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応竜〜A dragon with a wing


6 共命鳥去


名前は覚えていない。ただ、パオパオと幼名で呼んでいた。
皇帝の被る冠や帽子の手入れをする係の少女で、当時のスオよりはいくつか年上だった・・多分、13、4歳だったのではないか。
パオはスオを『若様』と呼び、仕事の合間にはよく遊んでくれた。美人だったかどうかの記憶はない。ただ、いつも笑顔だったような気がする。いたずらをしても困ったようにニコニコとしていて。あれが作った表情だったのか、それとも本心からのものだったのか、当時は分からなかった。

後宮の内部は、いつも女達が皇帝の寵愛を巡って、陰謀を張り巡らしていて・・スオの目には父がそんなに魅力的だとは思えなかったが、妻妾らが愛していたのは、実際には父本人ではなく、父に付随する地位や富なのだ。相手を蹴落としてでも皇帝を独り占めしようとする醜い女の争いと、それから脱落し絶望した者の自堕落な生活。それらの腐臭が、後宮いっぱいに漂っていた。
実際に、恋敵やその産んだ子を暗殺したり、皇子と認知されなかった嬰児や許されない胎児をくびり殺したりといったことはしばしばあった。そして、それらの下手人は男子禁制という特殊な世界に護られて、法の裁きを受けることもない。後宮の最奥の庭に、それらの遺体が埋まっているだの、空井戸に棄てられているだのという噂は多分、事実なのだろう。その庭に咲く花は、どれも不気味なぐらい鮮やかだ。

女なんて、皆、あの後宮のメス豚どもと同じだ。それは母とて例外ではない。パオだって。





ある日から突然、笑わなくなったパオ。
なんとか明るい表情を取り戻してほしいと、必死でおどけて話しかけて、ついにパオが破顔した・・が、その唇の中には白い歯はなく、ただ黒い穴がぽっかりと開いているだけだった。その異様な容貌にあっけに取られていると、パオはハッとして口元を袖で覆い、駆け去った。

『乳房が張って痛いから、吸ってもらおうと思ってね。それで歯を抜いたのさ』

やがて、得意そうに母が他の女と話す声が、隣の部屋から聞こえてきた。涼をとるために、竹を編んだものを壁材にしていたからだ。それに、我が子の教育は乳母や家庭教師に任せきりにしていたため、スオがすぐ近くで遊んでいるとは気付いていなかったのだろう。

『陛下もあの小娘を手放すのは惜しかったろうが・・正妻の妾に“身の回りの世話をさせるから、どうしても”と言われるとイヤとはいえなかったんだろうね』

『あんな顔になっては、もう陛下をたぶらかすようなこともないでしょうし、ね。一石二鳥という訳ですか。うまくやったものですね、奥様』

寵愛を失っていた母が、従者を誘惑して銜え込んでいた・・ということは知らなかったのだが、今思えばそういうことなのだろう。
だが、産み落とした子はくびって始末できても、乳房は我が子の死とは関わりなく膨らみ、母乳がにじみ出る。そこまでは理解できなかったが、幼いなりに母は汚い、と感じていた。

そして、母の鈴を転がすような笑声が、館中に虚ろに響く。




こんな腐った館も女共も、皆なくなってしまえばいい・・そう呪ったことは確かだが、いざそれが実現してしまうと『こんなはずではなかった』と思った。

『兄者の血を引いた男児とその母は、全て殺す』

猜疑心の強そうな吊り上った目の新帝・・次々と女子供が泣き喚きながら、新帝の側近らによって無造作に斬り捨てられていくのを見て、生き永らえることを諦めかけていた。そのとき、母が『この子は違います』と割って入った。

