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Other Eden〜どこかにある天国

3. 楽園の蛇


館の西館と東館に挟まれた中庭は、よく手入れされた芝生が敷き詰められている。憎たらしいぐらい爽やかな青い空と、白いティーセットがまぶしい。そして、背中を向けて座っている、黒髪の男が見えた。

エドは、自分の鼓動が頭にガンガン響いているのを感じていた。のどが渇き、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
大佐が? どうして大佐がこっちに? あの扉を閉じるために、あちらの世界に残ったんじゃなかったのか? なのにここに大佐が居るのは何故? 扉は閉じられているのか、いないのか? 再会を喜ぶ気持ちと、なんでこっちに来ているんだという、憤りに似たざらついた感情がないまぜになって、平常心ではいられない。しまいには、めまいがして頭がぐらんぐらんしてきた。
リンは、そんなエドの様子を知ってか知らずか「前以て言っておくガ」と、歩きながら背中で言う。

「その人物は記憶を失った状態で倒れていたところヲ、うちの執事ガ見つけテ連れてきタ。ダカラ、君たちヲ見てモ分からないカモしれナイヨ」

「なんだって? 記憶が?」

思わず、エドはリンの正面に回りこんで掴みかかるが、リンはその手を捉まえると、逆に軽くねじ上げた。

「乱暴ハ、よしてクレル?」

「いててててっ! どっちが乱暴だよ、くそっ!」

エドはわめきながら身をよじるようにして、その手を振り払う。その騒ぎを聞きつけた男が振り向いた。ティータイムのケーキを食べていたところらしく、口にフォークをくわえたままだ。

「た・・大佐っ!? アンタ、なんでこんなとこに!?」

「うわぁ、ホントにマスタング大佐だぁ!」

兄弟がびっくりして声をあげるが、黒髪の男は見える側の目を、かすかにすがめただけだった。もう片側を隠していた黒い眼帯は失くしてしまったのか、装着していない。ガラス玉の義眼は、最初から入れていたものか、それともここで入れたのか。

「君達は・・?」

「マスタング大佐、こんにちわ。僕達、エルリックですよ。僕はアルフォンス・エルリック、こっちは兄さんのエドワード・エルリック・・」

「・・マスタング?」

「あーっ、イライラするッ! マスタングといえば、アンタの名前だろうが! ロイ・マスタング!」

エドが、今度はロイに飛びついてそのシャツを掴み、噛みつかんばかりに叫ぶが、ロイの反応は相変わらず鈍い。

「マスタング? いや、私の名はムスタングだ。ロイ・ムスタング。間違えないでもらいたい」

「はぁあああ!?」

エドが、ロイのシャツの襟元を掴んだまま、ずるずると脱力してしまった。

「・・兄さん、この人も“そっくりな別の人”なのかなぁ?」

「んなわきゃあるか・・こいつは本当に本物のバカ大佐だ・・今まで、サンザン別世界のそっくりさんを見てきたから、俺には分かるんだ。なのに・・記憶がないって・・おい、アンタが“ムスタング”だなんて、ウソを刷り込んだんだろう!」

「ヒドイ言いようダネ。コッチハ、彼ガそう書いてある名札を付けてたカラ、そう呼んでるダケダヨ。記憶モ、ウチに来たときにハ既に無くっテ、行き倒れてたッテ・・さっきも言ったロウ?」

リンはすっかり機嫌を損ねた顔で腕組みをしている。それはそうだろう。
そもそも、勝手に押しかけてきたのはエルリック兄弟の方だ。リンにしてみれば、もし彼が本当に、ふたりのいう“ロイ・マスタング”だったとしても、こちらの扱いに感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはない。
柳眉を逆立てているリンを、エドも負けじと凄まじい形相で睨み返していたが、アルフォンスは慌てて「ご、ごめんなさい」と素早く頭を下げ、兄の頭も無理やり押して下げさせた。

「その・・僕達、ちょっと驚いただけです。その・・大佐は本当はあっちに居るはずで、あっちとこっちの通路を向こう側で塞いでいるはずだったから、こっちに居ないと思ってて・・それで動揺しちゃったんです。これから色々お世話になるというのに、失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい」

