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応竜〜A dragon with a wing


5 月下李花


「おまえさん、まだ逃げて回ってるのか」

ノックスは、顔面蒼白で医務室に飛び込んできたロイを見て、呆れかえった。

「病人だとは思ってくれないのか?」

「そんなぴんぴんしてる病人なんざいねぇよ。ばかもん・・大総統とのチェス、ついに今朝49敗したんだって?」

「先生までご存知なんですか」

「ご存知も何も、司令部はその話で持ちきりだぜ。朝一番、5分でボロ負けしたと思ったら、便所に行くとか言って抜け出して、そのまま行方不明になったって・・それからもう何人、おまえを探してここまで来たと思う。ついに賭けまで始まったらしくて、あのでっかい図体の・・ハボなんとかと言ったかな? 賭け金を集めて回ってるぜ。一口1,000センズからだとよ」

「あ・・あんのやろう・・!」

「最初から逃げ腰で対局するから、勝てねぇんだ」

「分かってはいるのだが・・いや、しかし、3日の猶予をくれと言ったのに、大総統が許してくれなくて、こちらのコンセントレーションがイマイチ、だなぁ・・」

「なぁにがコンセントレーションだ。クソガキが」

そう言いながら、ノックスは肩越しに親指で、医務室を占領している簡易ベッドを指し示す。

「・・ま、空いてるがな」

「感謝する」

ベッドを囲んでいるカーテンを引き、毛布を頭からかぶる。ノックスがおもむろにその毛布を掛けなおして、はみ出ていた尻を隠してやった。

「大総統に、自分には恋人がいるからとか何とか言って、断ればいいんじゃねぇの?」

「その・・もし恋人が別にいるなら紹介しろ、仲人をする・・とまで言われているんだ」

「仲人? してもらえよ」

「そんなこと、できませんよ」

確かに、同性同士の結婚を法律で認めているほど、アメストリス国も先進的ではない。だが、ロイのその断定的な言い方は耳障りだった。

それじゃあ、あのボウズの立場はどうなるんだ・・そう叱ってやりたいのを飲み込み、肩をすくめてデスクに戻った。煙草に火を灯し、くわえ煙草のまま、ロイの闖入で手が止まっていたカルテ整理を再開する。

ま、こいつらのことなんざ、俺の知ったこっちゃねぇがな。







リンを送り出した後、ヤンフィはため息をついて、寝台に座り込む。本来なら、妻妾ひとりで陛下の部屋に居るべきではないのだが、自室に戻るのが億劫になるほど、脱力していた。

エルリック君を陛下に逢わせたことは、正しかったのだろうか?
いつかその想いを断ち切っていただかないことには、その心の隙から足元を掬われると考えてのつもりだったが・・つい先ほどまで膝の上で甘えかかっていたリンを見ていると、想いを断ち切っていただくどころか、逆効果だったのかもしれない、という後悔の念がこみ上げてきた。


車輪が・・回り始めているのかもしれない。
どうしていいのか、どうすべきだったのか、分からなくなっている。愛の経典に通じ、自信たっぷりに振舞っていた自分が、まるで他人のようにすら思えた。


それとも、私自身の限界が近いのか。
視界に入る己の手指はまだ、張りがあって肌のきめも細かく、しみひとつない。だが、内側からは歳月の残酷な侵食を、容赦なく受けているはずなのだから。
確かめるように視界の中で指をゆっくりと開閉させていると、入口のあたりに誰かの“気”を感じた。振り向くと、長身で地味な顔立ちの妃がひとり、おどおどしながら立っている。

『チャン妃・・だったな?』

『はい、奥様。実は、お願いがございまして・・こちらにいらっしゃると聞きましたから』

その気配に奇妙な揺らぎを感じて、ヤンフィは怪訝そうにチャン妃の面長の顔を覗き込む。

『お願い?』

『あの、昨夜、陛下の寵を受けたのは、奥様と聞いておりましたので・・』

チャン族は・・かなり弱小の部族だったな、と思い出した。皇妹のメイ・チャンの従姉だと聞いている。そのせいで、輿入れしてからもなかなか伴寝の順番が回ってこない。50余の部族が各々、皇帝に女を差し出すシステムは、一見どの部族にもチャンスがあるように見えるが、実際にはそれは、弱小部族を押さえ込むためのアリバイ作りでしかないのだ。
さらに、小柄で少年のような体つきの女を好んでいるリンには、彼女はあまり魅力的には映らないだろうから「たまたま目に留まって抜擢される」という幸運も期待できず、ますますお手がつく機会に恵まれなさそうだ。

