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Other Eden〜どこかにある天国

1. 東方の楽園


「アルフォンス・・」

「よして、こわいよ兄さんっ!」

小さな手に引っ掻かれて、夢見心地だったエドワード・エルリックは我に返った。腕の中には、涙ぐむ幼い顔。

「どうしたの? 兄さん、怒ってるの? 恐い顏して」

「・・アル・・か」

「アルか・・って、僕だよ? 兄さん?」

「いやぁ・・ごめん、寝惚けて誰かと間違ってしまって・・」

「間違ったって、誰と? 兄さん、ずっとアルフォンス、アルフォンスって呼んでたよ?」

「いや、その・・違うんだ・・」


アルフォンス・ハイデリヒ・・彼の肌に永遠に触れることができなくなってから、どれぐらいの日々が過ぎたのだろう? 病弱で儚くて、でも逞しくて暖かい・・

「違うって? アルフォンスって、僕の事じゃないの? それとも兄さんにとってアルフォンスって、別のひとのことなの?」

「いや、おまえはアルフォンスだ。アルフォンスは、俺のたった一人の大切な弟だ・・俺は・・ちょっと疲れてるんだ」

「だったら・・僕になにをしようとしていたの? どうして誰かと間違ったなんて思ったの?」

「それはその・・ごめん、アルフォンス。どうか気にしないでくれ・・俺は・・いや、頭を冷やしてくる。こんな夜中に起こしてしまって、悪かったな」

不安げにシーツの端を握りしめている弟の視線を、痛いほど背中に感じながら、エドはシャワールームに向かった。自分でもおかしいと思う。

会いたくてたまらなくて、でも、もう二度と会えないと覚悟していたはずの弟がここにいて・・でも何かを得ようとすれば同等の何かを失うという等価交換の原則通りに、こちらの世界のアルフォンスを失って。
どちらのアルフォンスを選ぶか・・などという選択はナンセンスだが、やはり血を分け、共に育った兄弟の方が愛しいのが人情というものだろう。だから・・この幼いアルフォンスと共に生きることが、エドに与えられた宿命だというのに。


蛇口をひねると、冷たい水がほとばしって、エドのほてった肌で弾けた。


なのに・・身体の奥でもうひとりのアルフォンスを欲している・・自分の生まれ育った世界とは法則が違う、同じ顔の別人がいる、夢の中・・というか悪夢のような世界にひとり放り出されて、唯一心を開くことができたひと。
弟と同じ名前、成長したらかくやと思えるよく似た顔・・自分を狂人とも思わず、思いの丈、別の世界の話を聞いてくれた、その優しさに甘えて、溺れていた。
姿形はそっくりでも、自分自身が、あるいはこの世界の住民のどちらかが、化け物なのではないか・・という不安に震えていたとき「同じ人間だ。どこも違わないよ」と抱きとめてくれて・・それがなかったら、自分は今までこの世界で正気を保っていられなかったことだろう。

家主のグレイシアは「ずっとこの下宿にいても良いのよ、家賃なんか気にしなくていいから」と言ってくれたのだが、あの部屋には、あまりにもハイデリヒの記憶が染み付いていて、つらい。


でも・・だからって、弟のアルフォンスが要らなかったわけじゃない。ああ、俺は一体、何を考えているのだろう?




俺が、本当に求めているのは・・




それから数日後、ある晴れた日の午後。
ウーファ映画撮影所の中庭に据えつけられた白木のテーブルについて、向かい合って話をしているのは、映画監督のフリッツ・ラングとエルリック兄弟であった。

兄のエドワードはここに来るのは2度目であったが、初めて来る弟のアルフォンスは、子どもっぽい好奇心いっぱいの表情で、キョロキョロしている。
やがて、ニーベルンゲンの舞台衣装のままの女性が、ティーセットを持ってやってくる。ラングとエドは一瞬口をつぐむ。アルがにっこり笑って「ありがとう」というと、女性もつられたのかニコッと笑った。

そして、女性が立ち去ってから、おもむろにラングが「来年あたり、私がアメリカに旅行に行こうと考えている・・というのは話していたな? 旅に出たいというのなら、一緒に行かないか? それまでの間はここに居たらいい」と、会話を再開した。

