リンが心地よいニ度寝、三度寝を繰り返していると・・不意に、キィという金属音を聞いた。
それは、すっかり耳に馴染んだ、鎧が軋む音に違いなくて・・案の定、固い棒のような・・多分、指・・が、胸の辺りを毛布の上から触れたのを感じた。
エドワード? その鋼の塊に触れてやると、冷たいそれは、おずおずと指に絡み付いて来た。
なんだ、こんな朝早くからおねだりかよ?
軽く引き寄せて・・もう片手を肩の辺りに伸ばす。いつもだったら、そこには生身の小さい身体があるはずで・・まだ眠くて目が開かない状態のくせに、リンは目を閉じていても、その身体のことは知り尽くしているとばかりに、その肩を抱き寄せて、キスしようとして・・
ごちん。
額が、思いきり硬いものに打ち付けられた。ぶん殴られたのかと思って、ようやく目を開けると・・
「びっくりしたぁ・・リンって大胆なんだねぇ」
なんと、リンと指を絡めていたのは、アルフォンスで、額を打ったのはその鎧の胸当てであった。
金属音がしたのも道理。アルフォンスも全身が鎧・・というより、全身が金属鎧そのものなのだから。早まって名前を呼ばなくて良かった・・と、リンは内心、胸を撫で下ろす。
「ちょっト、寝ぼけタ・・」
照れ隠しのように笑ってみせると、アルフォンスもごつい外見とは裏腹な、ころころと可愛らしい声で笑ってみせた。そして、もじもじしながら、
「兄さんが昨夜、無断外泊して帰って来なかったから、もしかしてこっちに、来てるんじゃないかって思ってさ。でも、さっき電話したら、大佐のところにいるって。んでも、せっかく来たんだから、ちょっとでもリンの近くに居たいなぁって思って・・ランファンに頼んで、部屋に入れてもらって・・ね? リン、聞いてる?」
「エッ? 悪ィ、まだ頭がボウッとしてテ・・」
「そう・・ごめんね、ボク、眠れないから、そういう感覚って分からなくて、気がきかなくて・・大丈夫?」
「君の兄さんだけど・・当分こっち、来ねーと思うヨ。多分・・ちょっとケンカしたから、サ」
「ケンカ?・・でも、どうせ悪いのは兄さんだと思うから、リンは気にしなくていいよ。あのね、さっき、今日はお天気がいいから、ピクニックに行こうって言ったんだ・・ランファンも一緒で、お弁当持ってさぁ。いいでしょ?」
うーん・・なんて健全なデートだ。インランな君のオニーサンとは、えらい違いだナ・・しかもランファンを巻き込んで味方につけるとは見事・・と、舌を巻きつつ、ついついオーケーしてしまう性格のリンであった。
「エドワードさん。この本の山、読まないのなら、いいかげん片付けて良いですか?」
以前、錬丹術の資料等がないかと、リンとふたりで中央司令部の書庫を漁って、シン国語で書かれた本を探していたのだが・・その作業が中途半端のまま、手付かずに放り出されていたのだ。
「ああ、ごめんな、シェスカ。もう多分、リンとは・・俺が片付けようか?」
「いいですよ、蔵書の整理は私の仕事ですから・・そういえば、こんな文字の本、他にもありましたよ」
よいしょっと本の束を抱えながら、シェスカがボソッと呟く。
「ええっ? どこに? どれ?」
「ええと・・別の書庫に。挿絵が珍しくてパラパラと見ていたことがあるんで、印象的だったんです。どうも神話について書かれたものらしくて、どうせ役に立たないだろうっていうんで、第3書庫の奥の方に・・ダンボールに詰めて積んでありましたよ」
「神話か・・伝説とか書いてあるんだよな、多分。読んでみたいな・・でも俺、シン国語が読めないんだよな、畜生・・」
「シン国語の語学テキストもどっかにあったと思いますよ。ほら、今はほとんど交流ないけど、鉄道があった頃には、人の出入りも盛んだったから」
そっか・・覚えりゃいいんだよな。だったら、リンに頼らなくても錬丹術について調べられるし。それに、リンとランファンが内緒の話をシン国語でするのも、前々から気に食わなかったんだ。
「じゃあ、そのテキストも借りていい?」
「ああ、いいですよ・・えっと・・あれ、貸し出し中になってるわ」
「え? 誰が?」
シェスカは貸出台帳をパラパラとめくる。
「A.エルリック・・って・・ああ、多分、弟さんですね」
「なんであいつが、シン国語なんて勉強してるんだ?」
