1 兆
十数年前。内戦は激しく、兵力の不足を補うため、手当りしだいに若者を徴用しては急ごしらえのカリキュラムを詰め込んで、戦線に放り込んだものだ。
錬金術を使うというだけの理由で、その術の内容如何や人的資質も問わずに「兵器」として扱いもした。
そして・・そんな中にロイ・マスタングもいた。
あの頃は、この手で人間を灼き殺すなんて、考えたこともなくて。
「黙っておけば分からねーよ、そんな能力。申請しないでおけば、戦争で使うこともねーんだから」
皆といるときとは違う、おだやかなトーンで親友が言う。その唇にはさまれた煙草に、錬成で火を灯してやる。覚えたてで、ただ蒸かすように吸う真似をするだけなのだが、その匂いはどこかおとなびて・・そして、それはふたりきりでいる時だけの儀式のようになっていた。宿舎での喫煙は禁止されていたから、これは二重の禁忌。
「・・しっかし、このチカラ・・炎なんて、他にどういう平和的利用法があるっていうんだ? あ、そうだ・・」
腕の中から抜け出し、窓を開ける。
ロイがこんなに無邪気にはしゃいでみせるのも、ふたりでいる時だけ。
「見てろよ」
指を鳴らし、宙を仰ぐ・・夜空に巨大な華が咲いた。赤く、青く、天を覆って輝いて。
「な? キレイだろ?」
しかし、振り向いたとき、そこに親友の姿はなく・・戸惑って、急に不安になって、その名を叫んだ。そして・・
「大佐ッ! なに寝ぼけてるんですかッ!」
「ああ? ・・夢か・・」
あいつの夢なんて、えらく久しぶりに見た気がする。
実際には、あんな花火なんて、試したことはなかった。今でも理論的にできるかどうかは分からない・・アイデアを話したことはある。
くすっと笑って「そりゃ丸で、ホントの万国ビックリショーだな」と言われて・・だから、どうしても見せてやりたくて計算式に取り組んだことはあるが、確か、完成する前に召集されたはずだ。
「離してくださいっ! セクハラで訴えますよっ!」
「・・あ? ああ、すまん」
どうやら、起こしに来てくれたリザ・ホークアイ中尉に、寝ぼけて抱きついてしまったらしい。
「・・もう。職場に泊まり込むクセ、どーにかしてください。東部と違って、中央には個室もないことだし、これでようやくおとなしく自宅に帰るようになると思ってたのに」
「仮眠室は、眠るためにあるのではないのかね」
「大佐の場合、仮眠というより、住み着いてる状態じゃないですか。ご自宅の荷物、いい加減、ほどいたんですの?」
照れ隠しなのか、猛烈な勢いで怒鳴るリザから目をそらす。
他にも誰か眠って・・そして一服して出て行った後なのか、ほんのりと煙草の匂いが薄暗い室内にこもっていた。
いつもならそれは、ハボックを連想させる匂いの筈だ。結婚して、奥さんがひとこと「煙草の味のキスは、あまり好きじゃない」と言ったという理由だけでスパッと辞めてしまったというのに、夢では・・彼の想い出と結びついていた。
「しかし・・今日こそ、帰れるのかね?」
大佐らがバリ−・チョッパーやリン達と組んで行った“釣り”や、エドワード・エルリックがわざと“傷の男”を引っ張り出して人造人間を捕まえようとした市街戦の後片付け(それも現実の後片付けではなく、くだらない書類上の!)は、なかなか終わりそうにもない。
事情聴取の準備に(もちろん、エドワード一味がホントのことを言うわけではなく、それらしい言い訳をでっち上げるわけで、その言い訳作成もかなり大変なのだが)、その調書作成、壊れた建築物の修繕費予算の見積もり計上だの、予算委員会(の根回し)の準備、議事録作成・・まるで、これら一連の騒動に大佐らが関与していることが、上層部にバレているのでは? と勘ぐりたくなるぐらい、ドサドサと仕事が与えられていたのだ。