「アルッ!」

「だってそうでしょう、兄さん、僕達、この人に協力してもらうために、はるばるミュンヘンから旅してきたのに、いきなりケンカ売ってどうするの? 相変わらず考えなしなんだから、もう・・」

今度は兄弟ケンカに発展しそうになったため、リンとロイが顔を見合わせる。

「リン、この子達は?」

「ワイマールから来たんだッテ。世話してヤルヨーにっテ、ラングさんの紹介状持っテ来てルから、一応、面倒見る予定なんだケド」

「見るのか?」

「ン・・さっきマデはそのつもりだったンだけド、今は考え中・・まぁ、弟はイイ子みたいダカラ、置いてヤッテもイーカナ」

「なるほど」

「それに・・アナタのコト知ってるみたいだシ・・記憶、戻るかもしれないヨ?」

「戻ったらお別れかね? 君と別れるぐらいなら、記憶なんて戻らなくてもいい」

「・・ホント、キザなんだかラ!」

リンは先ほどの鬼面はどこへやら、苦笑しながらロイの胸を人さし指で突付く。そのふたりの親密な雰囲気に、今度は兄弟がキョトンと顔を見合わせた。

「兄さん、大佐って・・あの人と恋人になっちゃってるのかなぁ?」

「記憶喪失で? さっすが自称アメストリス1の女ったらし・・」

そのタイミングを見計らっていたのか、ティーセットをお盆に載せたブロッシュが割り込んできた。

「細かいことは後回しにして、とりあえずお茶をしたらいかがですか、皆様? まだティータイムのお時間ですよ」






なんだか誤魔化されたような気もするが、これがこの屋敷の流儀というか・・つまりは“英国流”ということらしい。英国人はどんなときにも、3時には午後のお茶をするというのは本当なんだな・・と、エドは妙なことに納得していた。
ともあれ、独自にブレンドしたという紅茶も、ブロッシュが焼いたというスコーンも、なかなか美味しかった。

「君達が探していルものについてハ、いくつか心当たりがナイか、聞いてみル。その間、この屋敷に居ればイイ。そのお返しと言ってハなんだケド、あっちとかこっちとか言ってル君達の世界ト、世界をつなぐ扉について聞かせてもらいたイ。聞いてドースルというアテもないけド、興味がアル・・情報料ヲおとぎ話で支払えるんなら、安いモンだロ?」

落ち着いたリンが、そう言って話をまとめた。エドは、リンが自分たちの世界について聞きたがることに不満だったが、話す過程でロイの記憶が戻るかもしれないという期待もあったし、アルに「ここでケンカしちゃダメだよ」と、脇腹を肘鉄されたこともあり、了承することにした。

「・・じゃあ、よろしくお願いします」

「期待に添えるかドーカは分からないケド、できる限りハ協力するヨ」







では、このお部屋で・・とブロッシュが案内した部屋に入る。預けていた荷物は既に運ばれていた。ふと、エドがその荷物に違和感を覚える。一度トランクを開けられているのではないか・・というイヤな予感だ。
エドが踊りかかるように己のトランクに飛びつき、開く・・途端に、トランクの中からバタバタバタ・・と大きな音を立てて、何かが飛び出した。

「うぁああああああっ!」

思わず悲鳴を上げると、それに呼応するようにクスクスクス・・という忍び笑いが扉の向こうでした。見れば、飛び出したものは、ゴムと薄い羽のような板を組み合わせた玩具であった。ゴムを巻いて押さえつけておき、緩むとゴムが戻る勢いで羽板が騒々しく回転する・・というカラクリで、板には蜂の絵が書かれていた。

『ひっかかった、ひっかかった』

ふたりは広東語が分からないが、そのニュアンスは伝わった。
カッとしたエドが扉を開けて周囲を見回すと、十数名の女性達がキャッと叫んで逃げていった。代わりに、エドの悲鳴を聞きつけたらしいブロッシュが駆け戻ってくる。

「ブロッシュさん、今の・・」

「ああ、お店の女の子らが、何か悪戯したんですね。悪気はないんですよ。単に、若い男性をからかうのが面白いんでしょう・・僕もしょっちゅうオモチャにされてますから。一応その都度、お館様に叱ってもらうんですが、あまり効果がなくてねぇ」