なんで・・と言いながらも、なんとなく見当がつく。またリン絡みだろう。想い人のためなら、彼の国の言葉も知りたい、というわけか。そんな勉強している姿を見たことがないが、多分、エドが眠っている間にこっそりとやっているのだろう。
そんなある日の晩のこと。
シャワーを浴びて、もう寝るかと思ったとき、アルが唐突に「兄さん、足の爪、伸びてない?」とエドに話し掛けてきた。
「あん? 足? ああ、伸びてっかも」
「どれ? あーあ、親指のここ、食い込んでるじゃない。ね、切ってあげよか」
「なんだよ、一体・・ま、いいか。サンキュ」
椅子に腰掛けて、生身の右足を差し出す。その足元に座ったアルは、その小さな足を片手で受けて。
「俺は助かるけどよ、なんで唐突に?」
「んーとね・・」
ちょっと嬉しそうに、でも照れくさそうに口ごもる。こういうときは大抵、リンの話題になる・・とエドは気付いて、イヤな顔になった。
そもそもリンは、アルが“拾ってきた”のだし、エドがクセルクセス遺跡まで行って、アメストリスを離れていた間はむしろ、リンとアルで親しくしていたのだから、決して不思議はないのだが。
「その、今度リンの足の爪、切ってあげることになってさぁ」
「は? そんなもん、ランファンがマメに切ってるに違いねーじゃんか」
「でもほら、ランファン今、手が不自由でしょ? だから、次切るときには、ボクに切らせてあげるって・・それまでに、ボクも練習して、上手になっておかなきゃ」
「なーに考えてるんだ、あいつ..」
リンのやつ、こないだ俺とケンカしたからって、アルに乗り換えたのか?
まあ、俺とアルはセットだから、単に賢者の石の情報が欲しければ、何も俺じゃなく、アルと一緒にいれば用は足りるのだろう。でも、だからって、爪を切らせてやるって。
「ま、まさかさ、おまえ、あいつの着替えだの入浴だのもやってんじゃねーだろうなぁ・・」
「・・入浴のお世話は、鎧が濡れて錆びたら困るから、できないんだ」
アルがしょんぼりと言う。
いやいや、そこはしょんぼりするところではないぞ、弟よ! と、エドは心の中で激しくツッコミを入れる。
「あ、でも着替えはね、前に帯の結び方をランファンに教えてもらって、練習したんだよ。こう、蝶の羽のような形になるようにね・・」
そんなもん、テキトーでいいんだ、テキトーで! ズボンが落ちなきゃどーでもいいだろーが! とは、あえて言わない。
「・・イテッ!」
「あ、ごめん、切り過ぎた・・血が出てきちゃったね。ふーむ。もっと浅く切った方がいいんだな」
「人を実験台にするな!」
「だって、リンの足切っちゃったら、大変なんだもん」
「兄ならいーのか、兄なら!」
「兄さんはホラ、丈夫だから」
別にリンは繊細なんかじゃないぞ・・とは思うのだが、恋するアルには何を言っても無駄なのだろう。アルが爪を切って、ヤスリで磨き終わるのを、おとなしく待つ。
磨いた後はフッと息を吹き掛けて、削りカスを飛ばすところだが・・ここでまた「どーせボクには肉体がないから、息も吹けないのか」と悲しみ始めかねない、と気付いて一瞬、ヒヤッとさせられたのだが、アルは当然のようにティッシュを取り出すと、丁寧に足指を拭った。
そっか、ランファンは臣下だから、主人の足を吹くなんて“無礼なこと”はできないんだろうな。だから、多分、懐紙などを使って拭っていたのだろう。
「終わり?」
「うーん・・ちょっと切り足りないや・・ね、手の爪は?」
「あんまり伸びてねーよ。ちょっとは伸びてるけど、これ以上短くしたら、深爪になって指の力が入らなくなる」
「そっかー・・あ、じゃあ、耳掃除してあげようか?」
「・・それも予約した訳?」
「まだしてないけど・・ランファンが、こればっかりは危ないからダメって。でも、練習しておこうって思って」
あいつに尽くすのが、そんなに楽しいんだろうか? 弟にはマットーな恋愛をしてもらいたいのが、兄としての本心なのだが、こうも嬉しそうにしていると、水をさすのも憚られる。
「ランファンもね、最初はすごーく練習したんだって。ほら、祖国では武官なわけでしょ。護衛するのが役割で、身辺の世話は、着替えさせる係だの、入浴させる係だの、爪切る係だのがそれぞれいるんだってさ。でも、今回、お供をすることになって、それで全部任されることになって、すごく嬉しくて張り切ったんだって。一族郎党、皆で協力したんだって・・荷物を増やさないように、爪切りは苦無で代用するってんで、余計に難しかったらしくて、足の指落とした人も居たって、それぐらい一所懸命に練習したんだって・・その気持ち分かるなぁ」
