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Other Eden〜どこかにある天国

4. イヴの誘惑


簡単には見つからない・・とは分かっていたが、こんなに時間がかかるとは、依頼した方もされた方も思っていなかった。気付けば、季節は初夏に差しかかっていた。




「これだケ探してもナイとなるト、ホントにナイのかもヨ」

リンはハンの屋敷から帰って来るなり、身を投げ出すようにリビングのソファに身を沈めた。向かい合わせに座っていたエドを意識しているのか、いないのか、長い足を組むと、チャイナドレスの裾が割れて白い太腿とがちらりとのぞいた。そのまま、裾を直そうともせずリンが細巻きたばこをくわえると、ブロッシュがすばやく膝まづいて、マッチをすって火をともした。

「そんなこと・・」

「ダッテ、ハンさんのネットワークに全然引っかかっテこないし、英国軍にもソーイウ兵器の情報ハ入ってキテナイみたいダヨ。フュリーさんモ、最近、キナ臭くなってキテ、英国軍モなにかト忙しくなってルのに、その任務の間を縫っテハ、あちこちの国ノ軍事通信ヲ傍受して、チェックしてくれタッてユーし」

「そう・・なのか」

エドがうなだれて、ため息をつく。無ければ無いに越したことはない。だが“本当に無い”という状態と“単に見つからないだけ”という状態では、それこそ天と地ほどの違いがあるのだ。
しかし・・それをどこで見極めたら良いのだろう?

「ドースンの? 見つかるまで探ス? それまデここに居ル?」

「・・分からねーや。俺達今のところ、ともかくそれを見つけ出すという目的しかないし・・見つけたらそいつを処分してしまいたいと思ってるけど、それが済んだらとか、もしも存在しないと分かったらどうする・・なんて、先のことは考えたこともない」

「フーン・・」

リンが長く紫煙を吐き出す。

「マァ、ラングさんノ紹介状もあることダシ、当分の間ハ客人として扱うケド・・」

「迷惑なら出て行きますよ?」

「そこまでハ言ってナイヨ。出て行くッたっテ、行くアテ無いンでショ?」

「まぁ・・そうですけど」

当てもなく探し物をしながら旅をすること自体には、慣れている・・だが、問題は資金だ。
アメストリス国で賢者の石を探していたときには、国家錬金術師として豊富な研究費を軍から与えられていたために、旅費や食費に困ることは無かった。あの頃は子どもだったから、それがどれだけ恵まれた状況なのか考えたこともなかったし、その金が国民から搾り取られていた税金だったなどということも知らなかった。
だが、この世界ではそのような特権はない。

働いて稼ぐ程度の金では、食べていくのが精一杯だ。どこかでパトロンを見つけるか?
だが、そのウラニウム爆弾をくれてやるというのなら、どこの軍でも資金を出してくれるに違いないが、失くすための旅と聞いて尚、金を出してくれる物好きはそうそう居ないだろう。
酔狂な道楽者・・映画製作のために竜を捕まえようとするほど物好きなラングですら、父ホーエンハイムの研究ノートを、映画の資料として買うという名目があったからこそ、小切手を切ってくれたのだ。
エドひとりなら、あるいはハイデリヒが生きていたなら、とうの昔にそんな当ても無い捜索などあきらめて、再び彼に甘えるだけの無気力な生活に溺れていたかもしれない。

「唯一、可能性がありそウなのハ、アメリカだナ。ドイツでユダヤ人が迫害されている影響デ、ユダヤ人科学者が次々亡命していル・・アイデア自体はあるみたいダカラ、まだこの世界デ作られていないとしてモ、将来、資源が潤沢なアメリカ軍ガ実現させルかもしれナイ」

