扇といえば、そんな詩が有名だ。ある后妃が寵愛を奪われて、悲嘆に暮れて読んだという。
だが、晴れて寵妃として後宮に返り咲いたヤンフィは、秋扇どころか“この世の春”と言っても良いだろう。
むしろ、ヤンフィの後宮入りで顧みられなくなった他の妻妾らが・・それはリンの母親も含めて・・ヤンフィを怨み妬んで詠っていた詩かもしれない。
だったら何故、こんな扇を送りつけてきたんだか。
そう思いながら、白扇を弄んでいた時に、鎧戸にコツンと音がした。
何事かと思って窓を開けると、そこには青い服を来た女が居て・・一瞬、ここにいるはずの無い女性かと思った。また、幻覚を見ているのではないかと。
だが、まばたきをする間に、その“女”は、エドであることに気付いていた。窓に石など投げて、どういうつもりかは分からない。上がって来るよう促したが、逆に手招きされたので、取るものも取りあえず、部屋を出る。
「リン様、どこへ?」
「あーえーと、その、ちょっとなんだ、散歩に行って来る」
「ご一緒しましょうか?」
「いや、いい。その・・ちょっと、な」
ランファンは何か思い当たったらしく、露骨にイヤな顔をするが、それ以上は何も言わなかった。
「ナンダーその格好」
出てくるなり、そう言われた。
「かわいいだろ?」
「君は、黙ってさえいたラ、すんげーカワイイヨ」
リンはポカンと口を開けて見とれているようだった。エドは内心やった、とガッツポーズをする。
「ナニ? どーいう風の吹き回シ?」
「えーっと・・昨日は悪かったと思って、せめてお詫びにデートでもと・・前、こーゆーカッコしてた時にはすんごく楽しく過ごせたからさ。今日もそうしたら、ケンカしねーですむかなって」
「マエ?」
「地母神祭ん時」
「アー、アレネ」
一瞬ほころびかけたリンの表情が曇り、次の瞬間、片頬だけが笑いの形を作った。また逃げられる、とエドは感じて焦った。今度もまた、本音を隠して、作り笑いでいなされてしまう・・
「そーゆーサービスは、大佐にでもしてヤレバ?」
「俺はッ・・」
必死で引き止めようとして、リンの短袍の衿を掴み、強引にキスをする。ごちんと歯がぶつかった。
「イッテェ・・」
「あ、ごめん・・あのさ、俺、今日はリンとデートしたいの。大佐にはこんな格好してやったこともねーし、してやりたいとも思わねーの。これはおまえだけのためのスペシャルなの、分かってくれよ」
「そんなン・・大佐に見せてやってモ、大喜びすると思うヨ」
「おまえはどうよ? ねぇ、デートしよう?」
閉じられそうなリンの心の奥に、エドは必死で呼びかけた。リンの表情が揺れる。
断わるべきか、受け入れるべきか・・やがて迷った末に「君がそーいうんナラ、おつき合いスッカ」と、カラカラに乾いた喉から、そんな台詞が絞り出された。
市場でスナックを買い食いして、カフェでお茶して・・散歩がてら郊外の河原まで歩いてきて、ふと、リンが立ち止まった。
「おイ、エド・・」
「何?」
「あのサ、色々考えたんダけど・・」
「うん」
「一発殴らせロ。それで全部チャラにしてヤル」
それまで上機嫌だったエドが、唐突な申し出に「ハァ?」と
目を白黒させて凍っているのもお構いなしに、リンは右拳をエドに向かって繰り出した。
デートは嬉しいが、やっぱりロイの代用品にされたような気がして腹立たしいし、以前、自分の目の前でロイに「愛してる?」なんて尋ねたりしたことも、許していたわけではないから。
エドが反射的に上体を反らせてパンチを避けると、次は足払いを喰わせるように低い蹴りが入る。