「足の指落としたなんて、そんなんサラッと言うなぁ! そもそも、自分でやりゃー済むことばかりじゃねーか。着替えだの、爪切りだのっ!」
「それは仕方ないよ、皇子なんだから。それにさ、こういうの・・ホントすんごく楽しいんだよ。上手になったナなんて褒められたら、そりゃあ、もう・・」
「・・あーハイハイ、そーですか・・んで? 耳掃除、俺はどーしたらいいの? 膝枕?」
「あーそうか、ボクの膝じゃ高すぎるのかぁ・・どうしよう。枕を敷いて、かな? いや、布団を厚く敷いて、身体の方を高くしたらいいのかな。うーん・・ベッドの方に移ってくれる? ちょっといい体勢がないか、試してみなくちゃ」
脱力しそうだ。リンのヤツ、本当にどーいうつもりでアルを手なづけているんだか。
アルが肉体を取り戻したら・・なんて考えているとか? 俺とアルは兄弟だから、外見が似ていなくもないし。いや、そもそも俺があいつと寝てたのも、アルの代用みたいなモンだったから、これはこれであるべき姿なのかもしれないが。
それにしても、ちょっとムカつく。
どうして、あんなにエドのことが気になるんだろーなぁ・・リンは眠れなくて、ちょっと軽いヤツでも一服しようと枕元を探して・・煙管を含めドラッグが一切合切無くなっていることに気づいた。ホテルのベッドメイキングで片付けられたのではない筈だ・・武具や火薬類など物騒なものを置いているため、掃除はランファンがするという約束で、掃除婦には室内に一切立ち入らないよう頼んである。
・・ということは、ランファンか・・そういえば、前にランファンに五石丹を取りに行ってもらった時、隠し場所を教えたんだっけ。
『・・ランファンッ!』
呼びつけると、すぐに扉が開いた。こちらの用件を前以て察しているらしく、表情がややこわばっている。
『ここにあったモノは?』
『・・預かってます。お体に障りますから』
『勝手なことをするな。返せ』
『返せません。あんなの・・』
『あれは、痛み止めに使うんだ・・ちょっと頭痛がしてな』
ランファンの表情が揺れる。確かに痛み止めにも使えるが、それ以上に危険な薬もあるし・・大体、頭痛がするなんて、仮病に決まってる。いっそ勝手に捨ててしまおうとも思っていたのだが、さすがにそれはできず、ランファンの荷物入れに突っ込んである。
『どれですか?』
『とりあえず、全部返せ』
『今回、痛み止めにお使いになるのは、どれですか? その分だけお返しします』
せめてもの抵抗にそう言い張って頑張ったが、どれどれ・・とのぞき込むふりをしながら、取り上げられてしまった。
『・・せめて、悪酔いだけはしないでくださいね』
そう釘を刺してみたものの、ここ最近、リンがふさぎ込んでいるのを思えば、バッドトリップは避けられないような気がした。
夢うつつの中で、リンはまだ祖国にいた。出立前で、そのときには不老不死の秘術を蓬莱に求める予定だった。既に、何人かの皇子が大勢の供を連れて出国したという情報があり、焦りもあった。
『蓬莱には、不老不死の仙人がいて、人々に妖術を見せたりもしているそうです』
だが、けだるげに水煙管をくわえた女・・リンの教育係をしていたヤンフィは、不機嫌そうに鼻腔から煙を吐き出した。
『・・蓬莱、か。それよりも西に行け』
『西?』
『蓬莱の噂は私も聞いているが、やたらと不老不死を安売りしているようで、気に喰わない。新興宗教の教祖が奇跡と偽って、ペテンでもしているのではないのか? それよりも、西に行くがよい。クセルクセルの遺跡があるし、西には錬金術師もいる。おまえも賢者の石の伝説ぐらい、聞いたことがあるだろう?』
『賢者の石だなんて・・そんな、漠然としたおとぎ話・・』
『神話や古伝というのは時として、現体制では言えないことを暗喩するために、でっち上げれられることがある・・歴史はそのようにして曲げられてきたものだ』
確かに、その言葉にウソはなかった。蓬莱に向かった連中がどんな成果を得たのかは知らないが、砂漠を越えて見つけた“賢者の石”は、過去の遺物どころか、軍部の暗部に潜む、ぴっちぴちに生きのいいバケモノの体内に埋まっていた・・どうして今頃、こんなことを思い出したのだろう?
