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連環〜Chain


3. 方舟の行く先


永遠とも思える時間が流れていた。これが“死”なのだろうか?
途切れがちな意識の中でそう思っていた。だが、まだ完全に消え去ってはいないらしい・・自分の体が存在していることはなんとなく感じられる。ただ、手足は自由には動かない。

もしかして、これは幻覚の一種なのではないだろうか?
腕や足を失っても、時折、存在しない部位が痛んだりすることがあると、聞いたことがある。脳が、失われた手足の記憶を呼び起こすのだろう。だとしたら・・もう、手足はなくなっているのだろうか? それを確認する術もない。

だが、少しずつ皮膚感覚を引き寄せていき、頬が冷たい石畳に触れていることを知った。目を開けているはずなのに、何も見えない。真っ暗闇といっても、目が慣れてくれば少しは何かが映るだろうに・・何度か瞬きをして、まぶたが動くたびに、グチュッという嫌な音がすることに気付いた。眼球が潰されているのかもしれない。痛みを感じない訳は無いはずなのに、全身がほのかに熱く、心地よい・・阿片? いや、それに似た症状でもっと強力な麻薬を処方されているらしかった。

五石散? いや、麦角か烏羽玉だろう。

痛みでショック死されては困るといったところだろうか。手を床について起き上がろうとして、ステンと転げてしまう。この感覚には覚えがある。あの血の海の中、エンヴィーに腕を切り落とされたときの・・両腕とも無いのか。足は? 多分、無い。
だが、胴をくねらせて這おうとした途端に、首がグッと引き戻されていた。
どうやら、首輪を填められ、鎖で繋がれていたようだ。リンは激しく咳き込み、そのおかげで夢心地から醒めた。

『まだ生きてたのかね。しぶといな、君は』

聞き覚えのあるような声だが、はっきりとは思い出せない。せめて“気”で相手を感じられないかと、意識を研ぎすます。自分と同じ血を引いた・・でも、レイじゃない。レイの気配はどこにも感じられなかった。

『レイわ・・』

のどを潰されているのか、自分の声とも思えないしわがれた声だった。舌を動かして始めて、歯が抜かれていることに気付く。道理で発音がはっきりしない。

『そんな姿になっても、まだ弟の身が気になるかね? いや、今の君とっては、夫でもある訳か?』

『・・スオ・リゥか。しろは、おちたんだな』

スオはリゥ族の長だ。それと同時に先帝の兄の子で、リンから見れば従兄に当たり・・もしかしたら、先帝の代わりに即位していたかも知れない男だった・・だから、今回の叛乱でも中心的な役割を果たしていた。

『姚帝は廃されたよ。女色に溺れ、政事を顧みず、民草を苦しめた暴君としてね。君もあの塔から飛び降りて死ぬつもりだったのだろうが、奇跡的にも植え込みが緩衝になったようだな・・手足は砕けてバラバラになっていたから、切り落とさざるを得なかったがね』



レイが・・殺された。



一瞬、リンにはそれが理解できなかった。
自分を女の体にしてしまい、皇太子としての地位も名誉も全て取り上げ、さらには幽閉して体の自由をも奪い、自分を性奴に貶めた・・憎んでも憎みきれない男ではあったが、その死に衝撃を受けこそすれ、それを喜んだりすることは、なぜかできなかった。

まだ、この状況を現実的に受け止められないだけなのかもしれない。今までのは全て・・楼閣の上から飛び下りたときに見た夢だったのだろうか?
遠のいていく空・・そうだ、我が子・・イウライは無事なんだろうか?

レイと俺との・・望まれない鬼子。

だが、その子の安否をスオ・リゥに尋ねることは敢えてしなかった。多分、彼はイウライの存在を知らない筈だ・・知れば、探し出そうとするだろう。復讐を恐れて殺すためか、それとも正当後継者であった筈のリンの血脈を己の部族に取り込もうとするためか。

『ころせ・・』

『君が死ねないのは私のせいじゃない。そんな姿でも生きていられるのは不思議なぐらいだ。ただ・・教えてほしいことがあって、とどめを刺すのをためらっていることは事実だ。素直に答えてくれたら、望み通りに頸動脈でも掻き切ってあげよう』