『今宵の指名を斡旋してくれという依頼は受けぬぞ。それは陛下がお決めになることだからな』

『それは存じております。ただ・・』

チャン妃はそこで、ヤンフィの目の高さまで身をかがめて、片手を口元に立てた。ヤンフィは釣り込まれるように、その口元に耳を寄せる。そこでぼそぼそと囁かれた言葉に、ヤンフィの目が吊り上った。







何度、御簾をはね上げようと思ったことか。
ほんの数十尺向こうにエドがいるというのに、声をかけることもできない。ただ、その横顔を御簾越しに眺めているだけで。いや、それすらもままならない。

『では、陛下の御印を』

・・これで、俺の仕事は終了だ。
あとは細かい条項や条文の字句の調整をといった、次官レベルでの作業だ。
いや、どうやら今回の訪問では、そこまで詰めることはせずに大筋合意だけとり、詳細については次回以降の交渉にするようだ。

エドの隣には、痩身の男・・確か、外交担当のスオ・リゥとかいったな。やたらエドに寄り添って親しげに話している様子なのが、リンには気に喰わない。それに・・リゥ氏ときた。
あの部族はなにかと目障りだ。先帝も、その前の帝も、リゥ氏を正妻に据えている。今回はたまたま、リゥ氏が男児に恵まれなったために帝位を逃した形になるが、今でも文武の要職を占め、北方の広大な土地を構える有力氏族であることに代わりはない。

徐々にでも、あの氏族の勢力を削がねばなるまいな・・そう考えながら食い入るようにスオとエドを見つめていると、気配を察したのか単なる偶然か、スオがこちらを向いた。視線がかちあったような気がしてリンは背筋に冷たいものを感じたが、向こうからはこちらの姿はほとんど見えないことを思い出し、ため息をついて手の甲で額を拭った。






別れ際が慌しかったせいか、もう一度リンに逢いたかった。
ヤンフィかセイに連絡がとれれば、何とかなるかもしれないとエドは考えて、フーの家に向かったのだが、迎え出たランファンは露骨にイヤな顔をした。

『先生もセイも、とうにヤオ家を出た人間だから、今どこでどうしてるかということは、詳しく知らぬ』

『詳しくなくてもいいんだ。その、住所というか・・どの辺とかでいいんだけど』

『知らぬ』

『だって・・いや、だったら、ランファンでもいいんだけどさ。リンに連絡が取れる方法があったらな・・って思って』

『陛下に?』

陛下・・という言い回しが、エドには唐突に聞こえた。もちろん、シン国語でランファンがリンについて聞く機会が、過去にほとんどなかったのも、その語が耳慣れない理由のひとつではあろうが「若」や「リン様」と呼んでいたことを思えば、それはひどくよそよそしく、冷たい響きがあった。

『今は・・ランファンもリンに逢えねぇの?』

『陛下、だ』

『ああ・・その“陛下”に。なぁ、もう明日、明後日で出国だからさ。最後にもう一回でも、逢いたいなって思ってさ』

『もう一回? 既に、一回は逢ったということか』

『ん・・その、セイさんが』

『セイ・・か』

ランファンが考え込んでしまった。エドは、その険しい表情を見て「一度逢ったということは、言わない方が良かったのだろうか」と、少しく後悔する。

『私は・・もう、陛下に逢ってもらいたくないし、そのための協力もしたくない。セイが手引きをしたというのなら、それは先生のご意向であろうから、何かのお考えがあったのだろうと思われるが・・二度めにお逢いすることが必要であるのなら、そのように手配なさるであろうし、そうでなかったのならば、それは必要ないことのはずだ。強いて陛下にお目通り願うのは、お門違いの話になる』