そうだ、ヤンフィはそのとき、こうも言っていたのだ・・『そしてもし、本当におまえが東の王になれるのなら・・西王母に逢えることだろう』
“西王母”が何を指すかは、分からない・・単に西国の統治者という意味でもなかろうし、嫁探しというのでもなさそうだ。彼女はいつも謎めかした言い方しかしない。
「頭で知識を理解するのではなく、肌で感じて知れ」というのがヤンフィの教育方針なのだから、そのあたりの分かりにくさは仕方ないのだが・・つまり、俺にとっての西王母は、エドワード・エルリックなのだろうか?
ヤンフィなら、エドを見て何と評するのだろう? 手紙を書いて、聞いてみようか・・まさか。祖国では男同士の恋愛は禁忌だというのに?
『まだ起きられません? 買い出しに行ってきますけど・・リン様、おひとりで大丈夫ですか?』
これは、現実世界の声・・リンは意識の片側で幻覚のヤンフィの姿をはっきりと見ながら、もう一方でランファンの姿もちゃんと認識していた。
『ああ、行ってこい・・これで結構、気分がいいんだ』
『・・そうなんですか?』
ランファンは不安そうだったが、それも道理、もう朝になっていたらしい・・そんなに長い時間が経っていたなんて、まったく気付かなかった。自覚していたよりも深く吸い込んでしまっていたのだろうか? 確かに、起き上がろうとすると、軽い吐き気がする。
『もう少し・・眠ってから、起きる・・』
そんな曖昧な精神状態の時に、来客があった。
居留守を使ってランファンが帰るのを待っても良かったのだが、せっかく遠路はるばる仕送りを届けに来たことを思えば、あまりむげにもできない気がして、這うようにして起きると、ドアを開けてやったのだ。
今回の使者はなんと、女であった。リンが目を白黒させている間に、使者はまず、仕送りのメインとなる路銀と、消耗品である閃光弾の類いを卓上に置く。それから母からの愚痴っぽい手紙。
『ヤンフィねーさんからの手紙は?』
どうせ小言しか書いてないはずだが、無いとなると寂しい・・ついさっきまで夢で逢っていた相手なのだから、懐かしさはひとしおだ。しかし、使者が差し出したのは、白い扇だった。
『ヤンフィ様は後宮に登られましたので、直接のお手紙は受け取れませんでした・・代わりに、このような白い扇を渡すように、とのことでした』
こんなもの贈ってくれと頼んだ覚えもないし、彼女の形見というわけでもなさそうだが「ねーさんのことだから、何か意図があってのことだろう」と思って、黙って受け取った。
そっか・・ねーさんが現皇帝の後宮に・・さっきまで彼女の夢を見ていたのは、これを知らせる予知夢か何かだったのだろうか?