スオ・リゥが跪く気配。その首の辺りに・・ある特別な気配が揺らめいていた。

『・・“ぎょくじ”がそこにあるのか』

『目を潰されていても分かるか。これは相当、特殊な鉱石で出来ているらしいね。聞きたいこととは、これのことさ・・この玉璽についての知識は、代々の皇帝の口伝というじゃないか。リン・ヤオ。君は一度は凰帝によって皇太子に選ばれた・・当然、知っているね?』

『たいしたことじゃない。そのいしは・・すべてのれんたんじゅつのちからをうばう・・それだけさ』






『権力を手にし、富と名声と・・国中の美女を欲しいままにした人間が、次に望むことはなんだと思う?』

実際には、その秘密を教えてくれたのは、先帝ではなくヤンフィであった。
帰国したリンを迎えるために、1日だけ休暇をもらい、久し振りにヤオ家の館でふたりくつろいでいた時に、その話題が出たのだ。

『健康・・ですか?』

『不老不死さ。人間の心は弱く、貪欲だ。あらゆるものを手中にしても尚、足ることを知らず貪り続け・・その快楽が終わることを恐怖する。そして、彼の出身部族もまた、政治の中枢を握り続けるため、彼が永遠に皇帝であり続けることを願うだろう。それこそ、ありとあらゆる手段を使ってね』

『そんなことが』

『だが、実際に陛下が望んだものは何だった? そう、不老不死だったろう?』

『そう・・でしたね』

『だが・・実際には、皇帝は必ず死なねばならない。必ず、だ』

ヤンフィはそこで言葉を区切り、リンの目を覗き込んだ。リンは唾を飲み込み、引き込まれるように、次の言葉を待つ。

『皇帝は子を作り、やがて死んで、次の代へ引き継がれていくべき存在なのだ。特定の部族だけに権力が偏ることもなく、ね。だから、このシン国が建国されたはるか昔・・正統な皇帝の印として玉璽を作るために・・当時の賢者達によって、錬丹術を打ち消す力を封じ込めた石が錬成された。それはまた、皇帝が錬丹術を使って恐怖政治を行うことを防ぐ効力もある一方で、皇帝が錬丹術で暗殺されることも防いでくれた』

シン国の創始者は、国が人ならざる者に乗っ取られることを恐れたのだろう。
現に、そのようなストッパーを持ち得なかったアメストリス国では、人造人間が大総統として権力の座につき、国土を戦火に巻き込んでいった。

『賢者の石とは逆の作用・・というわけか』

『正確に逆の作用があるというわけでもないだろうがな。賢者の石は、錬金術の力を無尽蔵に引き出すもの、玉璽は錬丹術、だ。双方の力の在り方が若干異なる。ともあれ、陛下には、限りある命の人間にしか許されない皇帝の地位か、皇位を捨てて不老不死の化け物になるか・・どちらかをお選び頂くことになるわけだ』

『両方・・と言われたらどうなります?』

『さぁ。それは分からない。双方の力がぶつかって、世界が吹き飛ぶか・・あるいは打ち消し合って、何も起こらず・・どちらもただの石ころになるか。私も、賢者の石は文献でしか知らなかったし、玉璽も・・実物は見たことがない。いや、見て触れれば、私の身体を保っている術が解けてしまうだろう。おまえに錬丹術を教えなかったのも、そういう理由だ。教えても、どうせ無駄になる』

『陛下はそれを・・ご存知なのですか?』

『知らないかもな。正式に皇位を譲られた訳ではないから・・ただ、その前の帝は当然知っていたし、兄弟相続の場合、妃の多くはそのまま弟が引き継いで娶る。前の帝からそのことを寝物語に聞いたことのある妃が、後宮にはまだ居るということさ』

『なるほど。それで、ねーさんはご存知というわけですか。ともあれ・・明日には、陛下にこれを献上します。ねーさんからも、陛下によろしく伝えてください』

寝椅子にもたれながら、賢者の石を手にした教え子を眩しそうに見つめ、ヤンフィがうなづく・・その姿を見たのが、最期だった。

皇帝が崩御したとき・・彼女は殉葬された。
もし、彼女が殺されなければ、完成直前だった解毒剤で、リンの身体は素女丹の呪縛から解き放たれていたかもしれず、レイに皇位を奪われることはなかったかもしれない。






『錬丹術の力を奪う、だと?』

スオ・リゥが明らかに動揺した声を出した。
ああ、そうか・・多分彼は、玉璽の力を、賢者の石のように考えていたのだろう。彼なりの未来図が狂って、ひどく失望したようだ。
スオ・リゥが錬丹術だけでなく、錬金術にも興味をもっているらしいことは、聞いたことがあった。もしかしたら、第2のキング・ブラッドレィを目指していたのかもしれない。