『でも・・どうにも、なんねぇ?』

弱々しくでも食い下がったのが、ランファンの神経を逆撫でしたらしい。エドの前に置こうとしていた茶碗が、パリンと派手な音を立てて砕け散った。エドは熱湯がかかりそうになって飛びのき、ランファンの右手を見てぎょっとした。

ランファンは素手で茶碗を握りつぶしており、右の握り拳からは、熱いお茶と血が滴り落ちていたのだ。熱さと痛みもあろうに、ランファンの表情からはそれは読み取れない。ただ、氷のように冷たい憎悪だけが瞳の中にあった。

『だ・・大丈夫?』

『先生のお考えがあったのなら、1回目は許す・・だが、それ以上は許さない。先生は御存知ないんだ、陛下がどれだけおまえに苦しめられていたかなんて・・あんたじゃなく、あの女が来た方が、まだマシだった』

『あの・・女?』

“女”と聞いて、エドの表情が歪んだことに、ランファンはいたく満足したようだった。まるで人を切った刀の血ぶるいをするように、右手を軽く振る。手のひらに突き刺さっていた陶器の破片が、振るい落とされて床に叩きつけられ、紅いしぶきを撒き散らしながら、か細い悲鳴のような音を立てた。

『そう、女・・あんたに棄てられてから、陛下が付き合ってた女。その娘がひどくお気に入りで、連れて帰るつもりだったんだけど、色々事情があって。陛下の髪、長かったでしょう? あれはね、その女が教えたんだって。もう一度逢うためのおまじないって』

『そんなの・・知らなかった。こないだ逢った時には、そんなこと全然言ってなかったし』

ロイとの惚気話を聞かされたリンの辛そうな表情が、エドの脳裏をよぎる。同じ思いをさせないために、わざと言わなかったのだろうか。そういえば、たくさんいる奥方との話も全然聞かなかった・・いや、俺は一方的に話してばかりだった気がする・・俺は、リンの話を何かひとつでも聞いてやったのだろうか? 髪が伸びたんだねと、そんな簡単なことすら、俺は尋ねなかった。

『本当は、あんたを待ってたんじゃなかったのかも』

追い討ちをかけるように、ランファンが畳み掛ける。

『昔のことだって・・単に、陛下がああいうタイプが好みだっただけなのかもよ? 小柄で、やせっぽちの娘。今でも、そういう娘をはべらせるのが好きなようだ』

『そんな。俺とリンは、そんな理由なんかじゃ・・』

『そう言ったの? 本当に?』

ランファンの瞳が、小動物をいたぶる獣のそれになっている。

『だって、あんなに・・』

激しく抱き合ったのに・・そう声に出して続けることはできなかったが、ランファンは容易にその言葉を察したらしい。ひくっと片頬が引きつったが、そのまま口角は鋭く吊り上がった。

『あんなに? セックスしたから、そう思ってる? そんなのは当てにならない』

好きでもない部族の女を、取っ替え引っ替えして、孕ませて・・それが皇帝の“業務”なのだから。
肉体関係があるからといって、愛してる証にはならない。





だから、あたしはリン様とは絶対に、寝ない・・他の女共と同列にされてしまうのが、嫌だから。





『陛下は、あんたなんか待ってなかった。あの髪も、あの女の為に伸ばしてた。だから、このまま帰れ』

冷静に言い放つつもりであったが、さすがに語尾が震えた。涙は絶対にエドには見せたくなかったが、今にも溢れだしそうになったので、慌てて後ろを向いた。

『帰れ!』

叫ぶと、ついに涙がこぼれ落ちた。声が詰まったが、それでも『帰れ、帰ってしまえ!』と、連呼し続けた。エドがひるんで、後ずさる気配を背中で感じていた。近寄ってくるようなら、苦無で斬りつけるつもりだったが、さすがに背中にみなぎる殺気を感じてか、そのまま出て行ったようだった。

