2. 偽りの楽園
「こ・・ここハ?」
「ここはって、お館様のお部屋じゃないですか・・倒れられたときに、頭でも打ったんでしょうかね?」
金髪のなよっとした男が、タキシード姿でおろおろしている。彼は・・ブロッシュだ。
どうして彼はこんな格好をしているんだろう? なぜ、そんな敬語で話しかけてくるんだろう?
身体を起こすとシーツがめくれて、白いコルセットからこぼれた胸乳が露わになり、ブロッシュが赤面して目をそらす。その慌てぶりを見て「ああ、今は女なんだな」と、ぼんやり考えていた。自分でもグロテスクな思考パターンだと思うが、必要に迫られて習慣づいてしまっているのだから仕方ない。
「・・オレが倒レタ?」
「ええ、ご自分で手首をお切りになって」
覚えていない。左手を見ると、確かに手首から肘にかけて包帯が巻かれていた。痛みは感じない・・痛みを感じないのは夢だからだろうか・・夢? だが、痛みを感じたからといって、それが現実とは限らない。
ただ、手首を左右にひねってみると、かすかに皮膚が引きつれる感触がすることには気づいた。多分、傷口が縫われているからだろう。
「まだ眠っていてください。きっとひどくお疲れだったんですよ。旦那様が居なくなられてから、旦那様のご実家と揉めたりして、いろいろ大変でしたしね」
「旦那様?」
ダンナサマ?・・この世界では、オレが女として、ヤロウと結婚しているとでもいうのだろうか? ウソだろ? 冗談キツイゼ。
「後で、お食事をお持ちします」
「ア、アノサ・・オレのダンナサマって・・」
オレの連れ合いというからには、エドワードかな? エド相手ならオレ、嫁いでもイイカモ。いや、正直どっちかというと、エドには嫁に来て欲しいんだけドサ・・まさか、レイということはあるまい。
だが「お忘れになったんですか? ほら、こちらが旦那さまとお館様の肖像画ですよ」と言いながら、ブロッシュがビロードのカーテンを引いて現れたのは。
ロイ・マスタングであった。
「いわゆる記憶喪失ってヤツとは、ちょっと違うようだな」
薄汚れた白衣をひっかけた格好で往診に来た、眼鏡に無精ひげ姿の医師はノックスと名乗った。問診とも雑談ともつかぬ調子で「時間軸も状況も異なるいくつもの世界を点々としていた」などというリンの訴えを一通り聞いた後、そうぼやく。
「記憶がないんじゃなく、まったく別の人生の記憶が、断片的にいくつもあるって訳か。診察したのが俺じゃなくヘボな町医者だったらおまえさん、気が触れたものとして、とうに精神病院に収監されていたぜ」
「・・信じてくれルのカ?」
「こんな街でモグリの医者してりゃ、阿片患者やアル中が幻覚を見ている姿なんざイヤってほど診ているからな。正常なヤツと錯乱したヤツの違いぐらいは分かる」
「・・アリガト」
「そういやぁおまえさん・・自分が帝王切開で産まれたって聞いたことはねぇか? ごく稀にだが、そういう子どもは、前世の記憶を失くさずに持っているんだとよ」
「テーオーセッカイ?」
「子どもを産むときに、腹を裂いて直接取り出す手術だよ。なんでも子どもが産まれ落ちる時の苦しみは想像を絶するもんらしくてよ。母体は身を守るために、その痛みを緩和させる物質が分泌されるんだとよ・・それの影響で、子どもはそれまでの・・つまり前世の記憶ってやつだな。そいつを忘れてしまうらしい。あるいは、産道をくぐり抜ける間の酸欠状態が原因だという説もある」
「難しくてよくワカラナイ」
「ああ、混乱してるところに、こんなややこしい話をして悪かった。鎮静剤でも打っておこうか?」
「眠るのハ・・コワイからヤダ」
明らかにここは、今まで自分が生きてきた世界とは異なる。しかし、とりあえずこの世界の居心地は悪くなかった。
ダンナサマがロイだというのは大いに不満だが、その彼も数カ月前、出征先で行方不明になったのだという。だったら・・気楽でいいや。
初めから女として生まれたのなら、男の身体に戻ろうとあがく必要もないし、皇子という身分ではないのだから、後継者争いに巻き込まれる心配もない。ということは、あの忌まわしい人造人間どもと戦わずにすむうえに、とりあえずダンナサマの遺産もあるので・・といっても、結婚に反対していた本国の実家から相続が認められたのは、この館とリン名義で作ってもらったというスイス銀行の口座程度だが・・それだけでも、当分は君臣共々数年は食うに困ることもなく、いわば悠々自適というやつだ。
明らかに偽の人生、仮りそめの世界なのだが、リンはここで終わってもいいかな、と思っていた。あのまま繰り返し犯され続けることを思えば、己のアイデンティティに固執することにどんな価値があろう?