『それさえ聞けば・・もう用はない。今すぐ、その細首かき斬ってやる・・いや、死ぬ前に味見でもしてやろうか? レイはおまえにひどく御執心のようだったからな。よほどの名器なんだろうな』

ぐぃっと首輪を乱暴に引っ張り上げられる。その勢いで乳房が重く揺れたのが、自分でも感じられた。

『勃たせてもらおうか? 見えなくても分かるだろう』

不意に口の中に、柔らかいものが入り込んで来た。歯を食いしばって抵抗しようにも、剥き出しになった歯茎の圧迫程度では逆に、男を悦ばせるだけだ。こんな状態でも、やがて陽根に貫かれる期待に腹の奥が熱くなっていくだなんて・・そういうメス犬に自分を調教したレイと、自身の身体が呪わしい。
いや、麻薬の影響も多分にあるだろう。麦角も烏羽玉も、催淫効果が高い。

手も無く、足も失い、目も見えない状態で・・リンは、陽根を受け入れるためだけの肉の管と化していた。舌と歯茎の愛撫で、スオのものは怒張し、リンの喉の奥を突く。呼吸ができずに意識が遠のきかけた頃、ようやくスオの動きがやんだ。

『ぐぅっ・・ごほっ・・うぇっ・・』

『吐くな。次期皇帝の胤だ。ありがたく飲み込めよ』

ようやく口が解放され、リンは身を折るようにしてうずくまり、口の中いっぱいにぶちまけられた生臭い粘液を吐き出して、咳き込む。その姿勢では尻を掲げる格好になったようだ。

『なんだ、今度はこっちか? こんな姿になっても濡れるとはね。是非、こんな片輪になる前に抱かせてもらいたかったよ。いや、そうしていたら、レイのように、君に溺れる羽目になっていたかな?』

両足が根元から切り落とされているため、秘所は無惨にも剥き出しになっており、腰を抱えられても抵抗のしようもなく貫かれる。せいぜい掠れた悲鳴をあげるのが精一杯だった。

『これはこれは・・古代の傾国の美女ならかくやと思わせるほどだ・・なるほどね。こんなナマコのような状態にされても、これとはね』

奥まで突き入れたスオは、すぐには抽迭させず、しばしあえぐ。別の生き物のように息づいて蠢く、尋常ならざる感触に戦慄したのかもしれない。
一方、リンの方でも違和感を感じていた。下腹の辺りに・・熱い塊がある。子宮が疼いているのだとばかり思っていたが、スオが動きをとめたおかげで、別のものだと気付く余裕ができた。



これは・・エンヴィーに突っ込まれた賢者の石ではないだろうか?



そう考えて、その塊のあたりに意識を集中させてみた。スオが突き上げ始めれば、快楽でそれどころではなくなるだろう。早く、早く・・賢者の石なら・・スオが気を取り直し、リンの細いウエストを抱え直したのと、リンの胎内でドクンとそれが脈動したのは、ほぼ同時だった。



賢者の石なら・・




『・・う、うぁああああああっ!』

スオが悲鳴をあげて、リンを突き飛ばした。だが、スオの陽根はリンの体に突き刺さったまま・・喰い千切られていた。目蓋を開けると、ぼんやりとだが視界が戻りつつあった。ただ、やはり完全な再生は難しいのか、明暗と歪んだシルエットが分かる程度だが・・それでも、まったくの視界ゼロ状態よりはマシだ。

『ば・・化け物っ・・!』

手と足も再生できたら・・と思っていたのだが、どうやら肩から生えて来たのは、木の根のような不格好な肉塊のようだった。肘がどのぐらいの長さだとか、指が何本だとかなど、覚えていない。だが、そんな不細工な四肢でも、立ち上がって首輪を毟り取るぐらいは、なんとかできた。
この調子では、再生させた目も、まともな形はしていないのだろう。指で触れると、ぶどうの房を押し込んだような感触がした。この粒ひとつひとつが眼球なのだろうか、それとも単なる肉塊の集まりなのだろうか。室内には鏡など無いようだったし、そんなことを知りたいとも思わなかった。
ただ、かなり異様な姿なのは確かだろう。スオが腰を抜かしている。恐怖の余り、陰茎を失った股間から小便を垂れ流しているようだった。