パタン、と扉が閉じられる音がした。ランファンは緊張の糸が切れ、そのまま床に泣き崩れていた。









コツコツと扉が叩かれた。

「こっちには、マスタング准将は来てないのかのぉ?」

キター! 簡易ベッドの上の毛布の塊が、30センチは飛び上がったような気がしたが、ノックスはチッと舌打ちすると億劫そうに立ち上がった。

「いいえ、来てませんよ?」

「本当かのぉ? 准将ときたら最後の最後の1戦を控えて、姿をくらましてしまってのぉ」

「本当に来てないんすか?」

グラマン大総統の後ろには、金髪の巨漢がのっそりと従っている。ああ確か、彼が賭け金を取りまとめていた奴だったな。いつもくわえ煙草姿なのだが、大総統のお側ということで、今日ばかりは吸わずに我慢しているらしい。

「准将が捕まらなくて、このまま“逃げ得”されちまうと、いつまでも賭けが成立しなくて、こっちも困るんすよ。ああ、そう、捕獲された場所ってのも一応、賭けの対象になってるんすよ。一口200センズから・・医務室はオッズ低いんすけど、その分可能性が高いということで・・しかも、有効情報の通報には大総統から1万センズのボーナス、捕獲に協力すれば5万センズっすよ!」

・・それで、何人も「マスタング准将はここですか?」と尋ねに来てた訳か。迷惑な話だ。んなアホなことしとらんと、仕事をせい、仕事を。

視線を送れば「そこにいるんすか?」などと言われてしまうだろうから、あえて簡易ベッドの方は見ないように努めているが・・背中に伝わる気配だけでも、逆上したロイが跳ね起きてしまう寸前なのが、ノックスには分かった。
しゃあねぇなぁ、まったく・・ノックスは渋い顔をしながら、ふたりを医務室から押し出すようにして、廊下に出る。

「病人が寝てるんだから、騒がないで貰いたいんですが・・ところで、あのクソガ・・いや、准将のことなんですがね」

「ふむふむ?」

「チェスの勝負は勘弁してやってくれませんかね? 少なくとも、負けたらお孫さんを嫁にするというのは・・」

「なぜかね?」

「いや、その・・あれにも恋人がいるんですよ。というか、いい年をして恋人のひとりも居ない訳がないでしょう」

「だったら、紹介してくれたら仲人をするとまで言っておるのに」

「それがね・・色々ありまして、結婚できない立場にあるというか」

グラマン大総統は唐突な話に、キョトンとしてハボックを振り仰ぎ、ハボックも「あれ、そうだっけ?」という顔をしている。

「結婚できない立場とは・・不倫とか、かね? まさか隠し子がいるとか!」

「隠し子・・いや、そういう訳でも・・その、男の子らしいんですがね」

「男の子! 男の子の隠し子が居るということかね!」

「あーいや、その・・そーいう訳では」

「いやいや、皆まで言わなくてもよろしい。なるほど、それでは准将としての立場上、確かに公表しにくいだろうなぁ・・儂に言いづらかったのも理解できる。うむ、しかし真摯な付き合いはしておるのであろうな」

「はぁ・・まぁ、確かに真摯なお付き合いといえばば、真摯なお付き合い・・ですな」

「ふん、なるほど、そういうことなら仕方ないのぉ。のう、小佐・・賭けはお流れじゃのう・・残念じゃ。実に残念じゃ」

肝心要めの部分で、グラマン大総統が豪快な勘違いをしているのは明らかであったが、ノックスはもう、それをいちいち訂正する気力が無かった。

「えーっ・・そんなぁ・・仕方ないなぁ。皆に返金してまわるか・・ったく、ここまで盛り上げておいて、准将も殺生だよなぁ」

ハボックもかっくりと肩を落としている。多分、手数料として何パーセントかを抜くつもりだったのだろう。他人の不幸で儲けようなどとは、不届きもいいところだが、可愛がっている部下が率先してこんなことをやらかすとは・・あのクソガキの人徳も知れたものだな。
医務室に戻ると、ロイが毛布から顔を出してこちらをのぞいていた。ノックスの気配に気付き、亀のように引っ込んだが、その動きの方が不審で目立っていた。ノックスは肩をすくめてツカツカと歩み寄ると、毛布を剥ぎ取った。

「もう、大丈夫だぞ・・たく、手間のかかる」

「だっ・・大丈夫だというと?」

「大丈夫だと俺がいえば、大丈夫なんだよ。ほれ、仮病のやつぁ、とっとと医務室から出てけ」

一瞬、ロイは状況が飲み込めない様子だったが、次第に頬に赤みがさし、やがて思い当たったらしく「済まない、ありがとう、先生っ!」と喚きながら、ノックスの手を握って、ぶんぶん振った。