「アメリカ・・かぁ」

「もちろん、それハ君たちが探すウラニウム爆弾そのもノではナイけどネ・・ただ、君達の“危険ナ兵器を失くしたい”トイウ目的にハ合致するンじゃナイ? まぁ、ハンさんモ、フュリーさんモ、も少シ調査ヲ続けてくれルってユーし、それまでハうちにいたらイイ。皆、一文にもならないのに、一所懸命やってくれてルんだかラ、今度逢ったら、ちゃんとお礼言うんダヨ?」

「ああ、それは・・とても感謝してる。あんたにもだ」

そんなエドの力ない口調に、リンは肩をすくめる。紫煙が竜を思わせる形に膨れ上がり、やがて薄れて消えていった。






エドが、兄弟に与えられている寝室に戻ると、タキシード姿のアルフォンスが、鏡の前で苦戦していた。どうも蝶ネクタイがまっすぐ結べないらしい。

「・・何してるんだ? アル」

「ブロッシュさんと首周りの大きさが違うからさ、ネクタイに結びグセがついちゃってて、どうしても曲がっちゃうんだ」

「はぁ?」

見れば、確かにそれは借り物らしく、ズボンの裾は折り返してあるし、袖口も余っている。

「なんでおまえが、ブロッシュさんの服着てるわけ?」

「執事の仕事を手伝おうと思って」

「わざわざ着替えてまでか?」

「それでね、ひと通り一人前に仕事できるようになったら、アームストロング少佐のお屋敷あたりで雇ってもらおうかなって。ほら、ここでご飯食べさせてもらってるから、あんまりお金減らないけど・・それでもドミニクさんがくれたお給料、最近底をついてきちゃってるでしょ?」

気力が萎えかけている兄と違って、アルはアルなりに現実を直視して行動する決意をしたらしい。

「こっちの世界では、お金がないと、どーにもならないみたいだし・・こういうの“当世流”の言い方で表現したら“資本主義”って言うんだってね? それに、ただゴロゴロしてても退屈だしさ」

「あっちの世界でも一応、金は必要だったんだぜ?」

エドはアルの逞しさに内心舌を巻きながら、ネクタイを結び直してやる。執事で稼ぐ金なんて、たかが知れているのに。

「アルフォンス君、準備はできたかい? 身支度、あんまり遅いと雇い主に叱られるよ?」

ブロッシュが呼びにくる。アルは「はい、今行きます」と明るい声を出すと、弾かれるように部屋を出て行った。エドはその姿を見送ると、辛うじて残っていた気力までアルに持って行かれたような気がして、ベッドに倒れこんでしまう。
そんな小銭じゃ、俺たちの旅はどうにもならないんだよ、アル・・だが、その小銭すら稼げない自分に、それを言う資格はない。

大佐は・・どうする気なんだろう?
いや、記憶が戻っていないのだから、当たり前のように、この屋敷で雇われ用心棒として暮らしていくのだろう。もしかしたら、ここの女主人と結婚して“旦那様”になるのかもしれない。そうなったら・・子どもを作って育てたりするのだろうか? 父親になった大佐なんて、全然イメージできない!

エドは何回も寝返りを打つが、眠れそうにもない。かといって、起き上がって何か活動しようという気にもなれない。こんなとき、ハイデリヒが居てくれたら・・エドは胸が苦しくなって、せめて枕を抱きしめてみる。

「・・アルフォンス・・」






「まずはお館様のお部屋の掃除だ」

「はい」

「脚立に登って、天井の扇風機のホコリをまず落としてから、調度品やその回りのホコリを払っていく。高価な品があるから、決して壊さないようにね。かといって、その周りを避けて拭いて、汚れを残してもいけないよ」

「はい」

「あ、それから、絵も軽くはたきをかけてね。但し、傷めないようにそっと・・」

「はい・・あの、これもですか?」

アルは丁寧にはたきをかけて回りながら、ビロードのカーテンがかけられた額縁の前で立ち止まった。
中世、油絵の類いはカーテンをかけて汚れないように保存され、鑑賞する時のみカーテンを開けたと言われているが、20世紀にもなって、同じ理由でそんな古風なことをしているとは思えない。いや、絵を保護したいのなら、他の絵だって同じように守るべきだろう。