それだったら・・いっそ、夢の中の住人でいた方がよっぽど幸せだ・・ただ、恐ろしいのは眠りについて次の夢を見る事だった。いや、この夢が醒めてしまうのが怖い・・と言った方が正確かもしれない。
目を醒ましたとき・・果たして同じ寝室の同じベッドで、確実に“昨夜の続き”の朝を迎えているのかどうか・・それは保証できない。少なくとも、今のリンには。
「眠りたくナインダ・・眠らないで済む薬っていうのハ、ナイの? ネェ、センセイ」
「そんなもなぁ、ねぇよ。人間、あんまりにも眠らねぇでいると、精神に異常をきたすんだぞ」
そう言いながらも、ノックスは往診用の黒い革のカバンの中を引っ掻き回すと、白い錠剤が入った小瓶を取り出した。
「せいぜいこの程度だ・・眠気覚ましのカフェイン錠。気休めぐらいにしか効かんが、こんなもんでも一度にたくさん飲むなよ。ああ、そうだ、おまえさんに直接渡すよりも、ブロッシュに預けておくか」
2、3日の徹夜なら、そんなに苦にもならない。召使い達も、交代で仮眠を取りながらも嫌な顔ひとつせず、夜通しのチェスや碁に付き合ってくれる。
よほど彼らの女主人の“リン・ヤオ”は慕われていたんだなと感心する一方で、自分がその女主人ではなく別人だという事実に、罪悪感を感じる。彼らの女主人の魂はどこにあるのだろう? 自分がここでぬくぬくしている代わりに、どこかの世界でつらい目に遭っているのではないだろうか?
だが、さすがに4日目ともなると、夜は案外平気でも、日中がつらくなってきた。
『もう、お休みになりますか? それとも組み手でもしましょうか?』
昼食後、朦朧としかかっていたところに、小間使いのランファンが声をかけてくれた。どうやらこっちの世界でも、彼女は自分に仕えてくれているらしい。しかも組み手というからには、武術の心得もあるのだろう。
『組み手? ああ、そうだな。身体を動かしたら眠気も覚めるか・・でも、食べてすぐそんなに激しく動くと、腹が痛くなる』
『それもそうですね・・では、お散歩にでも行きましょうか』
「あ、お散歩ですか? でしたら、私もご一緒します」
ついてきたのは、肩でざっくりと栗色の髪を切り揃えた眼鏡の娘だ。シェスカとかいう名前で、そそっかしい性格らしく、ここ数日で彼女が高価そうな白磁の皿やティーカップなどを割るシーンを、リンは既に3回ほど見ていた。
街は雑多な人種で溢れかえっていた。この港町は中継貿易で栄えているとかで、世界中の珍しい商品や貴重な物資が流れ込んできて、市場は活気に満ちている。
「お館様は市井のお生まれとのことで、こういう賑やかなところが大好きでしてね。旦那様は物静かな方で騒々しいのがお嫌いでしたが、お館様が喜ばれるからとわざわざお出かけになって・・」
彼女らは多分、女主人としての記憶を取り戻してほしくて、そんなことを一所懸命に話してくれているのだろう。リンは眠気覚ましに露店で売っていたレモンを買い、行儀が悪いと思いつつ歩きながらかじる。
ふと・・すれ違ったカップルに見覚えがあると思った。男の方? いや、違う。だが、女に見覚えがあるわけではなく・・いうなれば、女に化けているというか、自分同様に女になっているというか。思わず振り返り、その長い艶やかな黒髪を凝視する。
「・・エンヴィー!?」
果たして女が振り向いた。小柄で棒切れのような細い手足、まなじりに鋭さがあるくせにどこか幼さが残る大きな瞳、気の強そうな鼻ッ柱、薄い唇・・黒いミニのチャイナドレス姿だが、男か女かは曖昧な印象だった。
「どうした?」
連れの男は、西洋人の軍人らしかった。女は気を取り直したらしく、じろりとこちらを一瞥した後、わざとらしく男の腕にもたれて「ウウン、人違い・・きっと、夢でも見てるんじゃない?」と鼻に抜けるような甘ったるい声を出した。
人違い・・か。
確かに、ここの世界では自分を含めて、全ての人間が“人違い”だ。ブロッシュもランファンも・・皆、俺が知っている彼らではなく、単に同じ名前同じ顔をしている別人で、俺自身だって・・彼らが知っている“リン”とは異なる記憶、別個の魂を持った別人だ。
「夢の中の住人・・ってトコカ」