「よせやい、ばか」

ノックスは渋い顔をして自分の手を取り返し、ロイの汗でじっとり濡れた掌を、ズボンのももに擦り付けて拭う。

「おまえさんのためじゃない。おまえさんを想ってるバカがいて、そのバカに手を貸してしまった俺自身の責任ってヤツを感じただけだ。うぬぼれるな」








『ランファン・・ひどい血だよ』

呼び掛けられて、目を上げた。
一瞬、リンかと思ったが、その姿を視覚で認識する前に、唇が先に『ああ、レイ様』と口走っていた。リン様なら良かったのに。
だがもちろん、皇帝の身でこんなところに居るなんてことはあり得ない。それは分かっているのに。

『悪いけど、さっきの客人とのやりとりが聞こえてしまってね。あれ、アメストリスの使者の・・エルリックさんだっけ? 別に、あの人と兄貴との間に何があったのかなんて、興味はないけど・・ただ、君が泣き出してしまったのは、放っておけなくて、つい・・』

『お見苦しいところを・・茶碗を割ってしまって、申し訳ありません。今、片付けます』

『茶碗なんてどうでもいい。手を出して』

ランファンの前に膝まづき、血まみれの右手を取り上げると、指で軽く撫でるようにして、破片が残って無いか調べ、ひとつふたつ残っていたのを抜き取ってやる。

『かなり深いね。縫わないと血が止まらないかもしれない・・取りあえず、腕を軽く縛って止血するよ。すぐに医者に診せないと』

『これぐらいの傷・・どうってことありません。旅の間、これぐらいの怪我はしょっちゅうでした』

『今は旅をしている訳じゃないし、君も嫁入り前の娘なんだから』

『嫁入りなんか・・』

『ランファン。僕の話をよく聞いて。今度、あらためて話すつもりだったんだけど・・君はヤオ族の長老家に使える家柄の娘で、今までは兄貴に仕えていた・・兄貴はヤオ族の長老家の長男で、皇子でもあったからね。だが、兄貴は即位して、ヤオ族だけの王ではなくなった。君も、兄貴に仕える必要はなくなった。今まで君は、兄貴の髪をくしけずり、背中を流し、帯を締めていただろうが、それは他の女官の仕事になった・・そうだね?』

『その・・いまでも、爪のお世話だけは、お許し頂いています』

『でも、君は本来、あくまでもヤオ族の長老家に仕える身分だ。そして、今は僕がヤオ族の長老家の一員である・・分かるね?』

『何を仰りたいのですか?』

『ランファン・・僕は君を護りたいんだ』

ランファンが凝視する中、レイが軽く身を屈めて、ランファンの手に口づけてその血を舐めた。その舌の感触に、ランファンの背筋にざわっとしたものが走ったが、不思議と『汚い』とは感じていなかった。

『そんな難しいことじゃない。君は確かに兄貴に惚れているかもしれないが・・僕は同じ顔で同じ血を引いて・・やがてその身分も名前すらも等しくなる・・まだ意味は分からなくてもいい。ただ、僕を兄貴だと思ってほしいんだ。兄貴の代用でもいい。今はそれでもいいから、僕のことを受け入れてほしい。それが君自身を救うことにもなる。いいね?』

ランファンの頭の中で、レイの言葉は上滑りして、まったく意味が通じない。ただ、レイの低くおっとりした口調が、音楽のように聞こえていた。

『・・そして、兄貴のことは早く忘れてほしいんだ。君が、兄貴のことでそんなに苦しんでたのなら、もっと早く、そう言ってあげていれば良かったね』

そうじゃない、苦しくなんかない、リン様のために若き日々と左腕を捧げて、今でも十余日に一度は爪のお手入れを許して頂けて・・ただ想いを寄せるだけでも、十分に私は幸せなはずなのに(なのにさっきは何故、あんなにエドワードさンを憎たらしく感じたのだろう?)・・抱かれなくても、子どもを産むことがなくても、娶ってもらえなくても、それで良いと思っていたはずなのに・・だが、そう言い返そうとしても言葉が出て来ず、ランファンはただ、レイの腕にしがみついて、赤子のようにわあわあ泣きじゃくるだけだった。