『その子は連れ子です。そして私は正妻でしたが、陛下の子は身篭っておりません』

それは我が子を護るため、そして彼女自身が生き延びるための嘘であったが、皇子として育てられたスオの自尊心をひどく傷つけた。

『連れ子? ふむ。連れ子まで東宮に住まわせるとは、いかにも兄者らしい。だが、私にはそんな甘い男ではない。その子は実家に戻せ』

いっそ、その場で殺してくれれば良かった。
長老家に戻されたスオは当初、厄介者として扱われて育った。いつか奪われた皇子の地位を取り戻し、帝位についてやる。そしてのうのうと妾妻の座に居残った母と、あの吊り目の新帝をぶち殺す・・その一念で学業に励んだものだ。
いつしか皇子だったということは周囲から忘れられ、単にリゥ家の長老家の一員として成長した。皇子として復帰することは、ほぼ絶望的であることは理解できたが、皇帝の地位に対する執着にも似た復讐心は消えることがなかった。





あの、囚われのリゥ皇女の憎悪に満ちた瞳・・おお、あれはかつての私と同じ眼だ。
皇女として甘やかされて育った頃よりも、むしろ現在の獣のような姿の方が、私の連れ合いとしては相応しい・・もっとも、あの匂いは閉口するがな。

スオは苦笑しながら、寝酒を煽っていた。明日は・・アメストリス国からの使者を送り出す宴が開かれる。厄介な役目だったよ、まったく。
リゥ族としては、アメストリス国よりもむしろ、その国と敵対するドラクマ国との交流が深いため、長老共は皆、アメストリス国との国交樹立には反対していた。そこを説き伏せて・・どうせ、ことが成れば全てが引っくり返されるのだから・・とは言わずに説得するのは骨が折れた。


帝位を簒奪してから、あらためてドラクマ国と結べばいい。今はまだ、時期尚早だ。







チャン妃の依頼は、ごくごく簡単なことであった。

『昨夜の記録を、書き換えておいてほしい』

ただ、それだけであった。だが、それは非常に大きな意味を持っている・・もし、チャン妃が誰かの子を身篭っていれば、そしてそれが、産み月と照らし合わせて整合性があるのなら・・その子は皇子として認知され得る。

『陛下の背中の傷は・・奥様がつけたのでしょうか?』

チャン妃は周囲を憚る小声でそう尋ね、その言葉で、ヤンフィは彼女と皇帝の間に何があったのかを、察することができたのであった。







『さすがに、そういう公式行事で替え玉は、マズいんじゃないの?』

『おとなしく座ってるだけでいいから。陛下からのお言葉・・なんてのもないし、御簾は上げないように手配してあるから。それに、料理が食べたけりゃ、侍従にでも言えば持ってきてくれるし』

『・・なんか用事でもあんの?』

『ま、色々とね』

『で、その髪は・・どうすんの? 僕も切った方が良いわけ?』

『いや、後でいい。とりあえず、その長い髪のまま出てほしい』

『まったく・・伸ばしたり切ったり、気まぐれなんだから・・それに合わせるこっちの身にもなってほしいよ』

レイが呆れかえりながら、ダミーの印璽を受け取った。まったくそっくりの皮袋を、リンも首から下げている。

『・・ねぇ、一度でいいから、そっちの本物も見てみたいんだけど』

『それはダメだ』

『どうしてさ? 見るだけでもだめなの?』

『おまえは・・見ない方がいい』

『なぜ?』

『こればっかりは、本物が持ってないとな。万が一の時に、俺が本物だって証明できないというか・・いや、おまえを疑っている訳じゃなくて、他の誰に対しても、だ。先生でさえ、この袋の中身までは、ご覧になったことがないんだ・・分かるだろう?』

『一応、これと同じもの・・なんだろ?』

レイは、自分の首に下げた小袋をつまみ上げて、示してみせる。リンは『ソソソ・・』と呟いて笑ってみせた。

『外見上はそっくりに作ってあるよ。もちろん、だからといって、そっちを本物だと主張できない違いは、当然あるけれど』

『ふうん』

その違いって何・・と畳みかけようとして、支度部屋の向こうから『そろそろお時間でございますが』と侍従が声をかけてきた。レイは慌てて皇衣を着込んで帯を留め・・気付いて、リンの帯も結んでやる。