『そいつがなくちゃ、みかどのしごとは、はたせそうにもないな・・ぎょくじは、もらっておいてやるよ』

ずるりと濡れた音を立てながら、リンが歩み寄る。スオは顎が外れたように口を開けたまま、膝でいざるように後ずさりして逃げようとする。
リンが手を差し出すと、指先が触手のように伸びてスオの首に巻き付いた。力加減が分からず、ゴキリと音がしてスオの首の骨が折れてしまう。その首ごと、首からさげている小袋を引き寄せた。この中に、玉璽があるはずだ。







双方の力がぶつかって、世界が吹き飛ぶか・・あるいは打ち消し合って、何も起こらず・・どちらもただの石ころになるか。






「よせ!」

スオの生首が口をきいた。

「そんなことをすれば・・!」

どうやらそれは、エンヴィーの声らしかった。みるみる、スオの胴体が溶けていき、代わりにエンヴィーの小柄な身体が現れる。リンからその玉璽を奪おうとして、エンヴィーの掌がジュゥと音を立てて焼けた。どうやら、錬金術で保たれている彼の体では、玉璽を素手で触ることができないらしい。
小袋は特殊な絶縁体で織られていたので、今まで平気だったのか・・それとも、さっきまでは本当にスオ・リゥだったのか。

てっきりここは城の内部・・多分、石牢だろうと思っていたのだが、エンヴィーが現れると同時に、最初に見た真っ暗闇の沼に変わっていた。

「そんなコトをすれバ? この世界ガ吹き飛ブ? ちょうどイイじゃナイか・・ここカラ脱出できルかもヨ」

「んなっ・・俺らまで消えちまうだろ!」

「心中スル相手は選びたかッタケド、この際、ゼータクは言わないデおくヨ。アンタが言ったヨーニ、好き嫌いハ良くナイからサ」

リンは、形勢有利と気付いてニヤッと笑うと、おもむろに玉璽を握っている手を己の下腹に突っ込んだ。
ぐにゃりとした腸の弾力に押し戻されながらも、その奥に根付いていた石に押し付け、2つを一緒に握りしめる。途端に・・凄まじい轟音と爆風が巻き起こり、周囲を・・リンの体ごと吹き飛ばした。




暗い空間が、紙を引き裂くようにあっけなく消えていき、その向こうには光り輝く豊かな大地があった。
だが、石の力の暴走は血の海を消し去るだけでは収まらず、その天地をも巻き込んで、裂いていく・・逃げ惑う人々が、ポロポロとその空間の裂け目に落ちていった。
その様子を、リンははるか上空から、蟻の巣でも眺めるかのようにぼんやりと見下ろしている。通常の状態なら、正視に耐えない光景の筈なのに、リンの精神は、どこかタガが外れてしまっていた。

いや、いっそこのまま、すべて滅んでしまえ・・そう思う気持ちがひょいと頭をもたげ、まるで癌細胞のように猛烈な勢いで膨れ上がっていく。手を伸ばせば、たとえ大都市の建物であろうとも、まるで紙のように脆く捲れて、あっさりと崩れていった。
破壊は・・快かった。



・・イウライ。



ふと、そのことだけが、心のどこかに引っかかり、攻撃的な衝動に完全に身を任せることを、リンにためらわせた。
『逃げるのに邪魔になるようだったら、棄ててくれていいから』などとセイに言いはしたが、本音ではやはり、助けたかったのだ。とうに土石流に巻き込まれているかもしれないと思いつつ、視線を巡らせる。イウライが居なかった地域には稲妻が走り、辛うじて生き残って居た動植物をも焼き尽くした。
豊かだった大地がズタズタのボロ切れ同然になり、海もヘドロをかき混ぜたようになった頃、その上にポツンと浮かぶ、ちっぽけな白い小舟を見つけた。嵐で帆もオールも失い、ただ漂うばかりになった舟の上に、青い衣の男がうずくまっている。

『・・ああ、リン様』

セイだった。彼だけは、肉体を失って漂う主人の存在を感じているのか、顔をあげて立ち上がると、まっすぐこちらを見た。
その視線にひるんだリンの破壊活動がやむ。セイはまだ、ちゃんと赤子を抱いていた。いつぞやの言葉の通り、舟で川を下り、南回りの海路で西の国を目指すつもりだったのだろう。