エドが宿に戻ると、居間にあたる大部屋では、大役を終えてホッとしたらしい使節団の面々が、酒盛りをしていた。

「おい、中佐、こっち来いよ。珍しい酒がいっぱいあるぞ」

「なんか、そんな気分じゃねーんだけど」

「なんだよ、シケた面して。こっちで恋人ができたんだって? 別れを惜しんでたのか?」

「んーまぁ、そういうとこかな」

「おーっ、手が早いなぁ! さすがマスタング准将仕込みってとこか!? 美人か?」

「はぁ? まぁ・・美人といえば、美人だな」

「おいおいおい、話を聞かせろよ!」

「なんだよ、俺を酒の肴にすんじゃねーよ!」

ちょっと怒鳴ったぐらいでは一向にこたえず絡んでくる酔っぱらいを、なんとか振り払って廊下にまろび出る。廊下は中庭を望む回廊になっており、朱色の欄干が夜露を受けて輝く下草の青さの中、浮き上がって見える。エドはため息をつくと、その欄干にもたれ掛かった。

明日、最後の謁見があって・・明日の夜は送別の宴が一晩中あって・・その翌朝には出立する。
もう、リンに遭う機会はないというのに。

だが、己の右手が欄干に触れて固い音を立てた時、エドはハッとした。ロイのために機械鎧に作り替えたはずの腕・・エドは自分の右手を茫然と眺めていた。

「リンに逢いたいって思うのは・・間違ってる? 俺、間違ったことをしたってこと? 大佐、俺のこと、責めてる? でも、だって・・ただ、逢いたかっただけなんだ。大佐を裏切るつもりじゃなかったんだ。でも、リンはまだ俺のこと好きだって言ってくれて、俺も・・リンのこと嫌いになったわけじゃなかったし、だから・・なのに」

腕を切り落としてでも、ロイに尽したいと思った気持ちは真実。
でも、もう一度リンに逢いたいと恋い焦がれる想いもまた真実。

しかし、こんな自分の勝手な想いが、ランファンを泣かせ、リンを苦しめて・・ロイとのことだって、自分のせいでリザさんが結婚できなくなったのだし、腕のことで最後まで大反対したアルやウィンリィとは疎遠になってしまった。俺は、誰も幸せにしてやってない。

一夜だけでも奇跡的な再会だったのだ・・それは理解しているつもりだ。子犬がじゃれあうように睦み合っていたあの頃とは、立場が違う。分かっている。頭では分かっているのだ。
それでも・・逢いたい(俺には大佐がいるのに?)逢いたい(腕を切り落としてでも尽くそうとしていたくせに?)逢いたい。




・・もう一度、逢いたい。




『エルリック殿は、時間というものを、どのようにお考えですかな?』

不意に声をかけられ、エドはドキッとした。振り向くと、いつの間にかそこには、背中を丸めたセイの姿があった。

『セイ・・!? まさか、迎えに来てくれたのか?』

『残念ながら、今回は陛下のお部屋にお迎えすることはできません。昨夜はたまたま、陛下が奥様をご指名なすったから、奥様が機転をきかせて実現したこと。今夜以降はまた、奥方殿が伴寝の順番待ちなのでございます』

『じゃあ、なぜ?』

『ヤンフィ様が、お酒と果物の差し入れを届けるよう申されましてな。そのついでに、お姿をお見かけしたものですから』

『はぁ・・それで・・時間と?』

『はい。時間の概念や性質について、エルリック殿にはどのような知識があるか、お尋ね申し上げました』

『時間の概念や性質? そうだな・・ひとことでいえばエントロピーの進む方向・・かな。可逆性のない流れ・・というか』

『なるほど、なるほど。いかにも錬金術師に相応しい、簡潔にして的確な回答でございます。では、意識と時間の関係についてはどのようにお考えか?』

『なぜ、そんなことを尋ねる?』

『時間とは、意識と肉体の狭間で感じるものだからでございますよ。肉体が感じる時間は確かに物理的拘束を受ける、不可逆な流れでございますが、精神は物理的拘束を受けませぬ。つまり精神は、刹那の瞬間に永遠を感じ、また一瞬にして過去に舞い戻るものでございますよ、エルリック殿。それは悪いことでもなんでもなく・・精神とはそういうものだということでございます』