『あのねぇ、兄貴・・帯ぐらい自分で結んだら?』

『あん? ああ、後で侍女呼んで、着付けさせるつもりだったんだけど』

『はいはい・・やんごとなき人は違いますね・・ったく』

『・・なんかすごい光景だなぁ』

『何が?』

『皇帝陛下が、平民の身支度を手伝っているの図』

『・・そー思うんなら、自分でしやがれ!』

レイは腹立ち紛れに、最後の仕上げで帯をギュッと締め上げ、リンが『いでででででっ!』と喚いた。

『ひどいなぁ、オマエ。外でそれやってみろよ・・あと、その口のきき方。不敬罪で車裂きだからな』

ぶつくさ文句を言いながらも、リンがどこか楽しそうなのは、そうやってじゃれる相手がもう、他にいないせいだろう。レイも、そのリンの甘えを分かっていて、わざとはしゃいでやっているところがある。

それでも・・まだ僕に本物を預けようというところまでは、信頼を得られていないんだな。



その猜疑心の強さは・・父の先帝譲りだ。
笑っているように細められた瞳の奥は、いつも冷え切っている・・その光も、成人の儀式の前に、一度だけ謁見を許された時に見た、父のものと同じ。
人間でありながら、人間を超越した存在として君臨せねばならない定めの者が帯びた、唯一の自衛のための武器・・といったところだろうか。



自分も皇子として育てられたら、ああいう性格になったのだろうか?
そして、これから・・ああなれるのだろうか?

『じゃ、頼んだよ』

ひらひらと手を振るリンに見送られ、レイはなるべく重々しく見えるように所作に気をつかいながら、支度部屋を出て行った。
そして、リンはレイが居なくなるのを見計らうと、せっかくレイが絞めてくれた帯を解くと、秘かに準備していた別の衣に袖を通す。胸元に、首からさげている小袋が揺れた。





その小袋の中身の秘密は・・本来は、代々の皇帝による口伝だったと聞いている。だが、その秘密をリンに教えてくれたのは、先帝ではなくヤンフィであった。

『権力を手にし、富と名声と・・国中の美女を欲しいままにした人間が、次に望むことはなんだと思う?』

アメストリスへの長く苦しい旅から帰国したリンを迎えるために、1日だけ休暇をもらって後宮から出ることを許され、久し振りにヤオ家の館でふたりくつろいでいた時に、その話題が出たのだ。

『健康・・ですか?』

『不老不死さ。人間の心は弱く、貪欲だ。あらゆるものを手中にしても尚、足ることを知らず貪り続け・・その快楽が終わることを恐怖する。そして、彼の出身部族もまた、政治の中枢を握り続けるため、彼が永遠に皇帝であり続けることを願うだろう。それこそ、ありとあらゆる手段を使ってね』

『そんなことが』

『だが、実際に陛下が望んだものは何だった? そう、不老不死だったろう?』

『そう・・でしたね』

その結果が、この血の色をした石ころなのだ。それも、何百何千・・いや、もしかしたら何万もの命と引き換えに練成された呪わしい結晶。
リンに“気”の感じ方を教えた女性は、やはりその石の持つ異様な気配を察しているのか、その正体については何も尋ねない。いや、尋ねることを恐れて避けているのかもしれなかった。

『だが・・実際には、皇帝は必ず死なねばならない。必ず、だ』

ヤンフィはそこで言葉を区切り、リンの目を覗き込んだ。リンは唾を飲み込み、引き込まれるように、次の言葉を待つ。

『皇帝は子を作り、やがて死んで、次の代へ引き継がれていくべき存在なのだ。特定の部族だけに権力が偏ることもなく、ね。だから、このシン国が建国されたはるか昔・・正統な皇帝の印として玉璽を作るために・・当時の賢者達によって、錬丹術を打ち消す力を封じ込めた石が錬成された。それはまた、皇帝が錬丹術を使って恐怖政治を行うことを防ぐ効力もある一方で、皇帝が錬丹術で暗殺されることも防いでくれた』