『ご自分が行く場所を、お忘れになったのですね』





「ああ、そうだ、マダム・・もし、自分が誰か分からなくなっても、自分の行く方向ぐらいは、ちゃんと分かっておけよ?」




そういえば・・そう言われていたんだっけ。

セイが、抱いていた赤子をリンに向けて差し出す。嵐に怯えて泣き叫んでいたイウライであったが、リンの視線を感じたのだろうか、一瞬ポカンとして泣き止み、やがてニコッと愛らしく笑った。
リンはその子を受け取り・・次の瞬間、セイは小舟ごと波に飲み込まれていった。


「・・驚いた。そんな姿になってまで、人間って、自分の子どもってモンに固執するんだ?」


振り向くと、中宙に竜が漂っている。だが、それは今のリンに比べてひどく小さく・・まるで黒いミミズのように見えた。どうやらエンヴィーの声でしゃべったのは、その竜らしい。

「やっぱり自分の遺伝子を持ってるから? でもコピーにしては出来が悪いし、いくら半身と言っても、所詮は他人じゃないか・・100歩譲って、そいつに価値があるとしても・・自分よりいくらかは後になるとはいえ、いつかは結局、同じように死ぬんだぜ? そこまでして護る必要なんて無くない?」

『おまえら人造人間には到底、分からないだろうさ』

その言葉は、エンヴィーに向けたというよりは独言に近かった。
無生殖的に造り出され、子どもを生すことができない彼ら人造人間には“我が子”という概念を理解することすらできないのだから。リンはエンヴィーをかまってやる気などはなく、ただイウライをどこに逃がそうかと、それだけを考えていた。



この世界ではない、どこかへ。



リンはイウライを抱いたまま、さらに上空へ翔け出した。エンヴィーが驚いて後を追おうとしたが、間に合わなかった。リンに取り残された空間は、まるで紙屑を丸めるようにクシャクシャと萎縮していき、エンヴィーも何事か喚きながら、その中に巻き込まれていく。




ひとつの宇宙が、こうして消えた。




やがて・・不意に、ただの真っ暗な虚空にぽっかりと光がさした。
まるで蛾が炎に吸い込まれていくように、リンは本能的にその中に飛び込んでいた。




「やぁ・・あれは・・翼のある蛇だ・・いや、竜かな?」




穏やかな男の声。
男はナップザックを背負った格好で、片手を額にかざしながら、空を見上げていた。
リンはその男の“気”が、自分がよく知った人物のものによく似ていると、ぼんやりと感じていた。そろそろ、論理的な思考を保てなくなっている。ともすれば、意識が拡散して消えてしまいそうで・・何度もイウライを取り落としそうになっては、ハッとする。
それどころか、自分の姿ですら、人間の形を保っているのか、男の言うような別の姿に化けてしまっているのか、認識できなかった。


「この子は・・イウライというんだね?」

いつの間にか、男がその子を胸に抱いていた。
イウライは上機嫌で、男のあごヒゲを引っ張ったり、眼鏡を取ろうとしたりする。男が立ち去るのを見送りながら、この結果が良かったのか悪かったのか考えていたが、もうそれを判断する能力は、リンには残っていなかった。

ただ・・イウライを逃がしてやった安堵と共に、魂が薄れていくのを感じている。




あわれわが身、亡びつつあり、絶え間なく
われ知りぬ、わが命はや束の間なるを

されど・・わが魂のいずくに行くかは知らず



いつの日か、わが汚れ破れし衣を、棄て去らんとする





だが・・その“いつの日か”は、今ではない・・まだ、死ねない。








リンは再び気力を振り絞ると、精一杯意識を伸ばして、今度は、失くしてしまった自分の身体を捜し始めた。










「ねぇ、パパ。この模様はなぁに?」

「ああ、それは・・お前のママの印だよ。ママは・・大いなる蛇だったんだ」

「ふうん? でも、アタシは蛇じゃないのに」

少女は不思議そうに、自分の手首に刻まれたウロボロスの刻印を眺める。

「お前が・・別の世界を結ぶ輪になるんじゃないかという気がしてね。
グラトニーでは失敗したが・・」

「輪?」

「ああ、リングさ。その蛇も輪になっているだろう?
そうやって、世界は繋がっていくんだ」

暖炉の横でくつろいでいたホーエンハイムはそう言うと、
養女を膝に抱き上げてやった。










どれぐらい時が経ったのだろう、今のリンにとっては、時間などはほとんど意味のないことだったが・・やがて、暗闇の中、仰向けに倒れている、ちっぽけな自分の姿を見つけ出す。