人の良さそうなブロッシュに、いかにも困り果てたという口調で言われると、エドも「はぁ、それは大変ですねぇ」としか言えない。そうえば、ラングさんが言ってたっけ、旦那さんが亡くなってからは商売をしてるって。

「お金を盗んだりとか、そういうことは絶対にしない娘達だから、そのへんは心配しなくてもいいよ。まぁ、挨拶というか通過儀礼みたいなものだと思って、我慢してくれないかな」

「はぁ・・じゃあ、まぁ・・別に、何を盗られたというわけでもないのなら」

「では。また何かやらかして、困るようでしたら、僕か、お館様に仰ってください」

では、と戻っていくブロッシュを見送り、エドが部屋に入ると、アルが広げられたトランクの中身を見て、首を傾げていた。

「兄さん、これ、なぁに?」

大きなノートが何冊もある。表紙には何も書かれていないが、中にはびっしりと数式やら機械の設計図やらが書き込まれていた。

「なにって・・その・・アルフォンスのノートだよ、ロケットの資料・・」

「えっ、なんでそんなものが?」

「思い出の品に、ね。アルだって、親父の写真だのなんだの、持ち出したろう? だから・・」

「荷物が大きくなるからって、僕、小さな写真とか選んだのに・・兄さん、ずるいや。しかもこのトランク、重くてふたりで交代で持ってたでしょう? こんなん入ってるなら、兄さんひとりで持ってもらえばよかった」

「おいおい・・おまえの荷物だってたくさん入ってるんだぜ、これ?」

そう言いながら、エドがさりげなくアルの手からノートを取り上げる。
例えアルでも・・いや、アルだからこそ余計に・・アルフォンス・ハイデリヒの遺品には触れて欲しくなかった。あの女達も、このノートに触ったのだろうか? そう思うと一度は許したはずの悪戯も、再び腹がたってくる。


アルフォンスが確かにこの世に生きていた証。
アルフォンスが生命をかけて作り上げた結晶。
そして、アルフォンスと共に見た宇宙への夢。


これは、俺だけの宝物だ。ラングさんも欲しがっていたようだけど・・絶対に渡さない。
アルは、そんな兄を不審げに見ていたが、諦めたように自分の荷物に向き直った。一応、用心しながら、そっと自分の鞄を開ける。数秒間、じっと鞄の中をにらんでいたが、変化はない。
・・こちらには何も仕掛けてなかったのかな? さて着替えようと服を引っ張り出したら、シャツの中から大きな縄のようなものが、のたうちながら落ちてきた。
ぎょっとして見下ろすと、それは巨大は蛇で・・

「ぎゃああああああ・・って、アレ? これもオモチャだ」

「おいおい、同じ手に二度も引っかかるなよ」

そんな弟が可愛くて、思わず笑みをこぼしながら、エドは気を取り直したように、ノートを再びトランクの奥へ押し込み、なにげなく自分の分の肩かけ鞄も開ける。
途端に、中から茶色い毛の塊が飛び出してきた。塊は生きているらしく、飛び跳ねて逃げようとする。

「うぉう、わぁああああああっ!」「えーっ、なになに? どうしたの、にーさん!?」

エドの悲鳴に、アルもびっくりする。落ち着いて見れば、それは仔ウサギであった。
狭い鞄に押し込まれ、ようやく脱出できたと思ったら、今度は猛烈な悲鳴に驚かされ、パニックに陥ってしまったウサギは狂ったように部屋中を跳ね回った挙句に、コテンと倒れてしまった。

「兄さん・・同じ手に、3回も引っかかっちゃったね」

「くっそぉ・・いちいち趣向を変えてくるところが、敵ながらアッパレだ」

「ウサギ、大丈夫かな? 兄さんにビックリして、ショック死しちゃった?」

そこでドアがノックされる。アルが開けにいくと、執事のタキシードの上からエプロンという、ちぐはぐな格好のブロッシュが居た。

「ウサギを探してたら、女の子達がこっちに居るって言ってて・・さっき、気付いて連れて帰れば良かったね」

「あ、ごめんなさい、ウサギ・・ぐったりしちゃってて・・兄さんが悪いんです、兄さんが驚かすから!」

「・・アル、さりげなく俺にウサギ殺しの罪をなすりつけてねぇ?」

「あれぇ、死んじゃった?」

「ええええーっ! にっ、兄さん、殺したの!? なんてことしてくれたのさ!」

「なにーっ? 俺のせいかよ!? 俺、何もしてねーぜ!?」

もしかして大切なウサギだったらどうしよう・・と、兄弟は青冷めたが、ブロッシュは固まっているふたりの間をすり抜けて、無造作にウサギの後ろ足を掴んで持ち上げた。

「気にしなくていいよ。今夜は、ウサギのシチューにしようと思っていたところでね」







アホ大佐、なんだって今さら、こんなところに・・!