そして、今日はそれらの総括として、上官らの閣僚会議が行われる予定で・・その議事録の整理が待ち受けている。
はぁ・・私としたことが、スケジューリングをミスった・・と、胸の底で嘆く。そういえば、今日は、鋼のと逢う約束ではないか。
いつもいつも薄暗い密室でセックスするだけで・・ちょっとは恋人だと思ってるんなら、たまには外にデートに連れていきやがれ、との強い要望だったのだ。
そりゃあ、立場上、恋人ですと宣言して、堂々と連れ歩くわけにはいかないことぐらい、理解はしているだろう・・多分。
「軍人さんには、そーいう趣味のヤツは多いっていうじゃないか」と不満げではあったが「多い」のと「ノーマル」とでは、大いに異なるということを、懇切丁寧に説明したつもりだ。
大体、エドを国家錬金術師に推薦したのはロイであり、口さがない人にかかれば「私情で愛人を推挙した」という噂にもなりかねない・・まあ、実際には、それは順序が逆なのだが、噂というのはそういうものだ。特に、悪意のあるスキャンダラスな噂は。
だが、一緒に食事をして買い物に行くぐらいなら、問題ないだろう。いつぞやも、地母神祭を見に行きたいと・・結局、エドが一方的にドタキャンして、他の男と行ってしまったわけだが。
エドに言わせれば、それも前日に自分が持ち帰り残業などして、あまり構ってやらなかったのが悪い・・んだそうで。
「・・聞いているんですか!?」
「あ? すまん、聞いていなかった」
「ですから、そろそろ身支度をされないと、例の会議が・・」
「ああ、そんな時間か。だが、君がそこにいると、私は身支度ができないのだが・・独身女性の前で着替えるほど、私も破廉恥ではないのでね」
リザがみるみる耳まで赤くなった。おお、彼女でもこんな女性っぽい反応もするんだ、とちょっと感心する。
リザが叩き付けるように扉を閉めて出ていった後、ロイはのろのろと身支度を始めて・・夢を見ていた筈なんだがな。
思い出せば思い出そうとするほど、イメージが色褪せてくる。指の間から砂がこぼれていくように・・そして、それらがひと粒残らず失われたとき、いつもの不敵で野心に満ちたロイ・マスタング大佐が出来上がった。
リンは熱にうなされながら、何度も不快な夢を見ていた。
自分が女になって、エドに抱かれている夢・・だが、気付くと愛撫されているのは別の身体で、自分は離れた場所にひとりぽっちで・・嬌声をあげながら幸せそうに昇り詰めていく女と、その耳もとに何やら愛の言葉を囁きかけているエドの姿を、なす術も無く見つめる・・そう、愛されているのは“俺”じゃない、と思い知らされて。
目覚めるたびに、涙を流していた。こぶしで目尻を拭い、軽く鼻をすする。
・・バッカだよな、女になりたいっつー願望でもあんのかよ、俺。
多分、素女丹を飲んで一時的に女体化した影響で、男性としてのアイデンティティが混乱しているのだろう。高熱で思考が断片的になっているせいもあるかもしれない。
『リン様・・目、覚めました? お食事されます?』
『いや、腹は減ってない』
『何か、召し上がらないと・・』
『・・食えない』
時間の感覚がない。何日か何も食べておらず、トイレもランファンに肩を借りながら、何回か行ったきりだ。ランファンがアルフォンスに「医者を呼びたいが、どうしたらいいのか」と、おろおろと相談していたのを聞いたような気もするが、実際に医者が来たのかどうかは分からない。もしかしたら、眠っている間に来ていたのかもしれない。
『なぁ、ランファン・・エドは見舞いに来たか?』
ランファンは背中を向けて、タオルを濡らして絞っているところだったので、表情は見えなかった。
『いいえ』
『・・本当に、一度も?』
『ええ』