自分の姿を見下ろすというのは妙な感覚だったが、レイだと仮定して見れば、それほど違和感も無かった。ともかく“彼”を起こすべきなのだと、リンは考えていた。

多分・・グラトニーに飲み込まれ、あの森からこの空間に引き込まれた時のショックで、自分の魂と肉体を結び付ける・・アルの血印のようなものが、外れてしまっていたのだろう。その影響で、自分の精神はいくつかの並行世界を点々としたらしい・・つまり“彼”が“赤の王様”って訳だ。

リンは“彼”の襟首を左手で掴んで持ち上げると、まずは軽くペチペチと頬を叩いてみた。“彼”の痛みが自分にも伝わるのではないかという、根拠のない恐れが脳裏を過って、一瞬リンをためらわせたのだ。
だが、自分の頬には何の感触もないのを確かめると、今度は思いっきり右手を振り上げて平手打ちした。

『・・つっ・・』

多分、“彼”が目を覚ませば、自分は消え去るのだろう。
“彼”・・リンが小さく呻いて、眉根を寄せる。夢うつつのまま片手が動いて、なかなか開かない目蓋をごしごしとこすった。眼球が醜く膨れ上がっているのではないかと、一瞬恐れたが、触っている感触にいつもと変わった様子はなかった。




だが、例えこのまま消えても・・自分の進む方向ぐらいは知っておかないとな。




『いってぇ・・』

目を開けて起き上がる。視界は歪んでおらず、クリアだった。
見渡せば、いつぞやエンヴィーに切り刻まれた・・そして、2つの石による破壊の起点ともなった・・あの血の海の中に居たが、あの時と違って今度は五体満足だった。
何も無いように思えた暗闇だったが、こうして落ち着いて見ると、いろんなガラクタが散らばっている。リンは何か使えそうなものはないかと、周囲を見回してみた。

『人骨・・か。こんなとこで朽ちた人には申し訳ないけど、せっかくだから、もう一働きしてもらおうかな?』

リンは血なまぐさいヘドロに半分手を突っ込み、白い棒を引っ張り出す。これなら、松明として十分使えそうだ。喰えそうなものは・・無いな。
取りあえず、一緒に飲み込まれたエドを捜すとするか。

「誰かいないかー! アルー! グラトニー! バカ王子ー!」

ああ、いたいた。捜すまでもなかったか。リンはそちらに向けて歩き出そうとして、足を取られて尻餅をつく。

『あだだだ・・ドジった・・』






痛みに思わず目を閉じて・・そして開くと、まったく別の場所に居た。













「おはよ。気分どうよ? まだ熱っぽそうだけど・・大丈夫か?」

明るい室内・・多分、エド達が泊まっているホテルだろう。兄弟で1つずつ使っているシングルベッドをくっつけた即席のダブルベッドで、自分とエドは全裸に毛布をかけただけの格好で寝そべっていた。

「オ・・オハヨ・・アレ、エド・・?」

「おう。よく寝てたみたいだな」

「オレ達・・森でサ、あの肉団子の腹ン中に飲み込まれテ、真っ暗闇の・・アレェ?」

「何言ってンの?」

「夢? いや、マサカ・・ああ、他の皆ハ?」

「ああ、アルか? アルは買い物行っててさ。リンが熱出してるから、ちょっと果物でも買って来てって言ってあるんだけど・・でもさ、果物市って明後日なんだよね。多分、町中捜し回ってもそうそう見つからないはずだから、当分帰って来ないと思うぜ?」

「ア・・そうナンダ」

リンは無意識に、片手を胸に当てる。平たい男の胸だ。手を滑らせた腹に新しい傷はなく、腹腔にも妙な気配はない。もちろん、鱗や触手など体のどこにも生えておらず、まさしく人間の、自分の身体だった。
その仕種の意味をどう捉えたのか、それを見ていたエドが苦笑する。

「ちゃんと、男に戻ってるだろ?」

「エッ・・ああ、オレ、また、女に化けてたンダ?」

「うーん、最近ちょっと多いよな。まぁ結局、こうやって元に戻すのも、対処療法でしかないからさ。早いとこ賢者の石みっけて、根本治療に取り組まないとな。それまでは、俺がおまえを護るから・・リンがこんな身体になっちまったのは、俺の責任だから、最後まで面倒みる。約束する」