エドはその夜、妙に腹が立って眠れなった。俺がこっちの世界に来る前の大佐は、ブラッドレイとの一騎打ちに向かう前で・・別れの挨拶のつもりか、差し出してきた手を叩き返して。その軽い痛みは今でも思い出せる。
そして、長い白昼夢のような3年間の後、扉をくぐって再会したのは、あのエッカルトの軍隊による総攻撃の最中の宙空で。ろくに会話を交わすこともなく、自らの意思で別れを告げた。あの時は、自分ひとりで・・弟のアルとも永久の別れになると覚悟していた。



帰れば、アルフォンス・・ハイデリヒ・アルフォンスが待っていると思っていたから・・決して耐えられない別れではないと、自分に言い聞かせて。



ロケットを勝手に発進させてまで、アメストリス・・錬金術の世界に自分を帰そうとしたアルフォンスの気持ちも分からなくはないが、今度は自ら望んでミュンヘンに帰ってきたのだと、今度こそこの世界と、そしてアルフォンスと、正面から向き合って生きていくのだと、そう伝えたら必ず受け入れてくれると信じていた。

・・ここは僕の世界だ、あなたにそれを言う資格はない!

そういって、あの晩、俺の手を振り払って兵器ロケットの開発に向かったアルフォンス・・もっと、ちゃんと考えて発言していたら、彼を怒らさずに引き止めることができたのだろうか? ゆっくり話し合いたかった。
そして、ロケットのコクピットに俺を押し込み、バインディングベルトをかけてくれたアルフォンスに「俺が邪魔なのか?」と思わず叫んでいた・・その返事だって、まだちゃんと聞いていない。



・・なのに。



誤解を解くことはできず、看取ってやることもできなかった。
せめてもの救いは、俺が無事に「戻りたがっていた世界」に還ったものだと信じたまま逝くことができたことぐらいか。それも、アルフォンスが文字通りに体を磨り減らして、命をかけて作り上げたロケットで。
お願いだから、今度は俺もちゃんと手伝うから、だからもう一回ロケットを作って、今度は一緒に飛ぼうよと・・そう伝えたかったのに。

そして、ようやくその死から立ち直ろうとした矢先に、大佐が現れて。



でも、記憶がないって。



記憶って全部・・ということは、俺のことも、俺と大佐だけの秘密も、忘れてしまったってこと?

バレないようにとのことで、一緒に写真を撮ったこともなければ、贈り物を交わしたこともなく、形見といえば大袈裟だが、思い出の品ひとつなく・・というより、そもそもあの扉を潜り抜ける時には、身ひとつなのだから。

だから、何一つ記録がない、自分たちの記憶だけが頼りの思い出を、失くしてしまったって・・!?

俺がその思い出をどれだけ大切にしていたか・・そのせいで、アルフォンスをどれだけ傷つけて悲しませてしまったか。もう大佐のことは諦めよう、俺はこの世界で、アルフォンスと生きていく・・一度はそう決意したというのに、のこのこと現れて・・でも、現れただけで、目の前でオンナとイチャイチャしやがって・・ああ、もう、畜生!



ボケ大佐め、どんだけ俺を翻弄したら気が済むんだ!