ランファンの顔が見えていたら、リンは彼女がウソをついていたことに気付いたかもしれない。何度も見舞いにきたエドを、勝手に追い返していたのはランファンなのだから。
だが、リンはただ、そっか・・と呟いただけだった。
エドは見舞いにすら、一度も来てくれないのか・・自分の手が視界に入る。指に巻かれた包帯に、茶色く血がにじんでいた。怪我・・どうしてつけた傷だっけ。手首の間接がやけに骨張っているように見え、腕がちょっと痩せたような気がした。
熱が引いて、まず思ったのは「女が欲しいナ」だったが、もちろんランファンがそれを許すわけがない。
いや、ついそう思ってしまったのは、ルーティンな思考パターンでしかなく、己の身体が本当にそれを求めているわけではないことぐらい、理解していた。
滞っている“気”の流れを正してやればいい。そうして自然治癒力を高めてやれば、身体も精神も、大抵治るものだ。
それに・・こんな精神状態で女を抱けば、その女に依存してしまうだろう。
“気”を高める秘術は、閨房だけで行われるのではない。呼吸法や体操・・そして、女体から“気”を吸い取るように、自然のエネルギーを感じ取って身体に取り入れる方法だってあるのだ。
『ランファン、河原にでも散歩に行ってくる』
『ご一緒しましょうか?』
『いや、いい・・寝ずに看病してくれていただろう。少し休め』
ランファンはうなづいて・・リンが部屋を出ていくと、コテンとベッドに上体を投げ出した。シーツに染み付いたリンの汗の匂いを、胸一杯に吸いながら眠ってしまう。
街外れの河原は夏の陽光を浴びて、むせるような草の匂いに満ちていた。遠くに散歩を楽しむひとの姿がちらほらとあったが、リンが立っている土手の周辺は貸し切り状態だ。
リンは半眼に目を開き、静かに深呼吸する・・天空と大地の気を感じ取ろうとした。
わずかに揺れる気の動きを追うように、身体が自然に、ゆるやかな弧を描くように動く。右手に握りしめた青竜刀が、日光をギラリと鈍く照り返した。
故郷とは違う天、違う地・・その微妙な違和感が邪魔をして、なかなか忘我の域には達さない。いや、ノイズがあるのは、自分の方なのだろうか。
・・続けるうちに薄っすらと汗をかいた。胸の奥にはまだ、モヤッとしたものが残っているが、身体はかなりスッキリした。
青竜刀を鞘に納め、風になぶられる髪を片手で押さえる。爽やかな天気だった。ひなたぼっこをしているだけでも、心が洗い流されそうな・・そして、思い出したように腹がグーッと鳴った。
途端に、猛烈な空腹とめまいを感じて・・リンはうずくまってしまった。
ロイが会議を終えて廊下に出ると、既にエドが所在なげに待っていた。
「・・行くんだろ?」
ロイを見つけたエドが、飛び立つようにして出迎え、ウキウキと声を弾ませて尋ねる。
これから議事録の清書が・・とは思うのだが、そんなエドの笑顔の裏に「もし断わったら右手でぶん殴る!」という殺気がほんのりとにじみ出ていた。最近、エドがごねるネタは「仕事と俺のどっちが大事なんだ!」だ。そんな問い、男としては回答できるわけがないのに。
しかし・・忙しいのだよ、私は。ロイはそっとリザの方をうかがった。リザはさすがに優秀な側近らしく、その意図を察したらしい。
「この走り書きをまとめて、タイピングするのには3時間ぐらいかかりますね。大佐が目を通してサインを入れて、この議事録に対するレポートを書くのは、それからです」
「・・つまり、3時間ぐらいは抜けだせる、ということかね?」
リザは無表情な顔を作って、ペラペラとスケジュールを書き込んだ手帳を繰る。
「そうは言っていませんが、不可能ではありませんね・・もちろん、万が一、何か事件があって呼び出しがあったときに、連絡がつかないということになれば、大変なことになりますけど」