「そのセリフ、もう何回モ聞いたヨーナ気がすル。護ってヤル、護ってヤルっテ」

「何十回でも何百回でも言ってやるさ。それぐらい好きだってこと、いい加減に信じてくれる?」

エドはそう言うと、片手を伸ばしてリンの髪に触れた。愛おしげに、指先にリンの長い黒髪を巻き付けて弄ぶ。チビが意気がりやがって・・と、リンは苦々しく思うが、言えばエドが逆上することは分かっているので、胸の底に留めておく。

「そういえバ・・今日は何年の何月何日ダ? できレバ、ここ数日の動向も確認したイ」

「えっ? 何年って・・アメストリス歴でいいの? 唐突にどうしたんだ?」

「イヤ、実は・・ちょっト時間軸が狂ってルというカ・・色んな夢を見ていたんダ。シン国に帰ってからの夢トカ、まったク別の世界ノ夢トカ・・スゴク長い長い間・・ネ。デ、記憶があやふやになっててサ」

「ふうん。まったく別の世界って? どんな?」

エドが好奇心を刺激されたらしく、黄金色の瞳をクリッと動かした。騎士気取りの本人の意気込みとは裏腹に、その表情は少女のように可憐だ。
『オンナに化けるのが、エドの方だったら良かったのに』と毎度のことを思いながら、リンは苦笑する。

だが・・どの世界のことを話したら良いのだろう?
自分が男に戻れなくなって楼閣に幽閉されているとか、人造人間に手足を切り刻まれているとか・・最後には人間の姿ですらなくなり、翼のある竜と化して世界中をめちゃくちゃにしたなんて、とてもじゃないが話しようがない。
それとイウライ・・イウライのことは、さすがに気になった。我が子を託したあの男は、誰だったのだろう?
だがこの様子では、この世界では、あの子はまだ産まれてすらいないのだろう。この俺が、レイの子どもを産んだなんて聞いたら、エドはきっと、腰を抜かすだろう。可愛いんだけどな。小さい頃の俺らにそっくりで。

ああ、そうだ・・ちょうどいい話があった。

「エッと・・オレは、ある貿易港の街外れにある、大きな館の女主人デサ・・」

「女主人って・・おまえ、女なのか?」

「ウン、その世界ではネ。デモ、美人だったゾ」

「ああ、美人だろうさ。しかもグラマーなんだろ?」

「バカッ・・デサ、その世界デハ、ブロッシュさんがうちの執事ナンダヨネ。小間使いでランファンも居たシ・・ああ、シェスカさんもいて、よく食器を割ってタ」

「ブロッシュが執事ィ? 似合ってる! 面白いな、それ・・んで、俺は?」

そう言えばエドは居なかったな・・と思うが、居ないと聞けば、エドが拗ねることは明白だ。

「エドは・・エドは、オレの旦那サマ!」

「マジでぇ? ってことは俺達、そこじゃ結婚してるワケ?」

「ンーそうみたいヨ。しかもスンゲー金持ちでサァ・・館も広くて・・中庭には噴水があってサ」

まさか、実はロイと結婚していました・・とは言えるわけがないから、そのキャスティングはちょうど良いと思われた。その嘘に、エドはすっかり上機嫌になって、リンの髪をクシャクシャにして「おまえってさぁ、ときどきすんげー可愛いことを言ってくれるよなぁ」と、ニヤつく。

「いいかもな、そーゆー生活も。俺もその世界に行ってみたいな」

「わざわざ行かなくテモ・・この世界で結婚したらイイジャン」

「え?」

「エドがオレの嫁になればイイ」

「えーっ、リンが嫁の方が断然いいって! グラマーだし、美人だし!」

「だってオレ、皇帝にナルんだモン」

「ああ、そういえば、そっか」

エドは妙なところで納得しながら、リンの腹の上に乗るようにして身を重ねると、自分がさんざん乱したリンの前髪をかきあげてやり、おでこにキスをする。リンはそのエドを見上げながら、両手の指でエドの金髪をすくと、髪留めを外して三つ編みをほどいた・・エドの髪を下ろしている方が、断然リンの好みなのだ。

「オレと結婚したラ、エドは皇后陛下ダヨ。皇后ハ、家事とか一切しなくてイーし」

「ばぁか、その前に賢者の石を手に入れなきゃいけねーだろ!」

「ウン。それは分かってル。オレの行き先はソッチだカラ・・デモ、オレはエドとズーッと一緒がいいカラ・・一緒に賢者の石ヲ捜そウネ?」

エドは乱れた髪が煩わしいのか、濡れた犬のように首を振った。その仕種も色っぽくていい。
リンはエドをそっと抱き取り、身体の位置を入れ替えた。エドもいつになく素直に、リンの背中に手を回してくる。そして。