「・・アルフォンス・・俺、どうしたらいいんだ・・」

「そーだね、とりあえず、いい加減眠ったら?」

思いがけず返事がかえってきたが、こちらはハイデリヒではなく、弟のアルだった。いつまでも眠れずに寝返りを打ってはブツブツひとりごとを言っている兄のせいで、なかなか寝つけずに迷惑していたようだ。

「あ、ああ・・そうだな、アル・・でも眠れなくてさ。そうだ、散歩にでも行ってくるよ」

「ねぇ、兄さん・・僕が鎧だった頃と逆だね、僕が眠れない身体で、兄さんが眠くてたまらなくて、僕ね、ずっと兄さんの寝顔を眺めていたり、本読んだり・・兄さんってたまに面白い寝言いうんだよ。まるでこっちに話しかけてくるような口調で・・知ってた? あのね・・」

あのね、の後に何か続くのかと思ってエドは待っていたが、やがてアルの寝息が聞こえてきた。さすが兄弟、どうやら弟も“まるでこっちに話しかけてくるような口調の寝言”を言っていたようだ。エドは苦笑して、弟の目を覚まさせないようにそっと起き上がると、部屋を出た。






中庭に出ると、眼鏡をかけた少女が、今日の昼に皆でお茶をした白いテーブルの上にランプを載せて、なにか書き物をしているのが見えた。

「こんばんわー」

少女は、エドの姿にギョッとして、慌てて便箋を重ねてファイルに挟み込んだ。

「ご、ごめんごめん・・ラブレターでも書いてたの?」

「あ・・まぁ、そんなところ・・かな? ハハハハ・・ど、どうしたんですか? こんな時間に」

「いやぁ、眠れなくて・・」

「そうなんですか・・あの、あたしも眠れなくて。えへへ」

「ここ、いいかな?」

エドは少女の前の椅子を指し、一応了承をとってから座る。

「・・あっちの館の方は賑やかなんだね」

「あっちはお店だから」

「君は? 行かなくていいの?」

「えっと・・まぁ、色々あって。お休みをもらってるってところ」

「そうなんだ・・もし忙しくないんだったら、この館や街の案内をしてくれると嬉しいかも。君、俺が知っている人にすごく良く似てるんだ」

「それ、新手のナンパですかぁ? いいですよ。あたしはの名前は謝寿歌」

「シェ・スカ・・ね。俺は」

「エドワード・エルリックさんでしょ? 弟さんはアルフォンス・エルリックさん。皆の間で評判になってましたよ?」

「皆って・・そっか、君達昼間の、鞄の・・」

「そうそう。ごめんなさいね、ついつい。仕掛けたのはあたしじゃなくて、別の子でしたけど・・お館様にあの後、がっつり叱られちゃいました」

謝寿歌・・シェスカは、そういうとペロッと舌を出しておどけてみせた。







『君には、貸しがいっぱい残ってるとおもうんだがなぁ?』

『そうでしたっけ?』

リンはまったく悪びれた様子もなく艶やかに笑い、細巻きたばこをくゆらせる。黒眼鏡の男が額を己の掌で叩いた。

『・・参った。暗黒街の猛者どもが震え上がるこのミスター・ハン相手に、それだけ大きな態度をとれるとは、本当に末恐ろしいレディだ』

『毎回、それなりに精算しているつもりですよ?』

『わしの愛人になってくれれば、全部ちゃらにしてやるんだがな』

『私の身体ひとつで済むなら、安いものですね・・と言いたいところなんですが』

『ところで、こないだ拾った男を、早速くわえ込んだようだな』

もう一服と煙を吸い込んでいたリンが、ハンの思い掛けない言葉に驚いて、咳き込む。

『おーすまん、すまん。大丈夫か?』

ハンはそう言うと、腹を折るようにして身を屈めて苦しんでいるリンの背中をさすった。
絹のチャイナドレスの下はノーブラだった。一見華奢に見えて、こうして触るとしっかりとした筋肉がついているのが分かる。無駄な贅肉のない引き締まった身体だ。さぞやアソコの締まり具合も・・などとハンが妄想していると、咳が収まったリンが身体を起こす。

『お・・驚かせないでくださいよ』

『どーせジジイのわしより、若い男の方がええんじゃろ?』

『それは、そのぅ・・』

『ああ、まぁ・・女盛りだからな。尼僧さんじゃあるまいし、まったく清らかなままでいられる訳もないか。29歳だっけ?』

『・・8、です。主人が居なくなって5年だから』

『ま、5年は長いわな。しかしのう。だからって、正体不明の男をわざわざ拾ってこなくても、ここに愛人候補がちゃんとおったのに』

『そういえば、そうでしたね・・ところで、そんなお話を持ち出して私を苛めるところを見ると、今回のお願いは聞いて頂けないということですか?』

咳き込んだせいで、うっすら潤んだ瞳で、首を小さく傾けて見上げられ、ハンは年甲斐もなくどぎまぎしてしまう。毎回、このパターンで無理難題を引き受けてしまうのだが、そこは惚れてしまった弱味というものだ。