「結構だ。鋼のがここにいるのだから、“大変なこと”の現場にもっとも近い位置に居られる」
「どーゆー意味だよ、大佐っ!」
「・・冗談はさておき・・では、外出されるのですね、大佐。必ず2時、遅くとも2時半までにはお戻りください。戻らない場合は即、デフコン3で市街全域に包囲網を張りますからね」
「デフコン3? 対テロシフト並だな」
「いつでも出動できますよ」
しれっと言うのは、ハッタリではない。以前にも一度、ロイが地母神祭の警備をサボって休暇を取った挙げ句、翌日も無断欠勤をしたために、本当に包囲網を張らせた“実績”がある。あのレベルの作戦を打つ、とリザは言っているのだ。
勝手に衛兵を動かして、上層部になんて言い訳したのかは知らないが、前回はファルマンやブレダら元東部指令部組がこぞって知恵を絞ってうまく適当な理由をでっちあげたらしく、なんのお咎めもなかったと聞く。
「・・わ、分かった。必ず帰る」
思わず顔が引きつるが、それでも「やっぱりやめた」とは言わないのが、ロイらしい・・ふたりが並んで歩き去るのを見送って、リザはフーッとため息をついた。
「悪いネェーもう一皿食べてイイ?」
エドは、ロイとのデート中だというのに、耳慣れた異国訛りを聞いて、身体ごと振り返ってしまった。あいつ、熱出して倒れてるんじゃなかったっけ?
「ああ、いいよ。よっぽどお腹が空いてたんだね、かわいそうに。良かったら僕の分も食べる?」
「ホント? じゃ、遠慮ナク・・」
見れば、カフェテラスに、私服姿のブロッシュ軍曹と長い黒髪を束ねた少年がランチを囲んでいた。少年は無邪気に慣れないフォークさばきで、パスタだのサラダだのを平らげているようだ。頬にミートソースがついているのを、ブロッシュが苦笑しながらナプキンで拭ってやっている。それを見たエドはつい、逆上した。
「リンッ! おまえ、治ってたのかよ!」
いきなり呼び掛けられたリンは、ローストチキンをくわえたまま、キョトンとして振り向いたが、エドの後ろにロイがいるのを見て取るや、表情を変えずにテーブルに向き直ると、何事もなかったかのようにチキンの足を素手で引っ張って、肉を食いちぎった。
「呼んでるよ。お友達じゃないの?」
何も知らないブロッシュが尋ねるのを、リンはポテトに手を伸ばしながら「サー? 人違イじゃナイ?」などとすっとぼける。
「おーまーえーなー。そんなキョーレツに個性的なカッコしてて、人違いもヘッタクレもねーだろーが!」
エドがリンの束髪をぐいっと引っ張った。リンは頬張っていたポテトでむせて咳き込み、ブロッシュがオロオロとリンの背中をさすろうと手を伸ばす。
ロイも、エドの唐突なおとなげない行動に面食らっていた。
「は、鋼の!」
「エドワード君!」
「・・アレ、お知り合イ?」
慌ててブロッシュのコップを手に取って、その水を飲み干しながらも、リンはブロッシュがエドの名前を呼んだことに気づいていた。
「ああ、知り合いというより・・上司、かな? 僕一応、軍属だから・・」
「ヘェ?」
「その、今日は非番で」
「ソーナンダ」
エドは、なおも無視され続けていることに逆上しかけるが、ロイに肩を掴まれたために、仕方なくリンの尻尾から手を離す。
「・・一体、どういう経緯で、軍曹とその男が食事をしてるのかね?」
「はい、この子が川原で倒れてたところに、ちょうど自分が通りがかりまして・・お腹がすいたとのことでしたので、食事をさせていたところであります」
「また行き倒れかよ! 得意技だな、ええ?」
エドが口を挟むが、リンはブロッシュの服を引いて「ネェ、デザート頼んでイイ?」などと尋ねて、話の腰を折った。ブロッシュはニコッと笑って「どうぞ、どうぞ」と答えて、ウェイトレスを呼ぶ。
「ところで、大佐とエドワード君は、今日は・・?」
