3 子犬と山猫
呆れたことに、ロイは前夜、自分がノックスの腕の中で暴れたことを丸で覚えていなかった。
「どーしよーもなかったから、簀巻きにして、そこに転がしておいたぞ」
「ひどい医者だな。人権擁護団体に訴えるぞ」
ロイはぶ然として言うが、心底怒ったわけではないらしく、まだノックスのベッドを占領したまま、ノックスがもらってきたスープをすすっている。
「・・どこまで覚えている?」
「どこまで・・というと?」
「その・・何をどこまでされたか、とかだ」
「セクハラ発言だな。そんなもん聞いて、どうするんだ?」
「話したくないなら、いい」
一体、何が引き金になったのか興味が沸いただけなのだが、精神科は専門外であるため、聞いても治療してやれるわけではない。それに・・仮に何かの心的外傷があったとしても、それを和らげてやれる薬はここにはないのだ。
「おまえさん、これが初めて・・ではないんだろ」
「あなたは?」
「ねーよ。もう二度とゴメンだ」
「・・いれなきゃ、錯乱しない筈なんだが・・」
「はぁ?」
ロイの台詞の意図が掴めず、思わず聞き返したが、ロイが何か言いかけたときに、テントの入り口に取り付けたノッカーを鳴らす音がした。
「あの・・マスタング少佐がこっちに来て・・ああ、いたいた」
ロイの友人で副官でもある眼鏡の男・・ノックスは名前を覚えていなかったが、マース・ヒューズ・・が、入ってきた。
「ハクロ大佐が、作戦会議だとかで呼んでいたぞ・・昨日からずっとここにいたのか?」
「ああ・・悪いか?」
ロイのちょっと拗ねたような口調に、ヒューズが困ったように笑う。
「悪くないさ、別に・・ただ、無断で居なくなられると、何か事故にでもあったのかと心配するだろ?」
「いちいち、お前の許可が必要なのか?」
「そういう意味じゃないけど・・分かった分かった・・もう、いいから・・さ、行くぞ」
そんなふたりのやりとりをぼんやり眺めてて、ああ、そうか・・とノックスは合点する。このふたりはどうやら“そういうこと”らしい・・その手の趣味は、軍人の間では大して珍しくもない。
だからって、ノーマルなヤツまで巻き込むんじゃねぇ・・ふたりがテントを出ていき、ノックスは舌打ちをするとデスクに向かった。
「センセー。犬の皮の剥ぎ方って知ってます?」
「犬?」
「犬は炒めて喰ったらうまいらしいんですがね、その・・いざ目の前にすると、どこから包丁を入れていいんか・・」
「犬なんかどこにいたんだ? まさか軍用犬じゃあるまい」
「5キロほど東に、村があるんすよ。斥候の連中が見つけたらしいんですがね・・」
ハボックの足許には、ころころと太った子犬が3匹じゃれついている。そいつらを足であやしながら、ハボックは玉葱の皮を剥いている。
「人間の皮なら得意だが・・犬は経験がないな。先に焙って、毛を焼くんじゃなかったかな」
「ふーん? じゃあ、あの国家錬金術師ドノにでも焼いてもらおーか・・でも、あのヒト、一見とっつきにくいっすよね」
そうでもない・・と言いかけて、やめる。ロイを擁護してやる義理もないし、何故そんなことを知っているのかと問われて、説明するのも面倒だ。
「しかし・・そんな村があったなんて」
「まずいっすよね。斥候の連中は、村外れにいた犬っころを盗んできたぐらいで帰ってこれたけど・・このまま支援部隊こない状態続いたら、下手したら略奪とか始める奴等が出てくるかも」
「通信技師に後方と連絡が取れないか、聞いてみると言ってなかったかね?」
「それそれ。通じないんすよ。まじ、やばい状態で・・んで、上の連中が血相変えて会議おっぱじめて」
ハクロ大佐がロイを呼んでいたのは、その件なのだろう。