リンが漏らした独白が聞こえたのか、シェスカがポンッと手を叩いた。
「それそれ・・! 思い出しましたです! ルイス・キャロルの童話にあったんです!」
「ルイス・キャロルぅ?」
「お館様が、夢の中にいるようだとか、夢から醒めたら消えてしまうっていうの、なんか聞いたような話だなぁって思って、ずっと考えてたんです!」
「どんなハナシダ?」
「アリスっていう女の子が鏡の中の世界に入り込むっていうファンタジーですよ。で、アリスはチェスのひと駒として歩き回って・・ある森の中で眠っている“赤の王様”に逢うんです。王様はアリスの夢を見ているんですよ。だから、王様が目を覚ますと、アリスは消えてしまうんですって」
「ヘェ・・で、最後、その女の子はドーなるノ?」
「確か、元の世界に帰るんですよ。全部の冒険は夢だったわけ・・そして、アリスは飼っている仔猫に尋ねるんです。本当に夢を見ていたのは、アリスと赤の王様とどっちだったんだろう、って」
元の世界・・か。どれだろう? レイに囚われているのか、人造人間に切り刻まれているのか、それともエドに追い回されているのか。
「いつまでもコノ世界には、居られないってコトか・・」
「イヤですよォ、旦那さまに続いて、お館様までいなくなっちゃうなんて!」
『アタシもイヤ・・』
シェスカがおどけたように腕にしがみついてきたのは分かるとしても、ランファンまでリンの服の袖の端を、遠慮がちに掴んできたのには驚いた。
「俺・・ここに居ていいノカ?」
「当然ですよ!」
そりゃあ、俺だってずっとここに居たいと思っている。たとえ、ここが夢の世界だとしても・・だが、夢ならいつかは覚める。
多分、“赤の王様”が目を覚ませば・・消えてしまう。
リ ン 、 僕 の 夢 を み て よ !
アルフォンスはあのとき、俺が赤の王様だと考えていたのだろうか?
だから、自分が人間である世界を夢見てくれと? だが、残念ながら、俺は赤の王様じゃなさそうだ。
「お館様・・大丈夫ですか?」
声をかけられて我に返った。どうやら、立ったまま眠りそうになっていたらしい。
「アア、アリガト・・助かっタ」
不安そうな少女ふたりに笑いかけてから、リンは手にしていたレモンをもう一口かじって、その酸っぱさに顔をしかめた。
「まだ頑張ってるのか。いい加減に諦めて眠れよ。無理に起き続けていると気が狂うって・・前にもそう言ったろう? 幻覚を見たり、人格が変わってしまったりして、しまいに社会復帰できなくなる。不眠症とは違うぞ。あれは体内時計が狂って、夜に眠ろうとしても眠れないというだけで、脳が壊れない程度には自然に眠たくなったりするからな」
5日めの夕刻のこと。
手首の傷を診に来たノックスが、呆れてそう言った。包帯の下には、確かに何カ所も切り刻んでは縫われた痕が生々しく残っていた。それが化膿していないことを確かめると、ノックスは消毒液を含んだ脱脂綿でその傷口を丁寧に拭って清め、包帯を替えて巻き直す。
「もうカフェイン錠はやらん。おまえさんの性格だからいくら説得しても無駄だろうし、1日2日は好きにさせておこうと考えたんだがな。ここまで強情だとは思わなかった」
「強情で結構ダ。前の世界でも・・意識を失えバ、オシマイだっタ。死ぬカ、眠るカの違いはあってモ・・次に目が醒めタときは、別の状況に居るンダ・・ここは安全デ、皆優しクテ・・ダカラ離れたくナイ・・」
「気持ちは分からなくもないが、眠らないで居続けるのは無理だ。生理学的に不可能なんだよ・・まったく。べっぴんさんなのに、ひでークマが出来てるじゃねーか」
「ダッテ・・ヤダ・・」
「あーあーもう、分かった分かった、分かったから、泣くな泣くな・・」
ノックスはそういって形ばかりなだめると、注射器を取り出してそっと腕を取ろうとする。
「・・ヤダッ! ソレ・・睡眠薬デショ!?」
「違う違う。ちょっと疲れてるようだから、安定剤をだなぁ・・」
「デモ、眠たくなるンデショ? イヤダッ!」
リンは奪うようにノックスに手を振り払うと、両の二の腕を抱え込むようにして庇い、涙目でにらみつけた。ノックスは手がつけられないと思ったのか、ため息をつくと、隣でおろおろと立っているブロッシュの方に向き直った。