「あ、ああ。一緒に服を買いに、な。なにせ鋼のは着たきりスズメだからな。私がコーディネートしてやるんだ」
「なるほど・・これからの季節、暑いですからね。大佐とエドワ−ド君は、本当に仲が良いですね」
「そうかな? そうだな。その通りだな。はっはっはっ」
リンは我関せずという顔で、届いたフルーツパフェをパクつきながら「こっちが熱で苦しんでたってーのに、エドは見舞いに来るどころか、ノンキに大佐とおデートかよ・・」と、内心激しくムカついている。そんなヤツなんざ“お友達”でも何でもない。
「ネェネェ、オレもソーいう服、欲しいナァ。シン国の服って、コッチじゃヘンだロ?」
甘える声を出して、ブロッシュを見上げてみた。エドとロイは、似合わないリンの媚びに虫酸が走るのを覚えたが、ブロッシュは狙い通りほだされてしまったらしく、頬にみるみる赤みが差してくる。
「そ、そうかい? じゃあ、一着ぐらいなら買ってあげようか?」
「ホントー? ウレシイナ!」
別に、リンは服なんかどうでも良かったのだが、エドが一番嫌がるパターンを考えた結果、ブロッシュをたらし込むのがいいだろうと思いついただけの話だ。案の定、わざわざ振り向いて顔を確認しなくても、背中で感じるエドの“気”が、怒りで膨らんでいくのが感じられる。リンは、してやったり、と唇の端を軽くゆがめた。
「・・大佐、よろしかったら一緒に行きませんか? 知っている服屋があるんですが、安いし、腕も確かなんですよ」
おかしな形でダブルデートになってしまったが、実はブロッシュがロイを誘ったのは、別の理由もあったようだ。
「大佐・・その、お願いがあるんです」
ヨダレを垂らさんばかりに、ブラウスを次々試着しているエドを眺めていたロイは、ブロッシュに話し掛けられて我に返り、コホンとせき払いをする。
「実は・・自分、今日は持ち合わせが少ないんで、服の代金を立て替えて欲しいんです」
「はぁ?」
確かに、下士官が給料日前に豪快に貢いでいる姿を見て、上官として「おかしい」とは思ったが・・しかし、持ち合わせが足りないと分かっていながら「服を買ってあげる」と言ってしまうとは、ブロッシュのお人よしにも程がある。
いや、あえてそこまで言わしめた、リンのマインドコントロール能力に敬服すべきか。
「あいつに、そこまでする必要ないぞ」
「大佐、あの子をご存知なんですか?」
「ご存知も何も・・」
まさか「恋敵だ」とは言えない。口ごもるロイを、ブロッシュは不思議そうに見つめたものだ。
「これ、ドォ? ネェ、このタイ、結んでくれル?」
とりあえず片っ端から袖を通すエドとは対照的に、リンは素材を触るなどして吟味してから、ようやく白いシルクのブラウスと黒い細身のスラックスを選び出した。
ブラウスは特殊な織り方をしているのか、光の具合で微妙な色が浮かび上がる。袖口や胸元には、金糸で繊細な刺繍が施されており、袖ボタンはカメオのカフスになっている。
一歩間違うと成金趣味になりそうなところを、上品に着こなしているあたりはさすがだ。
ブロッシュが照れくさそうな表情で、リンの胸元の細いリボンタイを結んでやるのも、微笑ましい。
だが、店の主人が不安げにコソッと耳打ちした金額を聞いて、ロイの顔が青ざめた。
「・・そんなもん、いくら私でも手持ちの金なんぞで払えるかっ!」
「え・・いくらなんですか?」
「おまえの給料が丸ごとすっ飛ぶ」
「・・そんなに!?」
悲愴な会計担当らの声が聞こえたのか、リンが小首を傾げて「これダメ? 替えル?」と、声をかけた。だが、その姿は見事なぐらい似合っていて、普通の木綿のブラウスがみすぼらしく感じられるほどだ。