シン国の創始者は、国が人ならざる者に乗っ取られることを恐れたのだろう。
現に、そのようなストッパーを持ち得なかったアメストリス国では、人造人間が大総統として権力の座につき、国土を戦火に巻き込んでいった。

『賢者の石とは逆の作用・・というわけか』

『正確に逆の作用があるというわけでもないだろうがな。賢者の石は、錬金術の力を無尽蔵に引き出すもの、玉璽は錬丹術、だ。双方の力の在り方が若干異なる。ともあれ、陛下には、限りある命の人間にしか許されない皇帝の地位か、皇位を捨てて不老不死の化け物になるか・・どちらかをお選び頂くことになるわけだ』

不老不死の化け物・・と聞いて、リンの表情が微かに曇った。
ヤンフィは、リンが闘いの最中、それを受け入れたということは聞いていない。いや、話すどころか思い出したくもない出来事であった。いや、話さずとも、元はリンの身体の一部となっていたこの石の気配から、何かを察していたのかもしれない。

『両方・・と言われたらどうなります?』

『さぁ。それは分からない。双方の力がぶつかって、世界が吹き飛ぶか・・あるいは打ち消し合って、何も起こらず・・どちらもただの石ころになるか。私も、賢者の石は文献でしか知らなかったし、玉璽も・・実物は見たことがない。いや、見て触れれば、私の身体を保っている術が解けてしまうだろう。おまえに錬丹術を教えなかったのも、そういう理由だ。教えても、どうせ無駄になる』

『陛下はそれを・・ご存知なのですか?』

『知らないだろうな。正式に皇位を譲られた訳ではないから・・ただ、その前の帝は当然知っていたし、兄弟相続の場合、妃の多くはそのまま弟が引き継いで娶る。前の帝からそのことを寝物語に聞いたことのある妃が、後宮にはまだ居るということさ』

『なるほど。それで、ねーさんはご存知というわけですか。ともあれ・・明日には、陛下にこれを献上します。ねーさんからも、陛下によろしく伝えてください』

そして・・先帝はリンを正式な後継者に指名する遺言を残した後、賢者の石を取り込もうとして失敗し、崩じた。苦悶の表情を浮かべたままの遺体に謁見したリンは、自分もああなっていたかもしれないと思ってゾッとしたものだ。




そして、レイもなんらかの事故で、身体の一部を人体錬成したのだと聞いたことがある。
だから、いくらレイに「玉璽を見てみたい」とねだられても、それでレイの身体を守っている術が解けたらと思うと、気が引ける。

リンはそっと小袋に手を触れた。

それに・・この小さな石が、自分を人間に保っているのだと思うと、片時も手放したくはない。一応、賢者の石は自分の身体から完全に分離した筈なのだが、万が一、取りこぼしがあったとしたら・・そして、それが育っていたら。
あの、意識に膜がかかって遠のいていく感触、そして人格が奪われていく感覚は二度と、味わいたくなかった。





その日の宴は、シン国には珍しい立食形式のパーティであった。
自由に歓談して、友好を深めると宜しい・・という企画意図だそうで。

「最後の最後まで、大歓迎ねぇ」

マリアがしみじみとつぶやきながら、カクテルグラスを揺らす。参加するシン国側の人間も、西の言葉がある程度分かる人物を中心に招待されているようで、通訳であるはずのマリアやエドが談笑のために駆り出されることもなく、こうしてのんびりしていられた。

「・・これで、明日の朝には出立なんだよな」

「そうね。アッという間だったわね」

だが、皇帝自身は会場の最奥、数段高い位置に簾越しに玉座を構えているだけで、降りてくるわけでもない。
あそこにリンがいるのに、近づけない・・これでは、いつもの公的な宴となんら変わらないじゃないか。

「エルリックさん、落ち着かないご様子ですが、いかがされましたか?」

ちらちら玉座に視線をやっているエドに、スオ・リゥがワイングラス片手に声をかけてきた。外交長官と通訳という関係なのだから、親しくなって当然なのだが、今のエドにはありがた迷惑だ。