「ちょっと情緒不安定になってるみたいだな・・ヤバいかもしれん。もし何かあったら、夜中でも構わんから呼びに来い」
「あ・・はい」
「あと・・彼女の要請で良かれと思ってやったんだろうが・・皆で不眠に協力しなくていいからな」
「はい、すみませんでした」
「じゃあ、帰るぞ・・おい、吐きそうになったり、気持ち悪くなったりとかしたら、素直に横になって眠れよ。麻黄とか・・妙なクスリ飲むんじゃねーぞ?」
ノックスはクシャクシャッとリンの髪を撫でてやってから、往診鞄を持ち上げる。
「あ、お持ちします・・玄関までお見送りを」
「ああ・・いや、結構だ。それより、マダムの側に居てやれ・・なるべくひとりにしないようにな」
「はい・・分かりました」
ノックスが自分で扉を開けて、出ていこうとする。外で控えていたランファンが、ノックスの鞄を受け取った。ノックスが、ふと思い出したように振り返る。
「ああ、そうだ、マダム・・もし、自分が誰か分からなくなっても、自分の行く方向ぐらいは、ちゃんと分かっておけよ?」
「えっ?」
あまりに唐突な言葉に、リンが聞き返そうと思った瞬間には、もう扉は閉まっていた。いや、閉まったというより、初めから開いていなかったかのようだ。
リンが思わず立ち上がってしまったことに対して、ブロッシュが驚いていた。
「今の・・ノックス先生の言葉・・ドーイウ意味ダロウ?」
「ノックス先生?」
「今、来てたジャナイカ」
「はい? 来られていませんよ? お館様、夢でも見られたんですか?」
「・・来てナイ?」
「ええ」
だが・・腕の包帯を替えてもらった筈だ。手首に鼻を近付けると、確かに消毒したてのツンとした匂いがしていた。だが、ブロッシュが嘘をついているとも思えない。リンは納得いかないまでも、ベッドの端に腰を下ろした。
「では、お食事の用意をしてきますね」
やはり、ノックスは来ていなかったのだろうか? リンをひとりにするなと言われていたことなど忘れているかのように、ブロッシュが部屋を出ていった。
ひとり取り残されたリンは、部屋の中を捜し回って、ここの女主人がつけていた日記やアルバムを引っ張り出した。
もし、ここで生き続けるのなら、やはり彼女のこれまでの生活の記録を知っていた方が良いだろうと思ったからだ。
彼女の記録は16歳から始まっていた。その頃に、ロイに拾われたのだという。
最初の頃の日記は、金釘のようなアルファベットと間違いだらけのスペルで綴られており、あまりにひどい間違いにはロイによるものだろうか、赤インクで訂正されていた。
「クソッタレ、ダイッキライ!」と殴り書きされていた部分にまで、赤字で「レディがそんな言葉を使ってはいけない」などと御丁寧な注意書きが入っていて、リンを苦笑させる。
アルバムの写真の少女が次第におとなびていき、痩せこけていた身体がふっくらと女性らしく成長していくにつれ、日記の文字もロイの文字に似た、几帳面で優雅なものに変わっていく。
・・こっちの世界のロイが、そんなに優しくてイイやつだっていうんなら、ちょっとだけでも抱かれてみたかったナ・・
愛されていたらしい“リン・ヤオ”が羨ましくなって、リンは柄にもなくそんなことを思う。
そして、ロイが行方不明になったという連絡を、軍から受けた・・という記述を最後に日記が途絶える。その後には、何が書かれていたものか、何ページか乱暴に破り取ってあった。
リンはふと、自分もここに何か書き記しておこうと思いついた。もし・・自分がこの世界を去ることになっても、自分が確かにここに居たという証を残しておきたくなったのだ。ペンか何かないかと・・自分なら毛筆の方が使い慣れているのだが・・テーブルの引き出しを開けて覗き込む。
不意に、視界の端で何かが動いた。始めは虫かと思ったが、追い払おうとそちらを凝視すると消えた。気にしないでおこうと思っていたら、再び見えるか見えないかの位置でにょろにょろと何かが動く。リンは試しに気配でそれを突き止めようと、目を閉じて神経を研ぎすませてみる・・周囲にヒトの気配は無い。
その代わりに・・何か異様な・・小動物のような気配が部屋中に満ちていることに、気付いてしまった。