エドは少しの間、セイの言葉の意味を理解しかねて呆然としていたが、セイがニタリと笑ったので、つられて笑ってしまった。

『よくわかんねーけど、つまりあんた・・俺を慰めてくれてるのかな? おかげで、涙がひっこんじまったよ』

『そいつは、結構でございました』

セイは深々と頭を垂れると、荷物を詰めた葛篭を担ぎ上げて、騒々しい広間に入って行った。








ジャラ・・と暗闇の中で冷たい音がした。それは、石畳や壁に虚ろに反響して、やがて息絶えるように消えていく。だが、その沈黙は死のせいではない。むしろ、息を潜めてこみ上げる呪詛の言葉を押し殺しているのだろう。

やがて、かすかに錆びた鉄の扉がきしみながら開き、その向こうに、ぽうぅと光が灯る。

闇に馴染んだ目には、そんなささやかな光すら苦痛なのか、低い唸り声があがった。
淡い手燭の光は、やがてそれを手にする痩せた長身の男・・スオ・リウと、石牢の内部を浮かび上がらせた。冷たい空気が臭気を打ち消していたが、視覚が蘇ると共に獣の匂いと、糞尿のものとおぼしきアンモニア臭が鼻をつき、覗き込んだ訪問者を失笑させた。

『かつての皇女も惨めなものだな』

『叔父貴か。あの小僧と遊ぶのには飽きたのか?』

『とんでもない・・あの子はまだまだ使える。残念ながら、皇女様の出番はもう少し先になりそうだな。まだ死なれては困ると思って、見舞いに来てやったのさ』

ケッ・・と鼻先で笑うと、元は皇女だったという女は、スオに向けて唾を吐きかけた。しかし、女の口腔には水分すらろくに残っておらず、あるかなしかの貴重な水分は、相手のはるか手前に落ちた。

シン国では、皇帝の後継者争いが熾烈な分、敗者となった廃皇子の運命は悲惨なものだ。素直に負けを認め、新皇帝に忠誠を誓う屈辱を味わう程度で許されるのは、まだ幸せな方だ。血を好む王であれば、かつてのライバル達を皆殺しにしていてもおかしくはない。だが今回の皇帝は若く、無駄な争いを好まなかったため、多くの皇子皇女が不問に付された。

ただ、唯一の例外が・・リゥ皇女であった。

男に変化してでも皇位を継ごうと、錬丹術師を雇って人体実験を繰り返していたという告発を受け、実際にぎりぎりまで「もしリゥ皇女が男児に変じた暁には、ヤオ皇子は即位後であろうとも、リゥ新皇子に皇位を譲るように」という文言を遺言に盛り込ませようと、画策し続けたのだから。

だが、ヤオ族の皇子の即位が固まり、先帝もリゥ皇女への譲位の意思はないと分かった時、リゥ族の長老らはあっさりと皇女を売った。叛逆の意思ある罪人として彼女を取り扱い、彼女の従妹をリゥ妃として新帝に差し出したのだ。

もう何カ月にも渡って手枷を嵌められている両手首は、指先から先がどす黒く変色して動かない。腐り始めているのかもしれない。肌を蝕む冷気が、かろうじて蛆の繁殖を抑えていた。上半身こそ凍死を防ぐために毛衣を纏わせていたが、下半身は用便のためにむき出しのまま放置されている。

『出番、だと?』

『私は先帝の血を引いてはいないからな。もし新しい皇帝が譲位する意思があったとしても、私はそのままでは即位できない。そのときには、おまえの血筋が必要になる・・ここから出してやるよ』

『ふん・・つまり妾に、叔父貴の子を産めと?』

リゥ女が、理性のない獣のように歯をむき出しにして低く唸った。もとは整った鼻筋に優美な眉、機知に富み才気走った輝く瞳の持ち主だったというのに、その美貌は見る影もない。いつも趣向を凝らして雲のように結い上げていた豊かな黒髪も、今は皮脂汚れと埃にまみれ、べったり濡れたようにほつれ固まっている。