「ええ、なんでもないです。あんまりお腹がすいてないだけで・・」

そう言いながら、エドがそっとテーブルから離れようとするのを、なおも笑顔で追おうとする。

「もしかして、どなたか待ち合わせでも?」

カマをかけたのか、それとも純粋に好意で言っているのか。

「いえいえ、そういうわけでは・・失礼」

必死でスオを振りきって、壁際に逃げようとする。幸い、使節団長がスオを捉まえて、なにやら話しかけ始めたようだった。

「マリアさん、俺・・宿舎に戻ってるわ」

「ええ? そうなの? まぁ、仕事はなさそうだし・・具合でも悪いの? 気をつけてね」




そして、マリアの側に、背の高いシン国人の女性がすり寄ってきて「エドワードさンは?」と尋ねたのは、それからほんの10数分後であった。






『エドワード君? いや、具合が悪いとか言っテ、宿舎で休んでるワ』

思いがけない返事に、リンは唖然とした。
まさか体調を崩しているとは思わなかった。会場に来ているだろうから、そこをそっと連れ出そう・・と考えていたのだ。これが最後のチャンスになるだろうし、前回はあまりにも慌しい別れだったから。

いくら変装しているとはいえ、宿舎の方までは警備の関係上、とても行けそうにない。身分証明を求められて、まさか皇帝ですと名乗り出るわけにはいかないではないか。
セイでも居れば、呼びに行ってもらうこともできようが・・セイはあくまでもヤンフィの従者なのだから、彼女が参加しない宴にセイが居る由もない。

せっかく・・女装してまで、来たのに。

『君、エドワード君ノ彼女?』

マリアは、すっかりリンを女の子だと信じていたのか、気の毒そうに眉を曇らせながら、そう尋ねてきた。

『・・か、彼女? ああ、まぁ・・そうだ・・ね。そんな感じ』

『そうなんダ。エドワード君ガ、朝帰りとかしてきたの、あなたのところだったノネ。こうして忍んで逢いに来てくれると分かってたラ、縛り付けてでも引き止めておくべきダッタワ』

リンは泣き笑いのような表情を浮かべて『・・じゃあ、その・・元気でと伝えてください』と伝言するのが精一杯だった。






マリアは宴から戻ると、フテ寝をしていたエドのベッドの足を、思い切り蹴飛ばした。

「ぐぁっ! なっ・・何!?」

「ダメじゃないの! 彼女・・会場に来てたのに!」

「か、彼女ぉ!?」

「シン国人の彼女・・こっちのガールフレンドなんでしょ? 肩ぐらいの長さの髪の、背のすらっとした」

「肩ぐらいの髪の?」

一瞬、リンかと胸が躍ったが、髪の長さを聞いて「いや、リンじゃない」と思い込んでしまった。

「そんな子・・知らない」

「うそぉ? エドワード君が来てないって聞いて、とっても残念がってたわよ。そして、元気でねって、伝えてくださいって」

「元気でねって? それだけ? 名前は?」

「名前・・聞いたんだけど、教えてくれなかったわ。でも、彼女、絶対に分かるからって」

「心当たりあるのは・・髪、とても長く伸ばしてる人だから」

「そうなの? それにしては・・彼女、真剣な表情だったのに。ほら、エドワード君、こないだ朝帰りしてきたでしょ? そのときに泊まったって言ってたのよ?」

「多分、その子・・勘違いしてるよ」

リンが・・そんな会場に潜り込んで来れる訳がない。あいつ、一応、皇帝だぞ? 公的なパーティで抜け出すなんて、そんな大胆不敵な真似・・やりかねないかな。いや、まさか。