「なんのカンケーもない民間人の村、襲うようになっちまったら・・正義もへったくれもねーよな。そもそも、この戦争に正義なんてあんのかどーか疑問だけど・・だからって俺達、ここで野垂れ死にゃしたくねーし・・でも、略奪はやべぇよ」
「そんなこと言っても、その犬は喰うんだろ?」
「それを今、迷ってるとこ・・ホントにうまいのかなぁ・・こいつ」
一匹の首筋をつまみ上げる。遊んでもらえると勘違いしているのか、子犬はキューキューと啼いてもがいていた。
「なんでいちいち俺んとこに来るんだ・・ここに薬はねぇって言ってるだろうが」
戻ってきたノックスは、露骨にイヤな顔をしてみせた。それでもロイはお構いなしで、すっかり定位置にしているノックスのベッドに長々と横たわっている。
「そんなに何度も言わなくても、薬が無いのは分かってる」
「だったら何だ? 男が欲しけりゃ、あのオトモダチがいるだろーが」
「ヒューズは・・あいつとはもう、そういうんじゃないんだ」
もう・・ということは、以前はそうだった訳だな、とは思うが、それ以上は追求しない。そうであったからどうだというのか。ノックスには別に関係のないことだ。
「あと1週間、待つそうだ」
ロイの言葉にノックスの片眉が吊り上がる。何を待つと聞くまでもない。先ほどの上層部会議の内容だろう。
「待てるわけねぇ。医薬品もとうにきらしてるし、糧食だって砂糖も肉も尽きて、若いもんが山猫を捕まえるだの犬を喰おうだの言い出してるぐらい、逼迫してるのに」
「上の連中は、勝手に撤退して、命令違反で処罰されるのがこわいんだろうな。ハクロ大佐もしきりにそれを気にしていた。会議の内容は、なんとか処罰されずに撤退するための言い訳探しだ。くだらん」
「しかし、1週間は物理的に不可能だろう」
「それを今、私に言われても困る。言うなら、ハクロ大佐だろう」
それだけ待たされれば、本当に村に食糧を“現地調達”しに行く連中がでてくるだろう。食糧だけで済めば良いが、女を調達したり、証拠隠滅の口封じのために殺戮や放火をやらかしたりなどすれば、命令違反なんて生易しいものじゃない。それほど追いつめれられているというのが、分からないのだろうか?
「・・それもそうだな」
じゃあ、直接言ってくるか・・と腰をあげようとすると、ロイが起き上がって手を掴んだ。
「どこへ行く?」
「だから、おまえさんに言っても埒があかねぇんだろ?」
ロイの手が、じっとり濡れて熱かった。見下ろした顔はほんのり上気しており、ノックスをぎょっとさせる。
「男が欲しけりゃ、よそで調達してくれ。俺はもう、ごめんだ」
「どうして? 昨日だって、まんざらでもなかったくせに」
「だったら、途中で嫌がって抵抗したりするんじゃない」
「・・出したかったのか?」
ロイの唇が妙にぬれぬれと紅く、その端が吊り上がる。ちろりと蛇のように舌をひらめかせた。
バカなマネはよせ・・というつもりだったのだが、ノックスの舌は上顎に貼り付いて、声が出なかった。
どうしてこのオッサンに・・と問われると、ロイにも分からない。
実験的な殺人の“共犯者”・・だからだろうか。それとも安寧をもたらす薬の供給者だからだろうか。医者だから口が固いだろう、という読みもある。“患者”が信頼できる医師に疑似恋愛の感情を持つのも、珍しくないケースだ。
だが、どれもこれも後付けの理由で・・あえて本当の理由を挙げるのなら、本能的に「彼は信用できる」と感じていたということだろう。
女ッけのない生活で溜まっていた迸りを喉の奥で受け止め、手の甲で唇を拭う。呆れたような目が見下ろしていた。
「・・まぁ、俺は構わんがな」
突き放すような言い方だが、ロイがノックスの胸に頭をのせる形で重なるように横たわっても、1人分のスペースしかないはずの狭い簡易ベッドから、あえてロイを追い出すようなことはしなかった。