『苛めるなんてとんでもない! 精一杯、手伝わせてもらうさ・・プルトニウム爆弾、ね。そういう新兵器の情報は、こっちのメシのタネにもなりそうだからな』

『本当? ありがとうございます! じゃあ、今度お店に来てくださいね。ゆっくりお酌でもさせていただきます』

『え、帰るの?』

毎度のことと知りつつも、ハンは残念そうにカックリと首を垂れてしまう。そのとき、小柄な人物がお盆にお茶のセットと茶菓子を載せて部屋に入ってきた。

『あら、お帰りですか?』

お盆を持った人物がそう言いながら、優雅な動きで茶碗をふたりの前のテーブルに載せて、馥郁とした華の香のお茶を煎れる。リンの目が、その人物に吸い寄せられた。

『ああ、この娘か? わしの跡取りにと考えている右腕のスオ・リゥの恋人でな。結婚しろとしつこく言っておるのだが、普段は鉄面皮のスオも照れておるのか、なかなか首を縦に振らんでのう』

『はぁ・・スオさんの嫁・・ですか』

スオとは面識がある。四十代の骨張った痩身で、一見、淡白で頼りなさそうな印象を与えるが、内面はまったく正反対で、どうにも好きになれそうにないタイプだ。
その恋人と紹介された女は、リンの視線に気付くと、恥じらったように俯き、空になったお盆を掲げて扇のように使い、顔を隠そうとした。

『なんだ、顔見知りかね?』

『いえ・・』

答えたのは、女の方だった。気まずい空気が流れる。
リンは女が用意したお茶には手をつけず『それでは』と、改めて簡単に挨拶をして、部屋を出た。



廊下では、瑪利亜が待っていた。
飛びつくように迎えて、並んで歩き出す。“用心棒”のロイは、屋敷の外で待たされているのだ。ボディガード業の職務怠慢と言われそうだが、ロイは広東語がからっきしなのだ。第一、前々から、ハンの屋敷に来る時は、護衛と言語の双方をクリアできるランファンか瑪利亜が同伴することになっている。

『お帰りですね?』

『ああ』

どうもすっきりしない表情をしている女主人が心配にはなるが、瑪利亜はそれ以上、あえて余計な詮索をしない。屋敷を出て、この路地を抜ける迄はハンのテリトリーなのだ。重苦しい沈黙に耐えながら、足早に明るい大通りに出て、待っていたロイと合流する。
亜熱帯の香港とはいえ、春先の夜は寒かったらしく、ロイは黒いコートの前をかきあわせて、両手に息を吐きかけていた。だが、リンをみると寒さも吹き飛んだ様子で、すぐにそのコートを脱いでリンの肩にかけてやった。

「何もなかっタ?」

「ああ、猫が何匹か通り過ぎていった程度だな」

「ソウ・・この辺モ結構、物騒なんだケドネ・・帰ったラ、ホットミルクでも飲んでネようカ」

リンはそう笑いかけて、ロイにエスコートされるまま歩き出した。
なるほどこういう姿を見せたら、ハンが嫉妬して依頼を受けてくれなかったかもしれない。それも、ロイをここで待たせていた理由のひとつなんだろうな、と瑪利亜は妙に納得する。

やがて、無事にムスタング邸に辿り着く。門扉をくぐりながら、リンが小声で『さっき・・お茶を持って入ってきた女居たろう?』と瑪利亜に囁いた。

『ええ、ご苦労様って、お茶菓子、ひとつもらっちゃいました。美味しそうですよ。召し上がります?』

『あれ・・エンヴィーだ』

『ええっ?』

瑪利亜が素っ頓狂な声をあげ、驚いたロイが振り返る。リンが瑪利亜を視線で軽く叱り、瑪利亜は肩をすくめた。

「何の話をしているんだ?」

「ウウン、なんでもナイ・・ロイ、ブロッシュにミルクと夜食の準備ヲするよう、言ってキテ」

「・・わ、分かった」

ロイを見送ってから、瑪利亜があらためて『エンヴィーって・・あれが?』と尋ねる。

『変装が得意だからなぁ・・それにしても、ハンさんまで女だって信じ込んでるのがすごい・・で、スオさんと恋仲なんだとさ』

『やだ・・この街に戻ってきてたんだ。何企んでるんでしょうね。昔から、考えてることが全然分からない子だったけど。それとスオさんがくっついているのも、ヤな感じですね』

