パニーニャは恋愛なんて興味なさそうだし」
「ちっちっち。分かってネーなァ。ああイう、恋愛なんかにキョーミありませんッていうタイプを落とすのが、男の甲斐性といウか、恋愛の醍醐味なんダゼ。そーいうタイプほど、一度開花すると、とことン尽くスもんダ」
「んー分かるような気がする。ホークアイ中尉も仕事一筋そうに見えて、大佐が死んだってウソ聞かされたときは、すごいショックだったみたいでさ・・ってことは、パニーニャも恋したら、ああなるってコト?」
「ソソソ。女は化けるゾ。そのギャップが大きいほど、燃えるもンダ」
「ふーん、そんなもんかなぁ・・でもボクはリンがイイや・・とりあえず、今の気持ちは、ね」
「うーん・・まぁ、それまでにオマエがイイ女と出会うことを、ココロから願っておいてやるヨ」
「そんなの、願ってくれなくてもいいのに」
アルはあくまでも真面目なようだ。リンは頭が痛くなりそうだったが、まぁ、それがいつのことになるかなんて分からないし、それまでにはアルの気持ちも変わっているかもしれないし。
その前に、こっちの旅の目的を果たして、シンの国に帰っちまうという手もあるだろうし。
そう思っている時だ。さっきの“手応え”の気配が近づいてくるのを感じたのは。
ウソだろ? アルの肉体が、歩いてこっち来てるっていうのか?
・・バリー・チョッパーのように?
思わず立ち上がったリンの緊張を察したのか、アルも腰をあげる。そのとき、ドアがノックされた。アルが応対に出て・・リンはソファに座り・・そして、その気配は・・エドだった。
その瞬間、さっきのイメージがぴたりと、エドに当てはまっていることに気付いたのだ。
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