「勘違い? そう? そんなこと・・ないと思うのに。もしかしたら、髪切ったのかも」

「まさか」

「でも・・短い髪の人が急に伸びるってことはないけど、逆なら・・切っただけってこともあるでしょう? 肌の白い、面長の、ほっそりしたなで肩の・・本当に知らないの?」

マリアは、いかにも納得がいかない表情をしている。“女性同士”ということで、“彼女”の方に感情移入しているのだろう。

「今、何時? ああ、もうあと3、4時間で出立か」

話をそらすように、エドが時計を見上げて独りごちる。宿舎の外では、荷物を積み込んだりする作業が始まっているのか、夜明け前だというのに慌しくなっていた。






いつもなら“お忍び”から戻ってきた兄貴は上機嫌なのだが、今日に限っては、着替えの間に戻ってきた兄貴は、泣き出しそうな表情でがっくりとうなだれていた。

『こんなんだったら・・替え玉、頼まなければ良かった』

『まともに出席しても、退屈だったぜ? 結局、ご馳走は食えず終いだし・・他人が飯食って酒飲んでドンチャンやってるのを見てるだけって、かなり苦痛だぜ? ああ、フィナーレに花火上げてたな。あれは、御簾越しにもちらっと見えた』

その花火は・・会場をふたりでそっと抜け出して、中庭から見上げる予定だったのに。そのために、わざわざ花火を地方から取り寄せてまでして用意させたのだから、皮肉といえば皮肉な結果だ。

『ともかく・・これでアメストリス国の連中は帰るんだな』

『そうだな・・あっという間だったな。もっと・・時間があれば良かったのに』

『えらく名残り惜しそうだね。恋人でも居たの?』

『恋人って程じゃないけどね・・友達、というか』

『へぇ? それにしてはえらくしょげてるじゃん。逢えなかったわけだ?』

畳み掛けるレイの襟元を、リンが乱暴にぐいと引く。

『つまらんこと言ってないで、さっさと脱げ』

『おお、こわ』

レイはあえておどけた口調で、その手をやんわりと払いのける。
華奢で細身の兄が、この日はいつもよりも一層、儚く脆そうに見えた。ああ、こんな兄相手なら・・本当にやれるかもしれない。
レイは作り笑いを浮かべながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。







帰国したエドを待ち受けていたのは「ロイの隠し子疑惑」であった。

「はぁ? 隠し子ぉ!?」

「そう、それも男の子ですって」

「えええっ! ちょっと待ってよ・・いくつぐらいの子? 俺が腕切り落として、大佐と同棲始めたのって・・3年ぐらい前だろ? ってことは、その・・」

「それが、どんなに問いただしても、白状しないのよ」

それを教えてくれたリザが、いかにも口惜しそうに、足を踏みならしながら喚き散らす。

「エドワード君を選んだっていうのなら、それは仕方ないかもしれないわよ。でもね、隠れて女の人とも付き合っていたっていうのが、許せないの!」

「あの・・ハボックさん、それ、マジっすか?」

「ああ、俺もその現場に居たんだけどよ・・その、ノックス先生から聞いてさ」

ハボックも、悪夢を見ているような表情で、いかにもまずそうに煙草の吸い口を噛み潰している。

「ノックス先生が・・そっか。先生が嘘をつくなんて思えねぇもんな。でもさぁ・・俺と暮らし出す前なら、女性との交渉があってもおかしくないけど・・俺と暮らし始めてから作ったんなら、許せねぇ! いや、先生がこの手、オペしてくれたときには、居なかったに違いない・・そんなの知ってたら、引き受けるわけねぇもんな。ってことは・・畜生っ!」

いきなりそんな裏切りを聞かされるなんて、思ってもいなかった。そんなんだったら・・あのまま、シン国に残れば良かった。
そりゃあ、身分の差はあるし、後宮に男が出入りするわけにはいかないからって、アレを切り取って宦官になるとか、そこまでしたいとは思わないが・・それでも、どうしても側に居たいとねだれば、小姓なり側近なり、なんらかの方法を考えてくれるに違いない。
俺が、リンへ想いにあんなに苦しんで、泣いたのはなんだったわけ!? あんまりだ。