何か、特別な絵なのだろうか・・そう直感して、他のと同じ扱いをすることがためらわれたのだ。

ブロッシュも振り返ってそれに気付き「ああ、それね・・それはおいといて」と言う。

「あの・・これって・・何が書かれてるんですか?」

「見たい?」

「いけませんか?」

「いけなくはないよ・・旦那様が居なくなられてから、見るたびにつらいとお館様がおっしゃるから・・でも、せっかくラング氏が描いてくれたものだから捨てられないというし。困ってしまってね」

そう言いながら、ブロッシュがカーテンを引く。大きな肖像画であった。ほぼ等身大で寄り添う男女が描かれている。

「・・あ・・リンさんと、大佐・・?」

「旦那様だよ」

「そっか・・そっくりだって言ってたよね。この絵、リンさんは、実物の方がきれいだね」

「そう・・だね。お館様はお美しいから」

「ラングさん、絵が下手だから画家諦めて、映画監督になったのかなぁ?」

「さぁ? まぁでも、この頃はお館様はここに来たばかりだったし」

「ふーん・・こっちの旦那様の方が、スマートで二枚目だね」

「そんなの、当然だろ?」

そして、カーテンが閉じられる。アルは何かまずいことを言ってしまったかなと反省したが、ブロッシュはすぐに気を取り直したらしく「さぁ、仕事仕事。お館様のお部屋の次は、応接間だよ。その次は窓を磨く予定なんだからね」と、言って、両手をパンと打ち鳴らした。






「どうしてお金持ちなのに、娼館なんてやってるんですか?」

アルはブロッシュと一緒に脚立に登って、屋敷の外窓を磨きながら、ふと、ずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。

「ただ食べていくだけなら、切り詰めて生活すれば、預金の利子でなんとかなるんだけどね・・お館様はもっともっとお金を貯めて、いつか孤児院を作りたいって思ってるんだよ。旦那様が居れば、こんなことをしなくても、それぐらいできる財力はあった筈なんだけどね」

「孤児院?」

「お館様は元々、孤児でね。ある西洋人の養女だった時期もあるんだけど、その養父も失踪したとか・・それで食べていくのに街娼をしてて、そこを旦那様に見そめられたって訳」

「そう・・なんですか」

「アメリカでは女性の地位が向上させようって運動が盛んで、女性でも就ける仕事が色々あるらしいけど、アジアはまだまだだね。かといって英国も封建的で、てんで“当世流”じゃないし。だからお館様は、街娼時代の仲間から同志を募って、娼館を立ち上げたって訳。その代わり、うちは他所よりも女の子達を大切にしているし、客層も英国軍の将校やハンさんの紹介状付きがメインだからね。間違っても、梅毒持ちなんて紛れ込んでこない。だから娼館とはいえ、その辺は心配しなくていいよ」

現代では抗生物質を服用すれば即、治ってしまう“梅毒”も、この時代ではまだ不治の病であった。それも、単に性器がただれるだけでなく、鼻や耳がもげてしまうほど全身の肉がとろけて、苦しみながら死に至るのだ。ちなみに、ペニシリンが発見されて梅毒が克服されるのは、約二十年も後のことだ。

「ここのおねーさん達が大事にされてるのは、なんか分かる気がするな。お客さんもたまに見かけることがあるけど、皆さん、とても紳士だよね」

アルは、ワイマール共和国に居た頃を思い出していた。敗戦直後のドイツでは、猛烈なインフレで貨幣価値が下がり・・つまり国民の財産は使わずして目減りし、札束も紙くずと化していた。男ですらまともな職がないというのに、ましてや女が収入を得ようと思えば、体を売るより他ない。薄暗い路地裏に一歩入れば、たちまち乞食のような街娼らに袖を引かれた。
実際にアルがミュンヘンに居たのはほんの短い間だったし、まともに彼女らの相手をしたことなどもちろんないが、遠目に見ていても彼女らの悲惨さは伝わっていた。それに比べて、ここの娼婦達の表情は明るい。もちろん、それが全ての理由ではなく、街そのものの活気や気候風土の違いも、大いに影響しているだろうけれども。