ハッとして目を開けるが、相変わらず自分はひとりだ。柱時計の音がチクタクと異様に大きく聞こえている。
だが、今度は目を開けていても、ウワーンと空気が唸るほど、何かの気配が空中に満ちてるのが分かった。しかも、それらは何かの意図・・多分、劣情・・のこもった目でこちらを見ている。それに気付いて、思わず絞り出すような悲鳴があがった。
その悲鳴に弾かれるように、本棚やテーブルなどが、グズグズと崩れ始めた。それらは何千何万匹ものミミズのようなヘビのような紐状の塊となって、団子状になったり、ほつれたり、再び絡み合ったりしながら、うごうごとこちらにまろび寄ってくる。
「く、来るナッ!」
後ずさりしながら、ベッドに近寄り、羽枕を投げ付けようとしたが、今度はその羽枕までグシャッと崩れた。白い蛆のようなものが寄り集まって、リンの指に、手首に巻き付いて、ぬめぬめと体液を分泌しながら、身体を這い上がってきた。
リンの悲鳴を聞き付けたブロッシュとランファンが部屋に飛び込んで来たが、リンの目にはそのふたりですら、全身がとろけた怪物に見えてしまい、壁に背をつけて立ちすくみながら、歯の根が合わない唇をわななかせながら、イヤイヤをするように首を弱々しく振っている。
「幻覚見るカモっテ、ドクター言ってタ」
「ど・・どうしよう?」
「ドクター呼んでクル。何トカなだめトイテ」
そう言うと、ランファンは散らばったテーブルの上からペンを拾い上げ、自分のエプロンのポケットからハンカチーフを取り出してクルクルと巻いた。
「舌カマナイヨーに、コレでもくわえさせテ」
「わ・・分かった」
即席の猿ぐつわを渡すや否や、ランファンは・・この部屋は3階なのだが、長過ぎる廊下を渡って階段を降りて、玄関から・・というのは彼女にとって悠長すぎるのだろう、エプロンドレスの裾をからげると、窓からポーンと勢い良く飛び下りた。黒猫のように空中でくるくると回転しながら着地するや否や、跳ぶように駆けていく。
残されたブロッシュは、すっかり正気を失っている女主人を前に途方にくれていたが、思いきって手を伸ばすと、彼女の手を捉えた。必死で逃げようとするのを男の力で強引に引き寄せ、羽交い締めにするように押さえ付けると、まずはペンを無理矢理くわえさせる。
「お館様、僕ですよ、ブロッシュですよ。怖くありませんから、何も恐ろしいことなんてありませんから」
必死で言い聞かせながら、ブロッシュは思わずリンを抱き締めていた。暴れようとする手足を封じ込め、心臓の音を聞かせたら少しは落ち着くだろうかと考えて、その頭を自分の胸板に押し付けてやる。
「僕ですよ、貴女を傷つけたりはしませんから、どうか安心してください。大丈夫ですから、護ってあげますから、だから、落ち着いて」
ガクガクと震える背中を撫でてやり、目を覗き込んで「ねっ?」と笑ってみせる。だが、それでもなかなかリンの恐慌状態は収まらず、猿ぐつわをかまされた唇からよだれを垂らしては、ウーッと獣のように唸るばかりだ。
「落ち着いてください・・お館様・・リン様・・リン様・・」
かなり長い間、呼び掛けられ続け、やがてリンの瞳にほんの少しだけ正気の色が戻る。
ブロッシュは抵抗が収まったのに気付いて、そっとリンの口のいましめを解いてやった。自分の内ポケットからもハンカチを取り出し、涙や唾液で汚れたリンの顔を拭う。唇の端が切れたのか血がにじみ、猿ぐつわの痕がかすかに残っていた。
「ごめんなさい。こんなものを噛ませて・・でも、こうしないと舌を噛んでしまいそうだったから。怖かったですか? もう怖くありませんよ」
「ブ・・ブロッ・・シュ・・?」
「ええ、僕ですよ。リン様・・ああ、良かった・・!」
ホッとしたのか、あらためてブロッシュがリンをギュッと抱き締める。身分違いだとか、自分の雇い主の妻だとかいうことは当然、ブロッシュの頭にもあった筈なのだが、それでもなお、こみ上げる想いが押さえ切れないらしい。
リンもつい、ほだされておずおずとその背に手を回す。ナヨッとした印象なのに、こうして触れてみると見た目よりも体格が良いことに気付かされる。いや、自分が女の体になっているから、そう感じるだけなのだろうか?