「冗談っ! それまでの間はここに居たらいいって、要するにあんたが出立する来年まで、俺たちに映画の仕事、手伝わせるつもりだろ!」

「おや、バレたかね」

「バレたって・・あんたっ!」

「・・兄さん、お願い事するのに、そんな態度ないでしょう?」

「ふむ? お願い事?」

「僕達、お金がないんです」

あまりにもストレートなアルフォンスの言い草に、さすがのラングも鼻白むが、エドワードが気まずそうに「親父が残した財産といっても、マルクだから・・このインフレで紙くず同然だしさ。せめてフランか、スイスフランで貯金しておいてくれてたら良かったんだけど」と言い訳のように補足する。

「ほほう、なるほどなるほど。確かに旅をするには金が要る。うんと要るな・・ところで、お父さんの財産は貯金だけだったのかね?」

「と、いうと?」

「私も慈善家じゃないんでね、タダではお金をやることはできない。例えば、お父さんの研究ノートなんかが残っていたら、それを私に売ってくれないか。映画の参考資料になる。かのホーエンハイム・エルリックの研究ノートだったら、私はいくらお金を出しても惜しくない。ああ、それと君と君のお友達は、ロケットの研究にも携わっていたそうだね。私はサイエンス・フィクションの映画も撮りたいと考えているんだ。ロケットに関する資料でもいい。それだったら、財団も出資してくれるぞ」

親父のノートか・・と、半ば乗り気になっていたエドであったが、ロケットの資料・・と聞いて、顔色を変えた。

「ハイデリヒのノートは、絶対売らないからな!」

思いがけず強い口調になってしまい、ラングはもちろん、アルフォンスもキョトンとした。エドは、自分が思わず椅子から立ち上がっていることに気づき、気まずそうに腰を下ろす。それでもエドは、口の中でぶつぶつと「ハイデリヒのノートは・・ダメだ」と呟いていた。

「そうか・・残念だなぁ。お父さんのノートもダメかね?」

「あれは持ち歩ける量じゃないから・・処分するのも金がかかるってんで、放ってある。あんたに引き取ってもらえるなら、却って都合がいい」

「じゃあ、決まりだな。マルクはダメなんだろう? ポンドではどうかね? 広く世界を旅するなら、英国領を渡る機会も多いだろうから、ポンドの方が何かと便利だろう・・少しここで待っていてくれ。小切手を書いてくる」

ラングがそう言い残して、席を立つ。アルフォンスはちょっと不満そうに「父さんのもの・・売っちゃうの?」と小声で尋ねた。

「いらねーだろ、親父のものなんか」

「そりゃ、兄さんは父さんが嫌いだから、平気かもしれないけど・・」

「捨てるよりマシだろ・・そっか、おまえ、親父の部屋に行ったことねーんだよな。すっさまじい量の訳わかんねーガラクタと書類の山だぜ?」

「父さんの写真とか、ある?」

「しらねー・・そうだな、ラングさんに引き渡す前に、ちょっとのぞいてみるか、アル。そんで、ひとつふたつ、欲しいもんがあればもらっていけばいい」

アルは「ハイデリヒって人の分は、絶対に売らないって言ってたくせに・・」と、文句を言おうとしたが、そんなことを言おうものなら、さっきの剣幕から推察するに、鋼鉄の拳が容赦なく飛んでくるに違いない。

やがて、紅茶がすっかり冷め切ってしまった頃、ラングが戻ってきた。結局、フランとポンドの2本建てにしたらしい。それも、高額だと換金できる場所が限られてくると気をつかってくれたらしく、少額でかなりの枚数の小切手を用意してくれたのだと気づいて、エドは「遅い、待たせすぎ」と文句を言おうと思ったのを、さすがに引っ込めた。

「それと、君たちが当てもなく“ウラニウム爆弾どこですか”などと訪ね歩くと、各国の軍隊が“どこのスパイだ”と思って警戒するのではないかと思ってね。考えたのだが、華僑のネットワークに頼るといい」

「カキョー?」

「あちこちの国に散らばってるチャイニーズ達だよ。ユダヤ人の母を持ちながらカソリックに改宗した私が、今さらユダヤ人のネットワークを利用できる立場ではないが、幸い、チャイニーズには知り合いがいる。私は10年ほど前、アジア各国を旅行したと言ったことがあるだろう? そのとき香港で、可愛らしいお嬢さんと出逢ったのだ」