「そうそう。だから用心棒が必要になる事態なんて、めったにないんだけどさ」

それは言外に、ロイのことを当てこすっているのだと、アルにも分かった。
兄さんも、ボヤボヤしてると槍玉に挙げられちゃう・・僕がしっかりしなくちゃ。

「うん、フーさんやランファンさんも武術強いしね。リンさんも・・こないだ組み手に付き合ってもらったんだけど、僕、圧倒されちゃった。あんなの、イズミ先生以来だったなぁ」

「お館様は、街娼時代には相当やんちゃだったっていうし、旦那様に引き取られてからは、手加減の仕方が分かっていないから、もしも人を殺したりしたら大変だっていうんで、旦那様の職場で護身術の類いをきっちり習ったそうだよ・・なにせ、お館様が来たばかりの頃は、旦那様も色々、咬みつかれたり引っかかれたりと、生傷が絶えなくてね・・よく狂犬だの野良犬だのって・・」

何を思い出したのか、ブロッシュがクククッと笑い出した。途端に脚立が揺れて、バランスを崩す。とっさにアルはブロッシュを支えようと手を伸ばしたが、いくらブロッシュがヤサ男だったとしても、少年が片手で大の大人を支えきれるわけがない。

「う、あ、あああああああああ!」

ふたりは豪快な悲鳴を上げながら仲良く転げ落ち、庭の地面にお尻をいやというほどぶっつけたものだ。






ピアノの演奏が中断された。廊下には、その余韻がまだ甘く響いている。

「あれは・・何の音だろう?」

「サァ・・ブロッシュの声みたイだったケド?」

そして・・忍び笑い。
ピアノの鍵盤がひとつ、ふたつと鳴らされる音。

「見に行った方が良くないか?」

「窓磨くトカ言ってタから、コケたんじゃないカナァ・・ドンくさいカラナァ、ブロッシュ」

「ふーん?」

「ヤァダ・・くすぐったイ」

それから、しばし沈黙と、やがて鍵盤の上に何かを置いたような、無秩序な音。

「蓋が倒れたら危ないな。閉じておこう」

「あなたがイタズラしなかったラ、危なくないヨ」

「それもそうだな」

そして・・やがてクスクス笑う声。

「ココで?」

「イヤか?」

「ベッド、近くにあるノニ」

「趣向が変わって、良くないか?」

「変なシュミ」



盗み聞きをするつもりはなかった。エドはただ、アルの悲鳴に何事かと部屋を飛び出して・・つい、ロイの声に立ち止まってしまっただけだ。
だが、思わず足が床に吸い付いて動かなくなってしまった。

唾を飲み込む。

あの声は、あの口調は、あの台詞は、昔と全然変わっていない。きざで甘ったるくて虫酸が走りそうで、でも、愛おしくて・・あれは昔は、あっちの世界では、俺に向けられていたのに。

やがて、切れ切れに嬌声が聞こえてきた。こんなもの、聞きたくない・・そう思っているのに、エドは凍り付いたように、最後までその場に立ち尽くしていた。

「アレ・・誰かそこにいるノ?」

「猫じゃないのか?」






夕飯の時、エドは、まともにリンとロイの顔が見れなかった。ふたりとも、すました顔しやがって、あんな・・おかげで何を食べても味を感じられず、まさに砂を噛むような気分であった。
一方、リンは細身の身体に似合わず、男性顔負けの豪快さでもりもりと皿を重ねていく。あれだけ“運動”していれば腹も減って当然か、と思うと余計にエドは腹立たしい。