彼女は元々皇帝の愛妾なのだし、かつては深く寵愛されていたのだから、死期が近いのを悟った皇帝が今生の別れにと呼び寄せたとしても、おかしな話ではない。
しかし・・例え自分とは恋人の類いではなく、あくまでも師弟という関係であろうとも・・何年も自分と肌を合わせてきた女性が、他の男に抱かれに行くという事態は、いくらリンでも、あまり平常心で受け入れられるものではない。
ついイラッとして・・昨夜のドラッグがまだ抜け切っていなかったというのも、言い訳のひとつになるかもしれない。その使者がまた、良い匂いがしたのだ。シン国の白粉の匂い・・久しく嗅いでいない“オンナ”の香りだった。
唐突に沸き上がった、凶暴な衝動に突き動かされ『あと、この翡翠の玉飾りは、弟御のレイ様からランファンへの贈り物だそうです』などと説明しているその手を引くと、ついつい、ベッドに引っぱり込んでしまったのだ。
相手は抵抗もせず・・いや、むしろ積極的に受け入れた。両足を使った、こっちの女は想像もつかないマニアックな愛技を駆使されて、しかもその両足が纏足したかのように、小さく可愛らしくて。
無我夢中で貪り、あ、やっぱり女体ってイイナーなんて思っているうちに、その胎内で果ててしまい・・
『嬉しゅうございます。リン皇子のお手がついただなんて』などという言葉を聞いて、我に返った。
やっちまったー・・と、リンは額を片手で包んで、ため息を吐く。しまった、避妊すんの忘れてた・・国を出てから長いこと、女相手といえば、万が一子どもができたら“商売あがったり”の娼婦がほとんどだったから、そういう心配をする必要がなかったのだ。ましてや、ここしばらくはエドを相手にしてたし。
・・シン国に居た頃は、玉の輿狙いですり寄ってくる輩も少なくなかったので、当然、そういうヘマはしないように、日頃から細心の注意を払ってきたというのに。
『もし、子どもができたら、当然、娶ってくださいますよね?』
『まぁ、妊娠すると決まった訳でもないし・・第一、まだ俺が皇帝を継ぐと決まってる訳でもないんだぜ?』
『継ぎますわ。継ぎますとも。ええ、リン皇子なら・・そのためにヤンフィ様は後宮入りされたのでしょう? ところで、リン皇子にはまだ、子どもはいないんですよね? だったら、この子が長子ということになりますよね?』
女がニタッと笑う。射精してスッキリしたところで改めて見ると、別に大した美人でもなければ、スタイルが良いわけでもなく。なんでこんなのを抱いちゃったんだろう・・と思うが、後の祭りだ。
『・・リン様っ! なにしてるんですかっ!』
そこに、ランファンが乱入してきて・・もう、最悪のパターンだ。
『こいつ、母上からの仕送りの届けに来たんだけどさ、その、つい出来心で』
『いやですわ。リン皇子。こいつだなんて・・シャオユイと呼んで。それに、出来心なんて・・夫婦の契りと言ってくださいな』
『いつ夫婦になったってんだ』
『将来、娶ってもらうんだから、もう夫婦同然ですわ・・なぁに? そこの下僕。何をにらんでるの? さっさとリン皇子と私の着替えの支度をしたらどう?』
そこで、ランファンがプチーンとキレた。いきなり女の髪の毛を掴んで、そのまま力任せに寝室から引きずり出す。
『何すんのよ! 私は未来の皇后よ!』
『いいかげんにして! ふざけるんじゃないわよ、このスベタ!』
女の尻を蹴飛ばしてシャワールームへ叩き込むと、ランファンは市場で買って来た紙袋から、酢の瓶を取り出して・・くるりとリンの方を振り向き『リン様、すぐに済ませますから、お召し物は少し、待っててくださいね』と、にーっこりと笑う。
その酢を何にどう使うのか、あまり想像したくないのだが・・確か、精子は酸に弱いのだそうな・・ランファンは笑顔のまま、その瓶を手にシャワールームに向かい・・ドタバタと暴れる音と、凄まじい悲鳴と怒声。
当然、フロントからは「他のお客さまから苦情が来てますので」というクレームが届く。リンは仕方なく、腰にバスタオルを巻いて、上着を羽織った、ちぐはぐな格好で応対するハメになって。
・・も、サイアク・・
シャオユイが泣きながら(それでも一応律儀に、返り文を受け取ってから)帰って行った後、ランファンがシャワールームの床にベットリ広がった血糊を、鼻歌を歌いながら上機嫌で洗い流しているのが、余計に恐い。
『あの女、往生際が悪くて、ちょっと手こずってしまって・・リン様、お待たせしました。さあ、お身体を拭いて、お召し物の支度をさせて頂きますね』
・・女って怖い・・
『・・リン様、これは? あの女の忘れもの?』
『あ、違う違う。それはレイからおまえにって。これは、ねーさんから俺に』
ランファンは、不思議そうに飾り玉を取り上げ・・蘭をかたどった見事な帯玉だ。乙女心に訴えようとする、レイらしいキザなプレゼントだが、ランファンはボソッと『こんなの、戦いの時に邪魔になる』と呟いて、興味なさそうにテーブルの上に放り出した。それを見たリンは、哀れな義弟に深く同情する。
さて・・この扇、だが。
白・・白虎、方角でいえば西、季節でいうなら秋、五元素なら金、惑星なら太白(金星)、五臓なら肝・・か。あと、何かあったかな・・つまり“西”の“錬金術師”ってことか?