「現地妻ってヤツか?」

「いや、残念ながら人妻でね・・で、先の大戦で旦那さんを亡くされたそうだが、そこから先がやり手でね。その遺産を元手に、娼館を経営し始めたというわけだ。彼女は香港の大物とも付き合いがあるそうだから、力を借りるといい・・フリッツからだといって、これを渡したまえ」

ラングが差し出した封筒を、エドが開けようとして「兄さん、他人に宛てた手紙を勝手に開けちゃだめだよ」とアルに制せられる。

「なんだ? 紹介状ってヤツか?」

「そうそう。彼女の名前は、リン・ヤオと言ってね・・香港はどこだか分かるな? どこかの港から船に乗るもよし、陸路で行くもよし・・九龍半島まで行ったら、そこのセントラルの・・住所は、だな・・」





エルリック兄弟がウーファから出てきたのを見つけたノーアが立ち上がる。

「遅かったのね」

「あのオッサン、話が長くてよぉ・・」

「旅費は工面できたの?」

「なんとかね・・ノーア、せっかく待ってくれて悪いんだけど、俺達ちょっと、親父ん家に寄ってくる。ラングさんに、親父の荷物を売るってことで話がついたんだ」

「そんな、お父様の物を売るだなんて・・なんだったら、私が占いや踊りで稼いであげても良かったのに」

「気持ちは嬉しいけど、ずっとノーアに頼っているわけにもいかないし、親父の荷物どうしようかって、ずっと考えてたから、ちょうどいい機会だし」

「そう・・」

故郷もなく両親もいないノーアにとって、家族の遺品というものに格別のノスタルジアを感じたらしいが、さすがに“お父さんの部屋に、一緒に行っていい?”などというのは図々しいと気づいたらしく、それ以上は何も言わなかった。









「本当に行くおつもりですか?」

そう聞くリザの声は地下都市の空洞に虚ろに響いていた。ロイは床に錬成陣を描く手を休めることなく、背中で「ああ」と返事をする。アルフォンスが扉を開いた錬成陣は、人造人間達が闘った後でメチャメチャに壊れていたが、その地面を丁寧にならして、ロイは根気強く、何日もかけてそれを修復していたのだ。

「何と言って引き止めようとも、私の決意は変わらん」

「分かっています」

「分かっているのなら・・」

イラッと声を荒げたロイは、振り向いて・・ポカンと口を開けてしまった。
リザは一糸まとわぬ姿で、髪止めも外したまま、立ってロイを見下ろしていたのだ。

「大佐があの気球にたったひとりで乗り込んだ時・・私はもう、大佐は帰って来ないものと覚悟していました。エドワ−ド君を追って、あっちの世界に行ってしまうのものと。そして、今ここにいるのは、単にその出立が遅れたに過ぎないだけなのだと・・」

「なっ・・ちゅ・・中尉っ! そのっ、服を着たまえっ! 未婚の女性がそんな、はしたないっ! 第一そんな色仕掛けで私を引き止めようなどと・・」

「色仕掛けなんかで、大佐を引き止められないのは、分かっているんです」

「だったらっ! 早く服をっ!」

「そうではなく・・大佐がここを去ってしまっても・・大佐が・・あなたが確かにこの世界に居たという証を残して欲しいんです。あなたが・・この世界に生きていたということを、忘れないための形見を残して欲しいんです」

「きっ・・きき・・君は自分が今、一体何を口走っているのか、分かっているのかね!?」

「分かっていますわ・・女ですから」

リザは両手を自然にだらりと下げた格好で、どこも隠そうとはしていなかった。表情にも恥じらいやためらいはなく、むしろ聖母にも似た緩やかな笑みすら浮かんでいた。

「・・大佐・・」

リザが一歩、にじり寄る。ロイは、腰が抜けたように、後ろについた両手と尻で後ずさる。両足の軍靴は地面をうまくとらえられず、何度も滑り、空を切っていた。もう一歩、さらに一歩・・やがて顔面蒼白のロイの背中が、大きな石くれに突き当たる。逃げ場を失ったロイの前に、リザがひざまづいて両手をゆらりと差しのべた。
だが、ロイはその手を振り払って小さな身体を乱暴に突き飛ばすと、猛烈な勢いで立ち上がり、駆け去って行った。尻もちをついた格好で取り残されたリザは、一瞬、状況が理解出来なかったらしく、キョトンとしていたが・・やがて、