「私と同じペースで食べたラ、太るヨ、ロイ。私、ヤセの大食いダカラ」

「ヤセか? 肉を全部、胸に貯えてるだけだろ」

「食事中ダヨ。品のナイこと言わないデ」

さらに、アルも執事修行と称してこき使われた結果、腹ぺこで次々とお代わりを重ねている。しまいにはエドがそっと押しやったエドの分の皿まで平らげたので、誰もエドがほとんど食事に口をつけていないことに、気付いていなかった。

しかし、情けないことに真夜中に、エドは腹がすいて目が覚めてしまった。食堂に行ってもパンクズひとつ残さずブロッシュに片付けられているだろうし、食料庫には鍵がかけられている。かといって、こんな時間ではブロッシュを叩き起こして何か作ってもらうわけにもいかないし・・別館のお店の方に行けば、酒やおつまみの類を置いているかもしれないが、さすがに女の子も客も寝ている(か、あるいは“お仕事中”)だろう。

「ちくしょー・・眠れねぇ・・」

アルのやつ、どっかにお菓子でも隠してないかな、と思ってこっそり起き上がった。女の子達に可愛がられているアルは、時折、いろんな砂糖菓子や玩具の類いをもらうのだ。僕、こんなのもらって喜ぶような年齢でもないんだけどなぁ・・と言いながらもマンザラでもなさそうで、捨てずに置いているらしい。
そっとアルの鞄や衣装棚を捜し回っていると、アルが目を覚ましかけたのか「ンー・・」と唸った。その声に、エドはドキッとする。

「アルフォンス・・?」

「なに・・してるの?」

「何って、その、おまえどっかに、お菓子かなんか・・その、腹ァへっちまってよ・・」

アルがゆるりと片手を差しのべてきた。それが寝惚けての行動かどうかははっきりしない。ただ、エドは吸い込まれるように、その手をとっていた。青白い月明かりに照らされた、虚ろに開いた瞳に、うっすら開いて白い歯を覗かせる幼い唇、寝乱れる金髪・・エドは一瞬、自分が何をしていたのか忘れた。弟の白くふっくらした頬に、食欲に似た倒錯した欲望を感じ、思わず身を屈めて・・

「うっ、うぁああああっ! 何してんの、兄さんっ! やだ、やめてよぉ!」

驚いたアルの膝蹴りが、モロにエドの鳩尾に決まった。
のたうちまわって苦しんでいると、悲鳴に驚いたブロッシュ達が駆け付けてきて・・その頃になって、アルもようやく本格的に目を覚ましたらしい。

「あれ・・どうしたの兄さん、だ、大丈夫!? 誰にやられたの? えっ? 僕?」






その翌日。中庭で女の子達が集まって輪になり、なにやら「あなたどう?」「私は嫌」などと騒いでいた。挙げ句に誰が言い出したものやら、ジャンケン大会になったらしく、笑い声とジャンケンのかけ声が響く。

「何だろうね、楽しそうだね」

今日も執事修行に行くつもりなのか、身支度をしていたアルがそれを窓から見下ろして、兄にそう話し掛けるが、エドは「あ、そうだなぁ」などと、ボンヤリしている。

昨夜の事、まだ怒ってるのかなぁ、そりゃどうやら寝惚けて本気で蹴ったらしい僕が悪いのかもしれないけど・・一応、謝ったんだから、いつまでも拗ねていることないのに・・アルは付き合い切れないという様子で、もう一度鏡を覗き込んで蝶ネクタイをチェックしてから部屋を出ていった。