・・また、思考がエドのまわりでぐるぐる回っている。
リンは考えるのをやめて扇をたたみ、腰帯にたばさんだ。
『・・ちょっと出かけてくる』
『どこへですか?』
『・・アルフォンスんとこなら、いいだろ?』
さすがのランファンも、アルフォンスと聞いて警戒をゆるめたらしく『でしたら・・ホテルまでの道中はご一緒いたします。お帰りになる頃は、狼煙か電話で連絡してくださったら、迎えに参ります』と言った。
狼煙か電話って・・とリンはおかしさを覚えるが、ランファンはいたって真面目な顔をしていた。
アルフォンスは朝一番に、皆にも爪きりの練習に協力してもらうつもりで司令部を訪れたのだが、さすがに「あんまり馬鹿げたことを頼んだら、仕事の邪魔だって、怒られるかなぁ」と思い当たってしまい、途方に暮れた。
しかし、そのでかい図体でボウッと突っ立っていれば嫌が応でも目立つ訳で、当然のように、リザ・ホークアイ中尉に見つかってしまう。
恐る恐る「あの・・爪を切らせてもらおうと思って・・」と頼むと、案の定ヘンな顔をされたが、必死で「好きな人のために練習したいんです」などと事情を説明すると、意外やクスクス笑い出して「そういうことなら、良いわよ」という返答が返って来た。
「皆、ちょっと来て」
リザがそう呼び掛けると、何か仕事で重大なミスでもあったかと、職場にピイィ・・ンと緊張した空気が張り詰める。
「んで、靴脱いで・・今日はね、アルフォンス君が爪切りの出張サービスですって」
「・・? なんですか、そりゃ」
「一途な恋心は、応援してあげなきゃ」
一同はずっこけてしまった。
リザは、その相手が男だとは夢にも思っていないので「ごめんねーむくつけき男どもしかいなくて」などと、かえってアルフォンスに対して恐縮している。
「でも、最初は大きな足の方がやりやすいかも・・兄さんのは小さすぎて・・」
「じゃあ、慣れたら最後に、私の足も貸すわね。なんだったら、他の女性職員も呼ぶけど」
「すみません、突然、こんなお願いで・・」
「いーのよいーのよ。恋する気持ちは大切にしなきゃ・・ホラ、皆も協力してあげなさいよ。最初は誰から?」
「・・じゃあ、頼もうか」
一番最初に靴下を脱ぎ、ドンと足を差し出したのは・・なんとロイ・マスタング大佐であった。
リザが協力的な理由とはちょっと違って、マスタング大佐が協力を申し出たのは「アルフォンスの想い人は確か、リンだったよな・・」と思い当たったからである。
鋼のの浮気防止のためにも、是が非にでも、アルフォンス君の恋は成就させるべきだ。
「おい・・上司が率先して協力してるんだ。お前らも早く、靴を脱げ。上官命令だぞ」
「そんな・・職権乱用だぁ!」
アルフォンスを訪ねたつもりであったのだが、リンを出迎えたのは、兄のエドワードであった。
ホントウハ、エドニ、アイタカッタンジャナイダローカ?