「どうして商売女や・・男の子だったら抱けて、あたしじゃダメだっていうのよ!」

と絶叫すると、ワッと泣き出した。
やがて、リザの嗚咽が収まりかけた頃「風邪ひきますよ」との声と共に、パサリとコートがリザの体にかけられた。驚いて見上げると、そこには大柄な男が照れくさそうに目を逸らしながら立っていた。

「こんなイイ女が据え膳で迫ってるっつーのに、尻尾巻いて逃げ出すなんて、大佐もだらしないっすよね」

一体、いつから見られていたんだろう? 大佐がどうのこうと言っていることから、迫っている現場を見られたことは確実だ。リザは今さらのように羞恥心がこみ上げてきて、全身から湯気が出そうなほど赤くなりながら、コートの前を両手でかきあわせる。

「中尉・・その、子供が欲しいんだったら、俺でよけりゃ、協力しますけど?」


・・ドゴォッ!


猛烈なリザの膝蹴りが、ハボックの股間に入った。ハボックは、まるで巨木が切り落とされたようにぶっ倒れる。

「・・じょ・・冗談だったのにぃ・・」

うめきながら、のたうちまわって悶絶しているハボックには微塵も目もくれず、リザは脱ぎ捨てていた自分の服を拾い上げて手早く着込むと、すたすた歩み去っていった。






お前のいない世界なんて、どうでもいい。世界とは・・お前の存在そのものだ。


生きていると思っていた。いつか会えると思っていたからこそ、自分なりの方法で罪を償いながら待っていた。
そして・・帰ってきたと知ったから・・彼が帰ってきたということは、自分への刑期が満ちた証だと思ったから・・中央に戻ってきた。戻って、彼を救い共に戦い・・再び同じ天地で生きていけるのだと信じていた。

なのに。

「こいつらを向こうの世界に返さなくちゃな」

そう言って自分と彼の間に作られた亀裂・・それは最初はほんの数ミリ幅で・・やがて離れていき、数十センチになり、数十メートルになり・・最後には永遠になった。
アルフォンス・・まだ小さかった頃の鋼のにそっくりな、黒いボレロに赤いコートの金髪の少年は、とっさに向こう側に飛び移り、自分は足が瓦礫に吸い付いてしまったかのように、動けなかった。

自分には、こちら側でやることがあるから・・こちら側で、扉を封印しなければいけなかったから。

そういう言い訳は、後で思いついて付け足したものだ。実際には足がすくんでいたのだ。それが上空何百メートルという位置だったからではない。跳躍力が足りなかったからでもない。
飛び移って・・無条件で彼に受け入れてもらえる自信がなかったのだ。

アルフォンスのように、図々しいほど無邪気に飛び込めるほどの純粋さが、自分にはなかった。
必ず受け止めてもらえると信じ切っている信仰にも似た・・強い絆が、自分の側にはあると思っていても、相手に本当にあるのかどうか、不安で。拒まれるのが恐くて。

情けない。セントラル中の女のハートを一手にしたプレイボーイのこの私が、たかだかひとりの・・しかも少年相手に、何を臆病になっていたのか。



そして・・




数時間後、錬成陣の場所に戻ってきたロイは、人影がないのを認めて、ホッと息をついた。
女性が・・それも、プライドの高いリザが、あそこまで思い詰めていたのに、恥をかかせるような事をして心苦しいのは確かだったが、どうしても、あのとき・・そして今も・・あんな理由で彼女を抱くなんて、できなかった。
そうしてしまうことは、一見、彼女の望みを叶えるようでありながら、実際には彼女に対して、最大の侮辱、最大の裏切りを与えるだけなのだ。ああして拒むことが、自分の精一杯の誠意だと・・いや、これも後付けの理屈なのだろう。