「ブロッシュさーん、ねぇねぇ、あれ、何してるんだろうね?」

「さぁ・・僕も分からないんだけど」

「へぇ? ねぇ、ちょっとのぞいてみたんだけど」

「こらこら・・まぁ、いいか。急がない仕事だし」



ブロッシュとアルが中庭に出た頃には、敗者が決定したらしく、謝寿歌が半べそをかいていた。

『あーんたって、ホント、トロイのよねー』と、他の女達が笑っている。

「あのぅ? 皆さん、何をしてるんですか? 何かの罰ゲームですか?」

「罰ゲームぅ? そうね、一種の罰ゲームみたいなものかなぁ? お館様のお言い付けでねぇ」

「掃除か何かですか? そういうのでしたら、僕が代わりにやりましょうか?」

それを聞いて、女達はドッと笑う。

「あっはっはー謝寿歌、代わってもらったら?」

「えっ、そんな・・アルフォンス君、代わってもらえるんですかぁ?」

「アル君には無理だってば、あんたね、何考えてるの」

「だっ、だぁってぇ!」

「あ・・あのう、僕には無理って、どんなことなんですか? 謝寿歌さんが本当に困ってるんだったら、僕、頑張ってみますけど・・」

無理と言われてムキになったアルが、そう言い募るが、謝寿歌は困惑するばかりだ。

「仕方ないわね・・私が代わってあげるわ。だから、アルフォンス君は心配しなくて良いのよ。ブロッシュさん、大騒ぎしてごめんなさい。アルフォンス君、気持ちだけはありがとう。でもこれ、あたし達の仕事だから」

呆れ果てたという調子で、泣きぼくろに黒髪のショートヘアの女性・・瑪利亜がそう言い出す事で、なんとか場が収まった。

ブロッシュとアルが中庭を出ていくと、女の子のひとりが『本当は謝寿歌が適任だったのにねぇ。あんた、エド君と仲良くデートしたりしてるんでしょ?』と、当てこする。

『そっ・・そんなんじゃないんですよ! あたしはただ・・』

そこで一度、謝寿歌は周囲を見回してから、小声で『あのノートの写しを完成させなくちゃいけないから』と続けた。

『特殊能力がある人は良いわねぇ・・どーせ、アタシはセックスしか能がないですよぉ、だ』

『貝尼莎、そんな言い方はおよしなさい』

瑪利亜にぴしゃりと言われて、謝寿歌に絡んでいた長身の少女は肩をすくめた。

『あなたにだって、得意なことはあるでしょう? ほら、あなた、チェスが上手じゃない。手伝ってもらいたいことがあるのよ』






その晩・・アルは貝尼莎に誘われて、彼女の自室でチェスの相手をさせられていた。

煙突掃除でヘトヘトになっていたので、早く眠りたかったのだが、もう一局、もう一局と引き止められ、しまいには駒を持ったまま、うとうとしていた。ガクンと首が落ち、手にしていたナイトが床に落ちた音でハッと我に返る。

「あっ・・ごめんなさい、もう限界です。帰って寝ます・・明日も執事修行があるんで」

「そーオ? もう部屋に戻るのもしんどいでショ? ここで寝ナヨ」

「貝尼莎ちゃんの仕事は?」

「今日ハ臨時休業・・一緒のベッドがイヤなら、ソファあるヨ」

「じゃあ・・そっちで・・ありがとう」

そして、真夜中・・ギャーッという凄まじい声に、アルは飛び起きた。

「あれは・・兄さんの声!?」

だが、貝尼莎は平然と「ア、何でもないと思うヨ。寝よ寝ヨ」と言い放った。

「でも・・すごい悲鳴だったよ。心配だなぁ」

「顔面をゴキブリかネズミでモ走ったんじゃなイ?」

「えー・・そんな・・まぁ、でも確かにこの辺のゴキブリってすんごくデッカイよねぇ。僕、初めて見た時にはびっくりしちゃった。生きた黒いスリッパが歩いているんじゃないかって・・」