「たっだいまぁっ! 兄さん、ようやく見つけたよぉ、リンゴ! どの店も品切れでさぁ、隣の街まで捜しに行っちゃった!」



唐突にガチャッと勢い良く扉が開くと、アルの声が割り込んだ。ギョッとして見れば、両手いっぱいに紙袋を持ったアルフォンスの鎧姿の後ろに、ランファンまで居る。エドとリンの血の気が引いた。

「にっ・・兄さんっ、リンっ! なっ、何やってンの!? ど、どどどどど・・どーいうことぉ!?」

「あっ、あのっ、アル、実はこれは・・っ、そのっ!」

「・・リン様、不潔」

思わず荷物を取り落として茫然としているアルと、柳眉を逆立ってすさまじい形相をしているランファンを前に「悪夢ダァ・・ドーカ、今度も醒めてクレェ」と、リンは頭を抱えたが、どうやら今回の世界ばかりは、夢として消えてくれそうになかった。
もし眠っても・・同じ世界で、前日の続きの今朝を迎えるに違いない。根拠は無いが、それは断言できる。



多分、今のこの、自分の肉体が朽ち果てるその日まで、ずっと。



それに・・この世界のエドとは、なんとか仲良くやっていけそうだし。
いつか、この世界でもイウライを産むことはあるのだろうか? いや、あの子は別の形で生を授かるだろう。きっと、幸せな家庭で・・そう信じたい。

だったら・・とりあえず今は、怒り狂っているランファンとアルフォンスをなんとかなだめなくちゃな。
リンは気を取り直すと、ふたりを納得させる言葉をひねり出すべく、頭をフル回転させ始めた。



FINE
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【後書き】あ・・あははははは・・今回、すんごく楽でしたっ!
元々がSF畑の人間なので、リンが人間の形態を失っていく辺りから、書いてて楽しくて楽しくて楽しくて・・(ヲイ)。イメージが勝手に暴走していった感じです。
あと、気付いたんですが「女体化したリンが帰国した後、レイに帝位を奪われて性奴にされる」ってストーリーは、私と葉紅龍さんの間ではデフォルト設定になっていたのですが、自分が書いたシリーズを読み返して、まだそれって作品化されてなかったじゃん・・ということに、今さらながら気付きました。

だから『やましい農村・女体別館』でしか当シリーズに触れていない方は、冒頭で「えっ、リンがどうしてレイと? つか、子どもって何事!?!?」とパニックに陥ったかもしれません。
あと、玉璽とスオ・リゥ氏については、ちゃんと『応竜』で伏線を張ってから・・とずっと思っていたのに、あっちの方は、エド×リンえっちシーンを書いて萌え尽きてしまって・・ボヤボヤしている間に、アリスがドドドドーッと来ちゃいました(すんません)。脳内ではちゃんとした順番があったのですが・・キーボード打つ指がついて来ませんでした。
だから、今回はかなり読者サービスが悪い作品になっております(万死)。

ちなみに、イウライの名前は『耀黎』と書きます。命名は葉紅龍さんです(多謝感謝!)。

あと、麻薬の名前として挙げた“麦角”とは、正確には麦角菌のことで、これと同じ成分を化学合成したのがLSD。“烏羽玉”はペヨーテという、LSDに良く似た作用を持つサボテンの一種です。
イウライがホーパパに!? というくだりは、作者ですら想定外の出来事でしたが、まっくらな空間が裂けて、その中にホーパパがいて、こっちを見ている姿が見えたのですよ、ええ、はっきりと。これはもう、書くしかないと。
あの時のドラゴンリン以上に論理的思考力が落ちていた作者は、引き込まれるようにホー! というわけで・・(←まだ人間並の知能には戻れていないもよう)。

あ、そうそう。エンヴィーとリンの絡みは初めて書いたんだけど、思ったより面白かった! エドのパイずり天国(?)も楽しかったっ! ムスタング夫人の『香港編』も、もっと遊びたかった! 残虐なシーンは・・やっぱりあんまり上手じゃないなぁ。どうしてもコメディの方が得意みたい。

その他、3章のタイトルとか、まだまだ言い訳したい部分はありますが、とりあえず、このへんで・・
本サイト初出:05年09月10日

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