リンは一瞬、心臓が躍るのを感じたが、表情に出さないように腹に力を込めると、殊更に関心のないふうを装った。
「アルフォンスは?」
「・・あん? ああ、アルは指令部に遊びに行った」
「君達、いつも一緒じゃネーノ?」
「いつもは一緒だけど、アホらしくて付き合いきれねーから、今日はパスした」
「フーン・・あ、お構いナク。アルが帰って来るまで、おとなしく本でも読んで待ってるカラ」
勝手知ったる・・といった調子で部屋に上がり込むと、当たり前のような顔でアルの荷物から本を何冊か引っぱりだし、パラパラとめくって選んでから、ソファに寝転がって読み始めた。
「・・アルとは、いつもそんなん?」
「ソーダヨ」
それ以上は話したくなくて、リンは、エドと自分の間を遮るように片手を立ててみせてから、活字を目で追った。
いつもなら、これぐらいのお相手は余裕でこなせる自信があるのだが、今日は、ヤンフィの後宮入りを聞かされたり、あの女とのことがあったりして、内心かなり参っている。
異国の文字であるという理由以上に、内容が頭に入らなくて、何度も同じ行を行ったり来たりしていた。エドの視線がちくちくとトゲのように感じられて、余計にリンの集中力を削いでいる。
「だからって、すぐにアルに乗り換えるのは、どーかと思うぞ。アルは、俺の実の弟なんだからな。しかもアルの純情弄ぶようなことして」
エドは、まだしつこくネチネチと絡んでくる。リンはもう面倒くさくなって、わざと無視した。
アル・・いつ帰ってくるかな。あいつ帰ってきたら、どっか出かけようか。市場でものぞいて・・それとも、郊外に散歩とか。
ついに本を読む事を諦めて、顔に本をのっけたまま、目を閉じた。エドがギャンギャン吠えるのを聞いているだけでも疲れる・・アルが帰るまで、昼寝でもしておこう。
・・そう思っていたら、どん、と腹の上に何かがのしかかった。
「・・話、聞いてるのかよ!」
じれたエドが、リンの上に馬乗りになったのだ。リンは仕方なく「ゼーンゼン」と答える。
「てんめぇ・・」
「ボーリョクハンタイ」
「ふざけんなっ!」
「・・どーすんノ? 殴る? アルに言い付けちゃうヨ」
顔に乗せた本を持ち上げて、エドの顔を見る。ホント、怒った顔も色っぽくて・・あーなんで俺、こんな怒りっぽくてウルサイ奴が気になってるんだろ? アルの方が素直で可愛くない?・・でも、そそられる。コイツ、男なのにさ。
一方、エドも自分がどうしたいのか、どうしたらいいのか、分からない様子だった。
「ナニ? 誘ってくれてるノ? 今日はオレ、ナンカそーゆう気分にはなれないんだヨネー」
いやぁ、ホンキでイタしたくないんです、今日は・・本をサイドテーブルに移し、エドをのけようと上体を起こすのと、エドが衝動的にリンの上着の衿に両手をかけたのは、ほぼ同時だった。
「まあ、上手になったじゃない。ありがとうね」
リザが絶賛したのも道理。数多くの貴い犠牲を払いながら、アルは、鎧の太く動きにくい指を操りながら、見事な爪切りさばきをマスターしていたのだ。
「よしよし、これで恋人の心もガッシリ掴めるな」
先陣を切って、五カ所も負傷して討ち死に(?)したロイも、嫌がる部下や同僚を強引に掻き集めては、脅したりすかしたりして逃亡を防ぐなど、実に精力的に貢献した。
他人のことは我関せずのマスタング大佐が、何ゆえにこんなに協力的なのかと首をかしげる向きもあったが「人生において、恋は重大なエッセンスなのだ」などと真顔で騎士道精神を説かれれば、大佐の普段の女遊び好きを知っている面々は、口をポカンと開けて「ハァーそうですか」と言うしかない。
「どんな子なの?」
「あ・・えーとその・・黒髪の、ロングヘアの・・瞳は切れ長で・・」
「キレイな子なのね」
「ええ! とっても・・大人っぽくて・・でも、意外と子どもっぽいところもあったりするんです」
「もう、なんかアプローチとか、したことあるの?」
「アプローチというか・・今のところは友達なんです。今度、一緒にピクニックに行こうって約束はしましたけど・・」
「へぇ? やるじゃないの」
「でも、その・・故郷がとても遠くて、いつかは帰らなきゃいけないんです。だから、それまでの間、できるだけ思い出を作ってあげようと思って・・」
「そうなんだ。切ないわね、優しいのね・・じゃあ、他に何か、私達に協力できること、ある? お弁当とか、手作りのクッキーとかは? 花束のプレゼントなんてのも喜ばれると思うわ。フラワーアレンジメント、教えようか?」
「デートコースなら任せておけ。セントラル中のリーズナブルかつムーディな店なら、知り尽くしているからな」