「おまえさんは、いいのか?」
そう尋ねたのは、ロイの膨らみが足に触れたせいだろう。
「また・・暴れてしまって、迷惑をかけても・・な」
「ああ、そうかい」
劣情はあるのに、それを受け入れることができない・・無理をすれば、昨日のように暴れてしまうだろうという自覚はあった。もどかしく、また口惜しいが、それを我慢することには慣れてしまっていた。
「そういえば、レイプなんかの後遺症で、似たような状況でフラッシュバックを起こす患者の話を聞いたことがあるな。身に覚えはないか?」
「・・覚えていない」
「厄介だな」
無事に生きて帰れたら、薬剤師にねじ込んで、少しは楽になれそうな薬でも調合してもらおう。ノックスはため息をついて、ロイの黒髪をクシャッと撫でてやった。
スープは相変わらず芋と少量の野菜がメインで、肉は入っていない。子犬の分は皆で少しずつ分け与えているのか、チビどもは相変わらずころころと太っていて、上機嫌で宿営地を走り回っていた。
兵士らのストレス解消になるなら良いとでも思っているのか、そういうことにはうるさい筈のハクロ大佐も黙認していた。アームストロング卿に至っては、食用にする予定だったことを知らされていないのか、フェルディナントだのマーガレットだのベンジャミンだのと、御大層な名前をつけて呼んでいたようだ。
「肉は諦めたのかね?」
「その前に、山猫を捕まえようと思ってね・・ブレダが罠を作ったんだ」
「山猫は警戒心が強いから、なかなか捕まらんと思うがね」
「なあに、山猫にだって、たまには人慣れするヤツがいるだろうさ」
さらに一言二言、軽口を叩こうとしたハボックが、気まずそうに言葉を飲み込む。
・・現にセンセーだって、人慣れしないヤツを手懐けてるじゃありませんか。
代わりに「まぁ、もしダメでもあと数日だと思えば、我慢できるし」と言って、ニヤッと笑ってみせた。
物理的に不可能だと思われた1週間だったが“終わり”が来ると分かっていることには、人間、案外耐えられるものらしい。明日の早朝には撤退することになった。
「本当に、上の連中は我々を野垂れ死にさせるつもりだったようだな」
「人体実験の実行犯の私達を、消したかった・・のかもしれん」
「部隊ごとか? たかが一介の軍医と、おまえさんのような若造のために?」
「機密を知り尽くした男と、そいつとつるんでいる人間兵器、だ」
ここまで露骨に補給を断たれると、被害妄想ならずとも、それもあながちウソではないような気がしてくる。
「ともあれ、本部に戻ったら、おまえさんが欲しがってた薬も存分にあることだし・・こんなことをしなくても済むようになるわけだ。おまえさんだって、女相手ならいけるんだろう? 無理してこんなむさいオッサン相手にしなくても」
ロイが一瞬、不満そうな表情を見せたが、ノックスは気付かなかったふりをした。
こうして寝てやるのは、あくまでも鎮静剤がない代用のつもりであったからだ。
「これが最後だっていうんなら・・もう一度、試してくれないか?」
「試すって・・」
「前もって手足を縛っておいてくれればいい」
「おいおい、そんな嗜虐趣味はねーぜ。そこまでしてケツ借りたくはねぇ」
「私が・・」
その先は聞こえなかった。というより、聞きたくはなかった。
(抱いて欲しいんだ)。
「そーいうマニアックなことは、もっと親しい友達に頼め」
「あいつは優しすぎて、根性がない・・それに・・婚約したからそういうのはできないって」
「あのなぁ、俺も妻帯者なんだが」
だが、それは聞き流して、ロイは明日の撤収のためにほぼ片付けてあった荷物を勝手に解いて引っ掻き回し、使えそうなロープだのタオルだのを探し始めた。