「しかも、飛ぶンだよネ」

「そうそう・・あーそういえば、前にも兄さん、ひとりで夜中に騒いでることあったしなぁ・・船でこっちに来たときにね・・あのね」

『うんうん?・・何? あれ? 寝言?』

いつの間にか、再びソファに倒れ込んでいたアルは、すやすやと寝息を立てていた。

『・・まぎらわしいなぁ、もう』




一方、ロイもエドの悲鳴に跳ね起きていた。

こちらは職務上の行動なので、リンが「行かなくてもイイから」などと言うのを振り切って、パンツを履いてナイトガウンを羽織ると、帯を絞めるのももどかしく、エドの部屋の方に駆けていった。

「大丈夫か、エドワード君。何があった?」

扉を叩くと、中から「何でもないわ」という女の声がした。

「しかし、今の悲鳴・・尋常じゃない」

ロイがいかにも心配そうに畳み掛けると、周囲からクスクスクスッという女の笑い声がした。一瞬、幽霊でも出たのかと思うほど忍びやかな声だが、すぐに女の子達が暗闇からこっそりこっちをのぞいているらしいことに気付いた。

ああ、また何か悪戯をやらかしたのか、とロイは気付く。

『瑪利亜、あんたじゃダメだったの?』

誰かが言い放ち、クスクスがゲラゲラに変わる。

「マリア?」

ロイがキョトンとしていると、やがて扉が開いて、バスローブにスリッパ姿の瑪利亜が出てきた。ただし、前は豪快にはだけたままで、ツンと上を向いた乳房や白い下着が露わになっている。
ちなみに、当時の女性の下履きにスキャンティの類いはまだ存在しておらず、トランクスか短パンのような形をしたズローズが一般的だ。さらに余談だが、ブルマーは現在のような形ではなく、モンペのような形の長ズボンで、女性の社会進出のために考案されたものだそうな。

ロイが恐る恐る、瑪利亜の肩ごしに室内を覗き込むと、顔面蒼白のエドが毛布をしっかと己の身体に巻き付けた状態で、ベッドの上にうずくまっていた。

「何の冗談だったんだ?」

どうやら瑪利亜がエドに迫ったらしい・・と察したロイが尋ねる。マリアはプゥと頬を膨らしていたが、やがて諦めたように「お館様のお言い付けでね」と説明し始める。

「リンの?」

「うん。お館様とあんたがよろしくやってんのを覗いてたって。まぁ、年頃なんだし、娼館なんかに住んでたら色々と良からぬ刺激もあるだろうし、でも彼女とかはいないみたいで、欲求不満そうだから、誰か相手をしてあげなって」

「それで・・君が?」

「本当は謝寿歌だったのよ、ねぇ? 瑪利亜?」

誰かの声が割り込んだ。それを皮きりに「エドワード君、謝寿歌の方が良かった?」『瑪利亜、謝寿歌に色気で負けたの? そろそろ廃業したら?』「アタシが相手してあげようか?」などと、木霊のように女達が口々にさざめく。

「そっ・・そんなんじゃねーよっ! バカにしやがって、ちくしょーッ!」

エドがヒステリックに喚いて、枕を投げ付けてくる。その気配を察したのか、瑪利亜はひょいと首を傾けて避け、代わりにロイの顔面にバフッと命中した。

「あ・・ごめん、大佐・・」

瑪利亜はそのままペタペタと歩き去る。

「はいはい、今夜のイベントは終わり。皆、部屋に戻りましょ」

手をパンパンと叩いて促すと、不承不承ながらも「はーい」という返事があった。




ロイは枕を返してやろうと思って、それを拾い上げると、エドの部屋に入っていった。アルは別の部屋で寝ているのか、エドひとりだ。瑪利亜に脱がされかかったのか、パジャマの衿が乱れていた。

「ほれ・・枕」

「あ・・りがと、大佐」

「しかし、なんだな。たまに過激なイタズラをするよな。色々ストレスが溜まる仕事なんだろうが・・だがなぁ、エドワード君。せっかくの据え膳なら、食ってみるというのも男だぞ?」