「なっ、ななっ・・」
辛うじてそれもかわすと、そのままリンの脚が上へ振り上げられる。
青いスカートがブァッとめくれ上がった。
「オーッ、パンツは男モノなんダナー」
確かに、エドが身につけていたのは、色ッけのない無地のトランクスだ。
「ウィンリィにパンツまで借りれるかーっ!」
「ソーオ? ドーセなら履いて欲しかったナー」
「ばっ、ばかやろー! もう、信じられない!」
その間にも、リンの攻撃はやまない。エドは一方的に避け続けていたが、ついに邪魔なスカートをからげて裾の端をウエストに挟み込み、反撃の体勢を整えた。
「パンツ丸出シ?」
「うるせーっ! ウィンリィのスカート破くわけにいかねーだろっ!」
「ナルホドォー」
エドが回し蹴りを繰り出すと、リンがそれをかわすために高く跳んだ。
「おとなしく殴らせロったラー」
「冗談!」
「ゆっとくケド、錬成禁止ネェ」
「そんなハンデありかよ! 素手じゃリーチの分、俺が不利じゃんか!」
あくまでも腕力や技量の差ではなく、腕の長さのせいにするあたり、エドも負けず嫌いだ。その後は、ふたりともへらず口を叩いている余裕が無いほど、真剣な攻防が続いた。汗みずくになって、息があがって、最後にはふたり同時に草むらにぶっ倒れてしまうまで。
「・・これでチャラ?」
「ちゃんと殴ってネーヨ」
「殴ってたじゃん」
「ソーダッケ? ア・・『太白』が見えル」
「『太白』・・? 星? ああ、金星か」
「白、西、金・・に『太白』デ、ほとんど揃っタカナ・・君達の国でハ、あの星、どんなイミがアンノ?」
「金星か? 美や愛の女神・・ってのが一般的だけど? 揃ったって何?」
「いヤ、こっちのハナシ・・ソッカァ、美と愛の女神、ネ」
寝転がったまま、顔をあわせる。ふたりとも髪はぐちゃぐちゃに乱れ、頬は上気して、頬骨に痣ができたり、唇の端が切れていたりしていた。
「アイヤー・・ヒデー顔・・美人が台なしダネ」
「だから、おまえが殴ったんだろーが!」
「ソッカ。ホントダネー・・ちゃんと殴ってラ」
ちょっと間抜けな会話に、ふたりとも吹き出し、爆笑してしまう。身をよじって大声で笑い、転げ回って、脇腹が痛くなる頃に、再びどちらともなく、視線が絡み合う。
「ジャア、チャラにしてヤル」
「えらそーに・・」
ふと、リンが真顔になった。エドも釣り込まれるように、リンの切れ長の瞳の奥を覗き込む。数秒間の沈黙の後、吸い寄せられるようにエドの身体がリンの腕の中に崩れ込み、唇が重なった。
「リン・・ごめん」
長いキスの後、エドがポツンと言う。
「ナニガ?」
「俺、リンのこと、全然知らなくって、アルに聞くまで・・その、おまえの事情っつーか。で、けっこー無神経なこと言ってたんだなーって」
「ジジョー?」
「ほら、皇帝になったらヨメが50人とか、自由に恋愛できないって・・」
「ランファンか、シャベッたのは・・余計なコトばらシやがッテ・・イーンダヨ、そんなん同情サレテおつき合いしてもらう方が、余計にみじめダ」
「そ・・そんなもん?」
「ジジョーなんてまともに考えタラ、オレ、とてもこんなことデキネーヨ・・だってヤオ族50万人の命運はこのオレの双肩にかかってルノヨ。なのニ・・こーしてると全部、ドーでもイーような気分になっちまウ・・すんげーヤバイよネ、コレ」
そして、もう一度キス。
・・ 王は、崑崙山で西王母にまみえ、楽しんで帰るのを忘れるほどであった・・エドはなぜか、その一節を思い出していた。まるで、リンが東の王で、俺が・・?