『くっついてツルんでるのか、スオさんまでダマされてるのか分からないけど、一応、用心しておいた方がいいかもね』

瑪利亜は、不安げにうなづき、リンはそんな瑪利亜を励ますように、肩を叩いてやった。

「お館様ぁ、お夜食のご用意ができましたよぉ! エドワードさんと謝寿歌もご相伴するそうです」

『エドワード君と謝寿歌が? じゃ、戻ろうか』

『はい』








その後は、レスポンス待ちの状態になった。
英国軍の方からも、そのような新兵器の情報がないか調べてもらうことにしたらしいが、いかんせん、世情が世情だけに新型爆弾などトップシークレット扱いになっている筈だ。そうそう簡単に出てくるとは思われないので、しばらくの間は焦らずに待とう・・ということになった。






アルはすぐにリンや他の女の子になついて、可愛がられているらしく、しょっちゅうリンのところに行っては、一緒に遊んだり、花壇の世話をしたり、アメストリスの話や錬金術の話を披露しているらしかった。
エドも同伴したいとは思ったが、その場にロイもいるとなると、なんとなく行きづらかったのだ。

自然、ひとりになることが多くなる。
引き蘢りそうになっていると、しばしば謝寿歌が「市場に買い物に行くんですけど」などと誘いに来た。

「たまには出て歩かないと、健康に悪いですよ。ドイツの人って、もっと日光を浴びたがるもんだと思ってました」

「俺は、そんな“当世流”じゃなくてね。今はやりのヌーディストなんて、くそくらえだ」

「そーなんですかぁ? エドワードさんのヌードなら、皆見たいかもですよ?」

「義手義足が珍しいから?」

「え・・あ、すみません・・そんなつもりじゃないんです。義手だったなんて知らなかったんです!」

エドはなにげなく言ったつもりなのだが、謝寿歌はエドが予想していた以上に過剰に反応して、今にも泣き出しそうな顔で謝ってきた。相変わらず、俺、こういうの下手だよな・・とエドは反省してしまう。

「あ、いいんだ。気にしてないし。まぁ、もう、慣れちゃってるし。じゃあ、行こうよ、買い物」

そして、会話の糸口を捜して、なにげなくロケット開発を手伝っていた頃のことを話し出す。

「へぇ・・すごいですねぇ。エドワードさんて、頭、すっごくいいんですねぇ。ロケットの話、もっと詳しく聞かせてくれます?」

いたく感激したふうの謝寿歌に、エドは軽い戸惑いを覚えながらも、女の子に賞賛されるという状況に、悪い気はしなかった。
そのうち、話しているエドも専門的なことが曖昧になってくる。

「ちょっと待って、その・・そのへんは、部屋に戻ってノートを見たら思い出せると思うけど・・こんな話、難しくて分からないだろう?」

「いえ、ものすごく楽しいです。すっごく気になるなぁ。買い物から帰ってから、是非、その続きを詳しく聞かせてくださいよ!」

女の子って、こんな話で喜ぶんだろうか? という疑問はちらりと脳裏をよぎったが、目をきらきらさせている謝寿歌が嘘をついているようには見えなかった。


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【後書きその3】2と3の間、1カ月以上放り出してたんですね。続きを楽しみにしていたかた(居るのか?)ごめんなさいです。長い長いブランクをおいて、ようやくロイ×エドっぽいシーンが出てきました・・って、一応、ロイエド小説だったんだよな、これ? なんだかハイデ×エド&ロイ×リン小説になっている気がする。
それにしても・・長い! まだ、全然、お話すすんでナイヨー・・どんだけ続けば気が済むんだ、この話。
初出:2005年9月28日
改訂&加筆:同月29日

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