もう、私の顔など見たくもないだろうし、とてもじゃないが、お互いまともに顔を見られないだろう・・せめて、今のうちに、そっと立ち去ろう。



「私の肉体を対価に、この扉を永遠に封じたまえ!」



支払われた対価は・・エドワードがアルフォンスの魂を呼び戻すために肉体を差し出した時と同様に・・あの世界に送り込まれるに違いない。








・・エドワードがいる世界に。








猛烈な光と、吹き付ける風、そして闇と、吸い込まれるような感覚、けらけらと嘲笑うような声が聞こえたかと思うと、全身がくまなく押しつぶされ、全身の細胞が粟立つような感触、そして内臓が裏返って・・逆さまに再構築されていく。視覚が、聴覚が、嗅覚が、触覚が・・次々に閉じられていき、やがて・・何もなくなった。










中庭で女達が騒いでいた。また謝寿歌が猫でも拾ってきたのかと、娼館の女主人はため息をつく。

『おまえ達、はしゃいでないで、とっとと寝ちまいな! 今晩、眠たくなって、稼げなくても知らないよ!』

怒鳴りながら近づく。女達がキャッと悲鳴をあげて飛びのくと、その輪の中に黒髪の男がうつ伏せに倒れているのが見えた。やや小柄で、肩口に階級章とおぼしきバッチが並んでいる、軍服のようなデザインの青色の詰め襟とスラックス・・だが、リンの記憶の中にある、どの軍隊の制服でもなかった。
フランス軍も似たような青い上着だが、スラックスは赤色だ。しかもその軍服は戦場では目立つというので、すぐに薄い空色にモデルチェンジしている。ちなみにドイツ軍は緑色、英国軍はカーキー色だ。

『なんだい? 誰が拾ってきたんだい、こんな・・?』

『ア、すみません、自分デス。そノ・・行き倒れていたのでデ』

執事のブロッシュが申し訳なさそうに、たどたどしい広東語で言うのを、じろりと切れ長の目で睨みつける。

『そんなもん、うちに運んで来ないで、ドクター・ノックスんとこにでも持って行けば良かったのに』

『ノックス医師には連絡しています。謝寿歌が呼びに行きました』

『謝寿歌? あの娘、ドンくさいから途中で迷子になるぞ。まったく、おまえ達と来たら・・』

ハイヒールを履いた足で、男の肩を蹴ってひっくり返す。その虚ろな顔を見て、リンはギョッとした。

『・・そうなんです。ですから、ここにお連れしたんです・・』

『バカッ! だったら、こんなとこに転がしておくんじゃないっ!』

リンは、さっき自分が男を蹴り転がしたことなど棚に上げてブロッシュを怒鳴り上げると、うっすら汗ばんでいる男の額に、前髪が張り付いているのをそっと指で梳く。

『ああ、後はやっておくから、女は部屋に帰りな。ブロッシュはこの方を、館の・・ソファにでも寝かせておいて。あ、瑪利亜、おまえは残って・・謝寿歌が迷子になっていないか探しにお行き』

『かしこまりました』




実際には、謝寿歌はなんとか無事、ノックス医師の家にたどり着いたらしく、瑪利亜が迎えに行くまでもなかった。

「あんたの店からの呼び出しに、ロクなもんはないな。客が阿片中毒の発作を起こして暴れただの、岡惚れした客に恨まれた女が斬られて怪我しただの、客のアレが女から抜けなくなったから、何とかしてくれだの・・」

少女に連れられて館に入ってきた無精ひげだらけの中年男は、フィルターを噛み潰した紙煙草をくわえて、ぶつくさ言いながらソファに寝かされた男の手首を取った。

「厄介ナ分、たんまり金払っテるダロ?」

「まぁな・・脈はハッキリしている。酒や阿片中毒で倒れていたという訳ではなさそうだな」

「・・熱射病?」

「さぁ? だが、数日食べてないことは確実のようだな。特に何の病気でもないようだし、とりあえずブドウ糖でも点滴しておくか」

「ヤブ医者・・」

「文句があるなら、俺みたいなモグリの医者に頼るんじゃねぇ。あんたのコネなら、軍医ぐらい引っ張ってこれるだろうが」

「英国軍の方にお願イするト、モレナク、アームストロング少佐がついテくるカラ・・」

「ははは。確かにな。そりゃあ、旦那さんと少佐は、旧知の仲だったっていうからな。それの嫁さんが困ってるとなりゃあ、手助けしたくなるのが人情ってもんだろうが・・あれが暑苦しいのもよく分かる」