「これなら痕もつかないかな」
「・・もう、好きにしろ」
これから行われるであろう異常な行為をきちんと認識しているのかいないのか、振り向いてニコッと笑ったロイの表情は幼かった。
その夜はたまたま何かの獣声がやかましく、猿ぐつわを噛ませても洩れる、くぐもった嬌声を隠すのには都合が良かった。朝になって、やはり何も覚えていなかったらしいが、確かに受け入れて達したという事実には納得したらしい。
「・・良く眠れたようだな」
「おかげさまで」
「こっちは後味が悪くて、すっかり睡眠不足だ」
皮肉を言っても、とんと通じずに上機嫌で身支度をしているのには呆れる。そろそろヒューズが迎えにくるだろうな、と思っていると、バタバタと駆け込んでくる兵士がいた。
「センセー、こいつ、なんとかならねぇ?」
見れば、ハボックが血まみれの子犬を抱いていた。
「・・誰かが我慢出来ずに喰おうとしたのか?・・いや、これは獣の咬み傷だな」
「多分、山猫だと思う・・こっちが喰ってやろうと思ってたら、逆に・・2匹は跡形もなくやられちまってて、こいつだけはうまく隠れたらしくて・・」
「ここまで弱ってしまったら、難しいな。傷の縫合ぐらいならしてやれるが、抗生物質や痛み止めも底をついている。ろくな治療はしてやれんよ・・いっそ、安楽死させた方が親切じゃないか?」
昨夜の声はこれだったのか。
こんな犬っころ、さっさとスープの具にしてしまえば良かったんだ・・と言いたいところであったが、それでも一応、膝の上に転がして傷を調べてみる。
「おい、人間兵器。たまには平和的利用をしてみたいとは思わんか?」
目立たないように影に隠れて、スキを見てテントから抜け出すつもりであったロイは、急に呼び掛けられてビクッとした。ハボックも、ロイの存在に初めて気付いたらしく、ポカンとしている。
「乱暴だが、傷口を焼いて塞ぐ。酒が残ってりゃ消毒に使えるが、それも無いんだ」
こいつが最後の一滴まで飲みやがったからな・・とは言わない。
「そんな焼き方、知らん。丸焼きでウェルダムかレアかぐらいはさんざやったがな」
「この範囲だけをレアで、だ」
司令部は撤退してきた部隊に、あえて何も言わなかった。見殺しにしようとした後ろめたさがあったのか、それとも本当に、単に連絡できない状態だったのかは分からない。
「冷淡な人かと思ってたけど、意外と・・人間的なとこもあるんすね」
子犬を助けてくれた礼をいうとき、ハボックがそう口を滑らせると、ロイは余計なことを言うなとばかりに、じろりとにらみ付けたものだ。
そして。
本部に戻って仕上がったカルテを提出し、新たな“実験”の課題を出されて、うんざりしながらノックスが宿舎に戻ると・・当たり前のような顔をして、ロイがいた。
テントの時と違って、勝手に入ることができないので、人目を気にしてか、軍帽を目深にかぶってうつむきながらドアにもたれている。
「・・ああ、睡眠薬か? そうだな。これで、ようやく不自由なく使えるな」
部屋に入って、薬棚を開ける。
「別に、薬をもらいに来たわけじゃない」
ノックスがぎょっとして、手を止めた。薄々分かっていたはずだったが、あくまでも薬も尽きた異常な状況下での、非常措置だと思い込もうとしていた。
「あれが・・最後だと言ったはずだぞ? そういうのは、友達に頼めと言うに」
だが、そういうノックスの声が、わずかに掠れる。
猫のようにしなやかな動きで、ロイが室内に入り込み、ふわりとベッドに腰を下ろして、こちらを見上げる姿に、視線が吸い寄せられてしまっていた・・。
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