別に、安月給のブロッシュを困らせようと思って、わざと高い服を選んだのではなく、単に一番気に入った服を選んだら、たまたまそうなったというだけだ。ブロッシュにもそれが分かっているだけに「安いのに替えようか」というリンの心遣いが逆に、心苦しい。
「ぶ・・分割、できますか?」
「イイの? ダイジョブ!?」
「ああ・・大丈夫だ、多分・・そうだ。その服にその靴じゃアンバランスだから、靴も買ってあげる」
「軍曹、正気か!?」
一方、主役の座を奪われた形のエドは、面白くない。
大体、エドは一応(いくら相手も潤沢な資金を与えられた国家錬金術師とはいえ)、ロイの財布の中身も心配しながら、かつ絶妙にロイの好みと自分の羞恥心とアルの猜疑心のバランスをとって、服をチョイスしているつもりだというのに・・リンのやつ、ちょっと無神経すぎないか?
エドはふと、リンが女に化けた時のことを思い出していた。いや、元に戻ったとは聞いているが、まさか・・?
リンの正面に回り込み、両手でリンの胸をわし掴みにする。
「・・なんだ、ツルペタじゃねーか・・」
またリンが女体になってしまって、そのフェロモンでブロッシュをたらし込んだのではないかと疑ったのだ。
そうか違ったのか。ちゃんと治ったんだな、良かった・・だが、リンはその言葉を『悪かったな、ツルペタで。女体じゃなきゃ、俺に用はねーっていうワケ?』と受け取ってムッとし、エドの手を乱暴に払った。空気が再び険悪になる。
「は・・鋼の、もうそれ以上、そいつに構うな! 軍曹、我々はここで失礼する・・そろそろ2時になるし、な」
「そ、その方が良さそうですね。じゃあ、行こうか、えーと・・」
「リン・・」
「そ、そう。リン君」
エドとロイが、思わず顔を見合わせる。ブロッシュ軍曹ってば、名前も知らない相手にランチをおごって・・ランチだけならまあ、人助けだとしても、向こう3年の分割払いにしてまで、高価な服を貢いだっていうわけ!?
・・ブロッシュはリンの手練手管に転がされて、身ぐるみ剥がされるのではないか、いやリンに限らずこれから先の人生でも、いろんな人にダマされてツボや石ころなんかを高く売り付けられるのではないのかと、激しく心配になってしまう。
店を出て、ロイの服の袖を掴んで並び歩きながら、エドがもう一度だけ振り返って、遠ざかっていくリンとブロッシュを盗み見た。いつものダボッとした民族服ではなく、スラッとしたパンツ姿のリンは、いつもとは別人のようだ。
エドは一瞬、リンが振り向いてくれるのを期待したが、その前に連れ立って歩くふたりの姿は人込みに紛れてしまい、ロイにも「鋼の?」と呼び掛けられる。
・・知るかよ、あんなヤツ。エドは気持ちを切り替えると、ロイを見上げて「大丈夫、なんでもねーよ」と、ニコッと笑ってみせた。
「じゃあ、仕事が終わった頃に、また行くよ。ディナーおごってくれる予定なんだろ?」
「私にとっては、君が最高のディナーだよ」
「けっ、キザなこと言いやがって!」
とりあえず、ホテルに戻った。部屋の明かりをつけると、中央のテーブルの上の「リンのとこに、遊びに行ってきます。アル」という書き置きが目に入った。そして、金属磨きのツンとする匂い・・多分、デートのつもりで、せめて全身をピカピカに磨いたのだろう。そのアルの純情が羨ましいような、妬ましいような、訳の分からない苛立ちを覚える。
・・行ってもムダだぜ、あいつはブロッシュさんとデートしてるんだからな。
ベッドに寝転がる。知り合ったばかりのようだけど・・あいつら、どうするんだろう? ブロッシュさんはノ−マルに色ぼけてるから、男相手に何もなくても、別におかしくないのだが・・でも、あれだけ貢いで下心なしというのも不自然すぎる。
女にモテなさすぎて、男に走ったのかっ!? 自分を棚にあげて、エドはそんなことを思ったりもする。
だとしたら・・どっちなんだろう?