ノックスは苦笑しながら、意識の戻らないままの黒髪の男のシャツの袖をまくると、遠慮なく点滴針をぶち込んだ。

「ところでこの男、身元を証明するものは持ってなかったのか?」

「財布も身分証もナイ・・フランスの軍服に似てルケド、どこの軍隊でもナイ」

「どこかの秘密組織の兵隊か・・? だから、そういう厄介ごとには巻き込まないでくれと・・ドッグタグはしてなかったのか?」

「ドッグタグ?」

「兵隊の身分証明書だよ・・首から下げた小さなプレートでな・・一見、ただのネックレスのようだが、名前と血液型と生年月日を刻んであるんだよ。戦死してもすぐに身元が分かるように、な」

「そんなモノ、死体がなきゃ、役に立たないヨ」

ノックスは“彼女の夫も戦死・・いや、正確には戦場で行方不明になり、戦死扱いになったのだ”と思い出して、しまったという表情になるが、リンは眉筋ひとつ動かさなかった。
代わりに、手を伸ばして男のシャツの襟のボタンをひとつ、ふたつ外す。果たしてそこには、銀色のチェーンがぶら下がっていた。そこに刻まれたアルファベットを見たリンの表情が凍りつく。
西洋女なら、ここで「オウ、ゴッド!」などと叫び額に手を当て、大袈裟に卒倒するところだが、リンは低い声で、そのスペルをゆっくりと読み上げていた。

「R、O、Y・・・M、U、S、T、A、N、G・・・」





「ロイ・ムスタング!? あんたの旦那の名前じゃねぇか!」

「顔も・・ソックリなんだ」

「なんだって? 本人か?」

「でも、このタグ、生年月日、オカシイヨ。日付けも違うシ、1885年じゃ、40歳ダ」

「あんたの旦那、その、生きてたら・・35歳か。ちょい、微妙だな。でもこいつ、40歳には見えねぇよな・・いくら童顔だって言っても、これで40歳は、絶対ない」

「血液型もチガウ」

「じゃあ、他人か?」

「デモ・・そっくりダ」

「ドッベルゲンガーってヤツかな」

「ドッペルゲンガー?」

「世の中には・・それは同じ地球上かもしれないし、別の世界かもしれねぇが・・ともかく、そっくり同じ人間がどっかにいるんだとよ。まぁ、非科学的な話だがな」

そう呟くと、ノックスは薄気味悪そうにブルルッと肩を震わせ、何かを振り払うように煙草に火をつけた。






黒眼鏡に黒く丸い帽子の、一見ただの冴えないひょろっとした男だが、ミスター・ハンは表の顔は名馬路商界総連合会の会長であり、裏の顔はこのあたりの阿片窟の悪党どもを束ねる首領だ。
そのハンと差し向かいで座って、紹興酒などをちびちび舐めているのは、リンであった。

『ハンさんでも分かりませんか・・』

『うむぅ。何日かでもこのあたりをうろついていたら、新顔はすぐに気が付くはずなんだがな・・まぁ、最近は商人よりも苦力が多く流れ込んで来ておるからなぁ』

苦力はクーリーと読み、中国人の人夫のことだ。香港は昔、小さな漁村であり、英国領になってからは中間貿易で栄えたのだが、最近の不安定な情勢下では金持ちは次々と逃げ出してしまっているのだという。

『あの人は苦力ではありませんよ』

『分かっておるわい・・しかし、見たことのない軍服だな』

ミスター・ハンは首をひねりながら、写真をリンに返す。

『それで? この男が目を覚ましたら、どうするつもりだね?』

『さぁ・・どうしたものか。ではハンさん、何か分かりましたら、教えてください。それじゃ・・』

『そんな、もっとゆっくりしていったら・・』

だが、リンはするりと抜け出すように部屋を出ていき、ミスター・ハンはぽつねんと取り残される。
うむぅ。また逃げられた・・まったく、いつになったらわしの愛人になってくれるのやら。