「うん。すんげーやばいかもな・・でも、今は、一緒にいられるんだから、それまでの間ぐらい・・そんな我慢することなくない?」
そう答えながらも、エドはリンに促されるまま、白と鈍色の両腕をリンの首に巻き付けていた。エドの呼吸が荒くなっているのは、さっきの組手の影響だけでなく、息苦しいほどに長いキスと、覆いかぶさってくるリンの身体の重みのせいだ。リンは己の指を舐めて濡らすと、エドのスカートの中に手を差し入れる。エドの身体がビクンと跳ねた。
『デモ、分かってンノ・・今のオレは、恋愛ゴッコなんてしてる場合ジャナイってコトぐらい・・なのにドーシテ・・』
どーして、こんなヤツ好きになっちゃんたんだろ・・そういう言葉が続くとエドは予測していたが、リンはその先を飲み込み、ククッと喉の奥で笑う。
やや乱暴に、そして性急に揉みほぐすと、リンが下履きを僅かにずらして己のそれを取り出し、なにかを吹っ切ったように、一気に侵入した。エドが苦痛に悲鳴をあげて暴れるのを、強引に押さえ付けて、ただ、祈るように、うわ言のように、その薄紅色に染まった耳朶に、何か・・多分、愛の言葉・・を繰り返し繰り返し囁きかけながら。
そして・・そんなリンにほだされるように、エドも絶頂を迎えた時・・気付くと、見覚えのある白い空間にいた。あの扉があるのではないかとエドは周囲を見渡す。ふと、気配を感じて振りむくと、奇妙にねじくれた樹木と、その傍らに立つ匂いたつような美しい女性・・樹には赤い実がいくつか実っていた。
「あなたは・・」
「私はあなた。あなたは私」
その実は良く見ると、胎動しているように蠢いていた。見ようによっては胎児のようにも、あの人造人間に埋まっている賢者の石のようにも見える。エドは古書で見た挿し絵を思い出す。ということは・・ここは真理の扉であると同時に、崑崙山だとでもいうのだろうか。
「ここに何の用で来た?」
「俺と・・いや、アル・・弟の身体を取り戻したくて」
「ほう? ここに来る者は皆、不老不死や死者の復活を願うというのに、おまえは死にゆく肉体を欲するのか」
「もう人体の錬成はしない。生ある者は、いつか死ぬ。それが自然の摂理だから・・だから、アルも、せめてアルだけでも、元の身体で、普通の生を生きて欲しいんだ」
女はアーモンドのような形の瞳を見開いて、エドをしげしげと見つめていたが、やがて呵々と笑った。
「気に入った。弟の身体のある場所を教えてやろう。ただ・・その身体の在り処が分かったところで、既に鎧に宿っている魂を、どうやって肉体に移し変えるというのだね? その肉体に、同じ血印でも刻むか?」
「それは・・そのときに考える」
女は、その一直線なひたむきさがますます気に入った、というように満足げに頷いた。
「では、その扉を開け。そこに居る・・ただ、通行料が要ることは、分かっているな? 何で払う?」
「俺の残りの手足では足りないか?」
「・・そうだ。おまえ、ここに来るのに力を借りた男がいたな」
「リンのこと?」
扉に手を触れて、ザワッとした感覚を覚える。振り返ろうとして、血の匂いに気付く。そして、女の手には、スイカほどの大きさの黒い毛の塊がぶら下がっていて・・
う ぁ あ あ あ あ あ あ あ ・・・・!!
自分の叫び声で目を覚ました。
その声にリンも跳ね起き、とっさに右手に青龍刀の柄を握り、左腕でエドを抱き締める。
「どうしタ! 何があっタ!?」
「リン・・ああ、夢か・・無事だったんだな、おまえ・・良かった」
「なんだヨ、寝言かヨ・・こらまタ、豪快な寝言だなオイ・・イヤ、オレもついつい、眠ってしまっテ・・」
短袍からはだけたリンの胸板に、直に頬を押し当てていると、リンの鼓動が聞こえる。夢の中のあの実の胎動は、この音だったのだろうか? 女の手にしていたものの正体を思うと、まだ、恐怖による激しい動悸と全身の震えが止まらない。
「・・どんな夢だっタ?」
「あの・・白い空間にいた。あの扉もあって・・でもあの顔のない小僧の代わりに、きれいな女の人がいて・・賢者の石が宿っている樹が生えてて・・で、アルの身体の在り処を教えてやるって言われたんだけど・・」
「聞かなかったノカ?」
「対価が高すぎた」
「ふうン・・」
ふと気付くと、リンの首筋に赤い線がうっすらと走っていた。爪で掻いたのかもしれないし、草で切った傷かもしれないとは思うのだが、エドはぞっとした。
「でも、これでアルの身体がどっかに存在してるってことは、確実だよな。対価によっちゃ、アルの身体のある場所まで案内してくれたかもしんないんだから、さ」
「ただの夢かもヨ」
「まぁな」
そうして抱き合っていて・・ふと、リンが、ふたりの身体を包む毛布に気付く。
「誰かが?」
当然のことながら、ふたりともそんなものを持ってきてはいない。ということは、眠っている間に、何者かがかけてくれたということで・・あんな、あられもない格好で!?