「あっ、自分も良い場所を知っています! ピクニックに最適でかつ、穴場のポイントがあるんですよ! 自分もいつか想い人を連れて行きたいと考えているであります!」
「そんなんだったら、俺もいいところ知ってるぜ。おりゃあ、 そこでカミサンにプロポーズしたんだ」
「あ・・ありがとうございます! 皆さんに応援してもらって、ボク、とっても嬉しいです!」
いかつい外見には似合わない、かわいらしい声でそう言われると、殺伐とした日常に明け暮れている軍人さん達はついつい、ホロリときてしまう。
「よし、こうなったら、皆で弟クンの恋を実らせよう!」
・・中央軍指令部は、なんだか妙なノリで盛り上がりつつあった。
エドはただ、ひたすらむかついて、でも、どうしていいのか分からなくて・・気付くと、その唇にむしゃぶりついていた。いつもだったら、すぐにあごを開いて舌を差し入れられるところだが、リンの反応がないので、こっちから舌を絡めにいく。上着を剥ぎ取って・・肩のあたりに赤い筋が走っているのを見て、カッとした。
「・・おまえ今日、オンナと寝た?」
「アン? まーなぁ・・だから、今日はモーしたくネーノ」
「もうオンナ買いに行かないって、約束したのに・・よくも、そんなんで、ノコノコとアルに逢いに来れるな」
「そんな約束、とっくにチャラだろーガ・・マ、オレにも色々あってネ・・で、アルフォンスに慰めてもらオーと思ってサ」
「おまえ、すんげー自分勝手だぞ」
「君も、弟君がカワイイなら、オレとこーゆーことすんの、ドーヨ?」
「カワイイ弟だからこそ、おまえみたいなヤツとくっつけたくねーんだよ」
「君もすんげー自分勝手・・」
これ以上絡まれても面倒だ・・リンは諦めて、エドを抱き取ると、その小さな身体をソファに横たえてやった。覆いかぶさってキスしてやると、エドの吐息が熱くなる。リンも一瞬、想い人を抱くことへの歓喜を覚えるが、何かが引っかかった。
今日は嫌なことが色々重なっていたために、いまいち素直になれなかったのだろう。
「ドーユー風の吹き回し? 最近、大佐にしてもらってネーノ?」
「大佐は・・関係ない」
しかし、劣情に染まった頬が、エドの言葉を裏切っていた。
聞くんじゃなかった・・俺は大佐の代用品かよ。仕方ないから、さっさとイかせちまおう・・一気に萎えてしまったリンは、ため息をつくと、右手をエドのズボンに突っ込み、その中心から熱を吐き出させようと急速に煽った。
「あ・・そんな、いきなり・・」
素っ気ないリンの愛撫にじれたのか、エドは自分でズボンを下ろして脱ぎ捨て、手足をリンの胴に蛇のように巻き付ける。さらに、リンの欲情を引き出そうとして、肩や首筋をなぞってみたり、何度もリンの帯をほどこうとしたが、それは頑なに左手で払い除けた。
「・・だから、オレは今日、したくねーんだってバ」
「やっ・・俺だけなんて・・やだっ・・」
服の上からエドの胸を撫でて、固く膨らんだ小さな蕾を探り当てる。布越しに軽く歯を立ててやると、ビクンと胴が跳ねた。
「やだ・・嫌だって・・リンも来てよ・・やっ・・まだ・・イきたくないっ!」
だが、その絶叫と共に、エドはビクビクと全身を痙攣させて果て・・リンはティッシュを見つけると、べとつく手を拭う。
「ハイ、お疲れサン」
丸めたティッシュをくずかごに放り込んで、エドにもティッシュを差し出す。エドは泣いていたのか、それを受け取るや、まず鼻をかんだ。
「お疲れサンって、そんな言い方ありかよ・・そんなに今日の女は、ヨかったのか?」
「んー? サイアクだったヨ」
セックスそのものはヨかったんだけどねーその後がねー・・というのは、話がややこしくなるから、しない。
「・・早く身支度しておかないと、アルフォンス帰って来ちゃうヨ」
「俺は、そんなサイアクな女よりも、ヨくねぇの?」
「何言ってンダヨ・・君、本命は大佐なんだロ?」
「だっておまえ、気が変わったら、いつでもオイデって言ってたじゃん」
「・・気が変わっタワケ?」
「アルをたらし込んでるのを見てたら、すんげームカついた・・」
「ダカラ、それはアレだって。君達兄弟の精神は混線してるって言ってたデショ。最近、オレとアルフォンスって結構、親しくしてるから・・アルフォンスの感情に影響されてるのと・・あと、要らなくなったガラクタでも、捨てるとなると途端に惜しくなるってユーのと同じダヨ」
エドは言い返せなくなり、うつむいて黙り込む。その沈黙が、リンにも辛い。
『・・なーんでこんなヤツ、好きになっちゃんたんだろ・・』
エドにはシン国の言葉なんて通じてないと思っているのか、深くため息をついて、リンがボソッと呟いた。
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