エドは、そこまで聞くや、重たい荷物は下士官に任せて、身ひとつで二人で暮らしているアパルトメントに向けて全力ダッシュで駆け出した。

「おお、お帰り、鋼の・・私が恋しくて駆け戻ってきてくれたのか、スィートハートよ」

エドの姿を窓から見かけたのだろう。ロイが部屋から出てきて、ビルの入り口まで降りてくると、両手を広げて出迎える。

「ぬぁああにが、スィートハートだぁっ! くぉおおの、女ッたらしぃいいいい!」

逆上しているエドは、自分もシン国でリンと浮気していたことはすっかり棚に上げて、ロイの顔面に力一杯、飛び膝蹴りを食らわせたものだ。








ランファンに新たに与えられた仕事は、地下牢のようなところで、半生半死の女性を介護することだった。
女性は舌を噛み切ったとのことで喋ることができず、また指先が凍傷で腐れ落ちているために筆談もできない・・いや、そもそも正気を失っているのか、こちらの言葉すら理解しているのかどうか怪しい状態だったが、ランファンが丁寧にぬるま湯を浸した布で全身を浄め、髪を整えてやると、それが高貴な生まれであるらしいことが察せられた。

『もしかして、皇族のお方? リン様に少し、目許が似ているんだけど』

本人に尋ねても答はなく、差し入れに来てくれたレイに尋ねると、それは答えられない・・と、肩をすくめていた。

『不自由だろうが、しばらくの間、ここに居て欲しいんだ。僕もできるだけ顔を出すけど・・ほんの少しの間だから』

『詳しいことは、教えてくださらないのですね?』

レイは答えない。
いくら説明して、ランファンが納得してくれていたとしても、いざとなったら動揺しないという保証はない。自分が惚れて尽くし抜いてきた男が・・抹殺され、すり替わるのだから。さらに、彼女こそ本物と替え玉とを見分けることができる、数少ない能力の持ち主でもあるのだから・・スオは強硬に彼女を処分すべきだと主張し、レイはランファンを守ろうとして・・これが、双方が譲り合って見い出した妥協点というわけだ。

『全部終わったら・・話すよ』

その暁には、この女性・・リウ女もこの牢から出してもらえるだろう。少なくとも、スオはその予定だと言っていた。

『何か、欲しいものはあるかい? 今度持って来るよ。暇つぶしに琴でもどうだい?』

『別に・・私、武術ばかり習っていたので、琴も太鼓もできません』

『まったく・・兄貴ってば、とことん君を女性として扱っていなかったんだね。フーさんもフーさんだよ、まったく・・じゃあ、ここを出たら、僕が教えてあげるよ』

ランファンは、どう返事をしていいのか分からないまま、こっくりと頷いていた。








それから数日後・・皇帝がお休みになっている後宮でボヤ騒ぎがあった。
皇帝は辛くも中庭に脱出して無事であり、中には侵入者と見られる男の焼死体が見つかった。警備を担当していたチャン族は、その責任をとって族長とチャン族出身の皇妹に謹慎が命じられたが、それも軽い処分だったといえよう。
いわば、些細な騒動であった・・そう、表面上は。








だから、そのとばっちりを食らったはずのメイ・チャンも、半月後には、その騒動のことなんて忘れてしまっていた。
従姉で、チャン族代表として後宮入りした筈のシュンイが、気分がすぐれないとのことで実家に戻ってきたため、気晴らしにと一緒に川辺に散歩に出て・・行き倒れていたその“女”を拾うまでは。


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【後書きその6】ようやく使節団が帰って、ここまで辿り着きました。
ガンガン05年1月号のリンのホム化に凹んで、仕上げずに放り出してしまおうかと何度も思いましたが、なんとか・・頑張ったぞ、私。ちょっぴりホム化の設定を取り入れて、整合性をつけてみたりなんかしました(無駄な足掻き?)。

よっしゃあ、次はエッチシーン書くぞォ・・リン×レイで(えっ?)。
初出:2005年12月29日

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