ほとんど着衣のままのリンが、片手でずり落ちかけたウエストをグッと引っ張りあげると、立ち上がって青龍刀を構えた。エドも、はだけたシャツやスカートの裾を直して、あたふたと身支度をする。
「・・アンタ、確か軍部ノ・・?」
リンはその毛布の主と思しき人物を見つけたらしく、絶句していた。エドもリンの視線の先を辿って「でぇええっ!」と叫ぶ。
「へぇ、君達って、そーいう仲だったのねぇ」と、ニコッと笑いながら、ふたりが寝転がっていた土手よりもやや上方に、腰を下ろしていたのは・・
リザ・ホークアイであった。
「イヤァ、すみませんネェ。お風呂まで借りちゃって」
立場上、針の蓆のエドに対し、詳しい人間関係をあまり把握していないリンは笑って応対している。
確かにあのまま夜露に濡れて眠りこけていたら、確実に風邪をひいたであろうし、泥だらけ汗まみれのまま帰れば、ランファンやアルが大騒ぎしたろう。そういう意味では、確かにリザの好意はありがたいのだが。
「いーのよ、いーのよ。いや、最初はびっくりしたんだけどね。エドワード君もお友達というか・・なんというか・・まあ、その、本当は女の子の方がいいんだと思うんだけど、でも一応、恋人がちゃんといるんなら、それでもいいかなぁって思って・・」
リザが珍しくしどろもどろになっているが、それは風呂上がりのリンが上半身裸だからのようだ。
「その・・君みたいな男前だったら仕方ないわよねー・・すっごい鍛えてるのね」
「アレ、オネーサン、照れてんノ? ナニ? 筋肉、触ってみたイ?」
「・・ヤダァ、もう!」
リザが赤面しながらもリンにじゃれているスキに、エドがコソコソッと「えーと、次、俺入りまーす」とバスルームに避難した。
一体どこからどこまで、中尉に見られていたんだろう? これをネタに強請られたら・・いや、強請られなくても、知られているというその事実だけで、恐ろしい。
ガクガクブルブル状態のエドをそっちのけに、リザとリンは話が弾んでいた。
「弟クンも最近、好きなコができたんだって言っててね、皆で応援してるのよ」
「ヘェ? アイツ、ついに彼女がデキタんダ」
「まだ片思いだって言ってたけど・・」
「ソッカァ」
まさか、そのお相手がリンだとは知らないふたりは、良かった良かったと盛り上がっている。もしこの場にエドが居れば、その勘違いはすぐに訂正されたに違いない。
「デ、どんなオンナノコ?」
「私達も詳しくは聞いてないんだけど、黒髪のロングヘアって・・で、いつか故郷に帰らなくちゃいけないから、それまでの間に想い出を作ってあげたいんだって」
「ヘェ・・もしかしてランファンかなァ?」
「ランファン?」
「ウン、オレの部下なんダけド・・そーいえば最近、ふたりでなんかコソコソ話してルし、三人でピクニックとか行くシ」
「あ、そうそう! ピクニックって言ってた!」
「ナルホドー」
リンは、彼女の忠心に深い感謝を込めて、ランファンには幸せになってもらいたいと、常日頃から考えている。他の男に取られて妬ける妬けないという低俗なレベルではなく、主人として、ランファン自身が幸せであればそれでいいと思っているのだから、ランファンに恋人ができるというのは、大いに歓迎だ。
・・ますます義弟のレイには気の毒だが。
「でね、エドワード君も、弟クンに負けずに恋人でも作らせようって、思ってた矢先だったものだから」
「フーン。でも、オレがゆーのもナンだけど、エドには大佐が居るんじゃネーノ?」