「なっ・・そんなこと、あんたに言われたくないっ! なっ・・なぁにがエドワード君、だ! ひとの気も知らないで!」

「はぁ? まぁ、ともかく落ち着きたまえ」

記憶がないロイには、エドが何を言いたいのかさっぱり見当がつかない。突然泣き出したエドを見下ろしても、どうしてやるべきか見当もつかず、せいぜい肩を叩いて「一体どうしたというのかね、エドワード君」などと囁くのが精一杯であった。






なによ、私に魅力がないっていうの? 瑪利亜はすっかりプライドを傷つけられて拗ねていた。
別にエドに拒絶されたからといって、瑪利亜に魅力がないとか、もう売れ残りということを意味する訳ではないと分かっていても、やっぱり面白くない。


・・そういえば、最近、ジャンさん来ないなぁ。


いつも自分を指名してくれる軍人だ。金髪碧眼のくせに、黒髪の娘が好きなんだという。かといって、オリエンタル嗜好があるというわけでもない。いかにも東洋的なスラッとしたスタイルよりも、ふくよかな方がいいと言ってて「瑪利亜は理想の女性だ」などと大袈裟に誉め上げてくれてたんだけど。

彼女でもできたのかなぁ。

恋人ではなく、あくまで娼婦と客という間柄ではあっても、やはりちょっと、気になる。
いや、単に忙しいのかもしれない。上海の方で中国人労働者が日系企業に対して労働条件改善運動を行い、それに対して弾圧が行われ、犠牲者が出ている・・という噂はちらほらと聞いていた。さらにエスカレートして暴徒化しかかった労働者に対し、英国警官隊が発砲したため、人々の感情は反帝国主義へ反英国感情へと発展して、中国全土に広がりつつあるのだという。
ジャンが直接、その騒動への対応に携わっているわけではなかろうが、やはり何かと駐留軍への風当たりは強くなっているだろうし、治安も悪化して、慌ただしくなっているかもしれない。

そうよね、私に飽きたってことじゃないわよね。今度、店に顔を出すよう誘ってみよう・・瑪利亜はそういう結論を導き出して、ようやく眠りについたものだ。


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【後書きその4】やったー。リザさんに続いて、マリアさんまでヌードお披露目です!・・って、漫画じゃないんだから、脱がしても意味ないってば(笑い)。
しかも、エドは欲求不満で出歯亀してるし、ニート状態だし、近親相姦未遂までしちゃうって、もう・・ダメ人間杉!
当初から妄想炸裂で突き進むと宣言していたストーリーですが、これはちょっとひどいかも。

ちなみに『貝尼莎』って誰? という指摘を受けましたが、ファルマンのコードネーム“ヴァネッサ”の中国語表記をお借りしたオリジナルキャラです(ファルマン自身は、後に登場します)。よく考えたらロゼでも良かったかもしれないけど、チェスが強いという設定上。
ブレダのコードネームは“ブレ子”だから使えないしなぁ・・ブレ子の中国語表記は「無名子」。

>鬼灯憂乎さん、以前頂いた香港版コミックス、めっちゃ役にたってますから!

もひとつ余談ついでに、当小説初出では、マリアが拗ねているシーンで『己の肉体の誘惑に打ち勝つ男がいると知ることは辛いことだ云々』という語を引用していましたが、実はこれ、チャンドラー(1888−1959)著のハードボイルド小説「大いなる眠り」の作中の台詞。
同時代人なので、マリアもこの小説、読んだことがあるかも・・と思ったのですが、気になって調べたら、実はこの小説、1939年に発行されているとのこと。改訂の際、思いきってカットさせていただきました・・危ない、危ない。うろ覚えで書くのは良くないなぁ、悪い癖だ。

でもさ、やっぱりこの設定よりも、10年ぐらい後の歴史の方が面白いよねぇ・・租界ももっと毒々しいし、李香蘭とかの魅力的な人物が出てくるし!←※ひそかに歴史ヲタ。
初出:2005年9月29日
一部改定、未遂事件エピソード挿入:同月30日

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