お互いの呼吸が微妙にうわずっていく。
あまりに強く胴体を締め付けられて、息苦しくなって顎をあげると、モロにブロッシュと視線が合ってしまった。熱を帯びてうるんだ瞳・・もしかして、自分も同じ表情をしているのだろうか? 唐突にキスしたいという衝動に駆られ、軽く爪先立ちになって・・
「ドクターキタヨ」
無愛想なランファンの声に遮られた。
「おう、もしかして邪魔だったか?」
ノックスに冷やかされて、ブロッシュは「そんなんじゃありませんよ」と、必要以上に大声をあげて否定する。リンも真っ赤になってブロッシュの腕から逃れた。
「幻覚を見たんだってな」
「モウ、落ち着いタ」
「このままじゃ、似たような幻覚を繰り返し見るハメになるぞ」
「注射ハ、ヤダ」
「ヤダじゃない。もう限界なんだよ。そろそろ眠らないと・・ブロッシュさん、押さえ付けてやってくれ」
「ヤダ、ヤメロッ・・ブロッシュ、離セッ!」
「お館様のためです。勘弁してください」
せめて・・せめて、あの日記に何か書いてから・・自分がこの世界に居たという証を残してからにしてほしい・・だが、再び幻覚症状が出て来たのか、自分を抱きかかえるブロッシュの腕が脆く崩れて、にょろにょろしたミミズ状の塊に変わっていき、注射器を構えるノックスの姿もゆらゆらと別人・・エンヴィーになっていった。
「こんな所に逃げ込んでたのか・・楽になんかさせてあげないよ、糸目の」
エンヴィーの嘲るような声とともに、注射器が腕に突き刺さる。途端に、リンの視界がぐるぐると回り始める。沈んでいく意識の中、全身を這い回るミミズらが口や耳や・・全身の穴という穴に潜り込んでいくのを感じている。太股の間にまで入り込まれ、無意識に腰が浮いた。
「ざまぁないね。こいつら相手でも感じるんだ?」
だが、それに対してどう思う暇もなく、リンの意識は無抵抗のまま闇の中に沈んでいった。
暗闇の中・・どこが上とも下とも分からない状態で漂っていた。
「お館様、良かった、気がついたんですね」
どこか遠くから聞こえる声。だが、それはもう、自分に向けられたものではないと、リンは知っていた。
「ン・・なんカ、長い夢を見ていたようデ・・」
自分の声? いや、あの館の女主人の声だ。
「今度はどんな夢だ? まぁ、無理に思い出す必要はねぇが」
「ボンヤリとしか思い出せなイんだけド・・私ハ、シンという国の皇子デ・・名前はフィ・チャンと言っテ・・従者にシャンランいう女の子が居テ・・ソウ、ランファンそっくりノ・・」
「ランファンが? ズルイ! アタシはその夢に出てきました?」
「お館様、私は?」
「あのっ・・僕は・・」
「そんナ、イッペンに言われてモ、思い出せないヨ。ホント、ボンヤリした夢ナンだから」
「おいおい、おまえら、マダムを混乱させるなよ。久しぶりに眠って、夢を見て、疲れているんだ。はしゃぐんじゃない」
ハーイと不承不承の返事をする召使い達。それに向けられる女主人の苦笑と、彼女を診察しているらしいノックス医師のブツクサいう声・・あの輪の中に戻りたい、とリンは手を伸ばそうとするが、自分の手がどこにあるのか分からない。
声は次第に遠のいていき・・リンは、再び何もない闇の中に取り残される。
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