華やかな通りから少し外れたところにある、こじんまりした上品な洋館がリンの屋敷だ。
門をくぐりながら、門柱と塀を這わせている蔦が少し伸び過ぎてるな、とリンはふと思う。庭師のフーに命じて、少し手入れをさせておこう・・そして庭をぐるっと見回し・・あれ、あんなところに銅像があったっけ? と訝しがる。

「・・ムスタング夫人っ! 大佐がお戻りになったというのは本当ですかっ!?」

銅像が動いた・・と思えば、それは巨躯に口ヒゲがチャームポイントのアレックス・ルイ・アームストロング少佐であった。

『アイヤーっ・・誰だ、アームストロング少佐に喋ったのはっ!』

動揺したリンは一瞬、英語が出てこなかったが、危ういところで我に返り、アームストロングのその名の通りの豪腕に抱き締められる前に、身を翻して逃げた。

「・・誰から聞いタッ!」

「我輩、ノックス医師から連絡を受けましてな。何日も目を覚まさないとのことで、我輩と再会すれば目を覚ますのではないかと・・」

ショック療法か。しかし、目覚めた途端に視界に入るのが少佐では、そのままショック死してしまうのではなかろうか。相変わらず乱暴なヤブ医者だ。
それに・・今、館にいる連中の中で、ムスタング大佐の顔を知っているものは少なく、リンを含めた皆が、本物かどうか、確信が持てないでいる。アームストロング少佐は、リンよりも長くムスタング大佐と交流があったのだから、何か気付くかもしれない。
リンは仕方なく、少佐を案内して館に入ることにした。

「できれば、少シ静かにシテくれナイカ? 店のオンナノコは昼間、寝てイルンダ」

玄関に入ってすぐの、瀟洒な蔦飾りの付いた白い手すりの階段を昇る。天井からは小ぶりながら可憐なシャンデリアがぶら下がっている。その階段をバタバタと黒服の少女が降りて来た。この娘は“店のオンナノコ”ではなく、小間使いのランファンだ。

『お館様、目を覚まされました』

「彼女は、何と言っておるのですか?」

「目を覚ましたっテ・・『ランファン、何か言ってた?』」

『それが・・何も覚えていないと・・お名前も、お生まれも、どうしてそこに倒れていたのかも』

『一応、ドクター・ノックスに来てもらおう』

『かしこまりました』

ランファンは一礼すると、階段を駆け降りていき・・途中で面倒になったらしく、踊り場からは、下へポンと飛び下りた。

「少佐の顔を見たら思い出すカモネ・・インパクト強過ぎダカラ」

廊下ではそんな軽口を叩いていたリンであったが、いざ客間の扉の前に来る頃には、笑顔が引きつっていた。額ににじむ脂汗を拭って、恐る恐るノッカーを叩く。

「どうぞ」

リンとアームストロングが、顔を見合わせた。声まで似ている・・本当に、先の大戦で消えた彼なのだろうか? それとも良く似た他人なのか。



不安で潰されそうになりながらも、リンはゆっくりとノブを回した。

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【後書きその1】とりあえず、ごめんなさい、ごめんなさい・・!
途中までは『応竜』の伏線なしでもいけるや、つーかホントのラストまでは、いらねーや・・ということに気付いてからは、思わず突っ走っちゃいました! といっても、まだ登場人物の顔見せだけで、エド×ロイをうたっておきながら、まだ出逢ってもいないし・・というか、冒頭でいきなり、にーちゃん、弟をレイプ未遂だし。
映画を見に行ったおかげで、すっかり頭のモードがそっちに逝ってます(いや、だって『応竜』暗すぎるし、今ンとこ)。

で、今回は、リンを出したいからと無理矢理、女体化させてまで登場させたんですが・・この設定だったらリンである必要、なかったんじゃ・・ランファンでもリザでも良かったんじゃね? と、正座してセルフ突っ込みで小一時間・・(ry

友人の「映画自体が、壮大な二次創作。扉の向こうはパラレルワールド♪ということでOK!」という心強い台詞を頂き、勇気凛々! 勢いがあるうちに妄想全開で垂れ流します!・・つか、これで連載もの3つか・・いい加減に仕上げないとダメじゃン(自爆)。
初出:2005年8月9日
一部訂正:同月13日
ハイデの名前誤植発見(今頃・・)訂正:同月24日
掲載場所移動&サブタイトル改題:同年12月07日

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