『私が憎いのかね。それはお門違いだ。おまえが男になれるよう錬丹術師に研究させ、その資金を供出し、先帝にも、おまえを皇太子として認めるよう働きかけた。即位できぬことが明らかになり、車割きに処されるところを・・このような形ではあるが生き長らえさせ、さらにいつかは出してやると言っているのだぞ?』

『恩着せがましい! 全部、叔父貴自身の野心ためじゃないか・・妾は叔父貴の手駒に過ぎなかった。もっと早く気付いていれば、こんなめには・・あの小僧だって、そうなのだろう?』

喚いているうちに、自分の言葉に逆上してきたのか、リゥ女は口から泡を吹きながら喚き始め、狂犬が吠えかかるように身悶えするたびに、ガタガタと激しく手枷が鳴る。

『叔父様、叔父様と、私の腕の中でかわいらしく啜り泣いていた少女は、どこにいったのだかね?』

スオは一瞬、衝動的にリゥ女を蹴り飛ばそうとし、靴が汚れると気付いて思い留まった。

『ともかく、まだ当分くたばりそうにないな・・もう少し餌を抜いても平気なんじゃないのか?』

スオの後ろには、牢を管理する下僕がついて来ていたらしい。下僕は「はぁ」と低く生返事をして、薄気味悪そうにリゥ女を見下ろし、扉の外へと戻ろうとする。

『貴様・・祟ってやる!』

リゥ女が絶叫し、くぐもった音がした。スオはハッとして振り向き、女の唇から血が滴り落ちているのを見つける。駆け戻り、顎をこじ開けると、紅い塊がドロリと垂れた。

『・・舌を噛みやがった・・おい、医者を・・ファーダを呼んで来い』

『は・・はい!』

『ちっ。死なれたら困ると言ったろうが、このバカ女が』

背中を叩いて喉に詰まった血の塊を吐かせ、二、三発頬を張り飛ばすと、目蓋が開いた。虚ろな瞳ではあったが、どうやら意識もあるらしい。

『手間をかけさせやがる・・だから、女なんか嫌いなんだ』

スオはそうぼやいて肩をすくめた。医者が着くまで一緒に居てやろうかとも思ったのだが、悪臭に耐えかねたので一度、石牢から出て外で待つことにした。







その夜、リンは側女にハサミを持ってくるように命じると、伸ばしていた髪を切り落とした。側女はその理由を聞かされなかったし、リンもあえて説明しようとはしなかった。



ただ・・エドに逢えたから、もういいやと、ふと思ったのだ。



昼間、膝を貸してくれていたヤンフィのなんとも言えない、悲しそうな表情が気にかかっていたということもある。あの、エドの夢・・自分の子どもを産んでくれると言ってくれたあの白昼夢を見たことで、どこか吹っ切れたような気もしたのも、理由のひとつだろう。

側女はその髪を、無造作に捨てた。
6年間の想いが込められた髪の毛の筈なのだが、不思議と腹は立たなかった。

『今晩は・・シェ妃か? いや、ルー妃だったかな』

だが、側女は返事をせず・・無駄口は叩かないよう躾けられているのだ。
それに、どっちにしろ皇帝の胤を受ける妃は宦官が連れてくるのだから、わざわざ返事をする必要もない。

リンは、軽くなった頭を軽く左右に振った。
明日の晩は宴か・・レイに替え玉でも頼もうかな、などと考えながら、窓から差し込む月明かりをぼんやりと眺めていた。


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【後書きその5】各章のタイトルは、最初は『覇王別姫』や『貴妃酔酒』をもじったり、していましたが、次第に面倒になってきました・・だって、こんなに長くなるとは思ってなくて、タイトルのストックが・・(いつも結構、これで苦労しています)。
今回はそれっぽい漢字を並べただけです!
一応、すれ違いや勘違いのエピソードが多いんで、誤解という花言葉の『李』の字を入れてみました。『李下に冠を正さず』というのが花言葉の由来だそうですが・・(色気ないなぁ・・orz)
初出:2005年10月25日

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