ブロッシュがリンを抱くのか、リンがブロッシュを抱くのか・・体格的にはどっちもあり得そうだ。エドは、リンが自分を抱くときと、逆に女体化したリンを抱いたときの、両方を思い浮かべて比べてみた。
どっちでも・・純情そうなブロッシュはイチコロだろうな。
不意に、白く丸い、ゴムマリのような弾力のある乳房の感触が掌に蘇り、股間が反応してきた。
もったいねーよなぁ・・あれっきりだもんなぁ。そりゃ、男に戻れて良かった・・んだけどよ。
アル・・もしリンがいなかったとしても、まだこっち帰ってきてくれるなよ。兄も健全な青少年なんだ。エドはティッシュを枕元に引き寄せると、ゴソゴソと布団をひっかぶり、己をしごきあげて・・やがて、劣情を吐き出して、処理したモノを屑かごに放り投げると、そのままウトウトと眠ってしまった。
けたたましいホテルの内線電話のベルに起こされた。思わず跳ね起きるが、とっくに陽が落ちて暗いため、一瞬何も見えずに動揺する。なんとか手探りで受話器を掴んだ。
「お電話です・・おつなぎしましょうか」
フロントの男性の声。ハイと返事をする前にプツッと音がして回線が切り替わったところをみると「おつなぎしましょうか」のセリフはルーティンな決まり文句なのだろう。
「・・私だ」
「ああ、大佐。どしたの?」
「今日は、遅くなる」
ちょっと立て込んでいてな・・10時を回ると思う・・言い訳のようにグダグダいうのを聞き流しながら、エドは懐中時計を取り出して、薄暗い中なんとか針を読み取る。7時に迎えに来る約束だったのが、もう8時半を過ぎていた。エドは力のない声で「あーそう」とだけ答える。
「・・あのさ。こっちは腹ぺこなんだけど。予約してるレストランで、あんたのツケで食ってていい?」
「その手があったな。残念ながら、もうキャンセルした。遅くなるから、今日逢うのはやめておこう・・というつもりで電話したのだがな」
「なぁ・・そっち行っちゃダメ? 仕事の邪魔したりしないから。行く前に、適当にメシ喰ってくし」
「どうした? 今日はいやに積極的だな」
「そーでもねーよ・・ダメなのか?」
だって、アルもいないし、リンにも会いにいけねーし・・アルが帰ってきてないってことは、リンと会ってるってことなんかなぁ、ブロッシュさんとはどーしたんだろう? エドは無意識に、電話のコードを指に巻き付けて弄んでいる。
「本当に忙しいんだ。こうして外に出て電話をしている時間も惜しいんだぞ」
「じゃあ・・俺、浮気しちゃおっかなー」
「!・・勝手にしろツ」
「勝手にしろって・・浮気してもいいってこと?」
「・・そんなことしたら、今度こそ本ッ当に、ヤツを国外退去処分にするぞ。もう受け付けは閉まってるから、指令部には勝手に入って来いってことだっ!」
叩き付けるように、通話が切られる。妬いてくれてるのかな? でも、俺に怒鳴ることないのに。
受話器を戻すと、アルの書き置きをひっくり返し「大佐のとこに行ってきます、エド」と、万年筆で書いておいた。
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