「そんなの・・大佐となんて問題あるわよ。年の差もそうだし、男の子を恋人にしてるなんて風評が立ったら、出世にも差し障るだろうし・・というか、大佐はただでさえ女遊びが激しいのに! それぐらいなら、君の方がズーッといいわよ。年の頃も近いし。応援するわね」
「オネーサン、アリガトーッ!」
感激したリンは、思わずリザに抱きついてしまう。
「ちょ、ちょ、ちょっとぉ・・!」
「オレさー、エドんこと・・男同士だシ、エドには大佐が居るシ、ランファンとかには猛反対されルシ、なんてーの? 周囲ハ敵だらけってゆー状態でサ・・応援してくれルってゆーノ、オネーサンが初めてダヨォ」
「そ・・そうなんだ。かわいそーに。うん、応援するわ。私は味方よ。頑張って、大佐からエドワード君を奪ってね」
アルの想い人がリンだと知らないからこそ生じた“ねじれ現象”なのだが、リンも『じゃあ、アルの想い人が俺じゃなくなったってことは・・エドの俺への好意は、アルフォンスからの混線じゃなくて、エド自身の気持ちだって、信じていいんだよな!?』と思い込んで、感慨ひとしおだ。
今までどれだけ、この仮説に悩まされてきたろう。どんなにエドが優しい言葉を投げかけ、抱き締めてくれても素直に受け入れられず、「それは実は、エド自身の気持ちではなく、アルの精神に影響されただけかもしれない」と、疑い続けなければいけなかったのだから・・。
一方、シャワーを浴びて戻ってきたエドは、リンがリザの胸に頬を埋めて、髪を撫でられているのを見て「わぅあえぎゃあぇおう!」と、意味不明の奇声を上げてしまった。
「なっなっなっ・・何してんだよっ!」
「あらぁ・・お風呂、上がったの?」
「今、オネーサンに慰めてもらってタとこォー」
「慰めてって、おまえ、一体、そんな格好で、もう、ばかっ!」
「何? エド、妬いてんノ? ウレシーナァ」
「まぁ、脈あるんじゃない?」
「そーいう問題かーっ! もう、帰るぞ、リンっ!」
「えーっ? 帰っちゃうの? リン君、上着泥だらけでしょ? 汚くて袖通したくないだろうし、第一、その格好で街中歩いてたら不審者扱いされちゃうから、大佐ので良かったらジャケットあるから、着ていったら?」
「なんデ大佐のジャケットガ?」
「ボタンが取れたりしたのを、つけてあげるのに、持って帰ってきてたから・・」
「ナルホド、尽くしてるノネー」
「エドワード君も着替え、要るでしょう? これ、コンペの景品で、私着ないから、返してくれなくていいわよ」
いっ・・嫌がらせだ。絶対、中尉は嫌がらせで言っているに違いない。
リザが笑顔で差し出してくれたのは・・どピンクでレースの総フリルやらリボン飾りがイヤというほどついた、アームストロング卿好みのラブリーなワンピースであった。
帰り道すがら、エドは「なんでおまえ、中尉に抱きついたりなんかして・・」とぶつくさ怒っていた。
「イヤァ、利害の一致っていうノ? それにチョット、ねーさんのコト思い出して、ツイ、甘えてしまっテ・・」
「ねーさん? 前にも言ってたな。おまえの教育係の人だっけ? どんな人だったの? 中尉に似てたってこと?」
「ン? イヤ、リザさんには似てねーヨ。ねーさんはあんなに乳でかくネーシ、体格もずっと小柄で、細っこくてサ、ちょうど・・」
そこまで言って、リンは初めて気付いたように、口の中でアッと小さく叫ぶ。
「君に似てるのかモ・・」
「俺に?」
「いや、顔とか雰囲気が似てるってんじゃナイヨ。今まで気付かなかった・・でも、ああ、ソッカ・・」
そういえば昼間、女装したエドが窓の下に現れた時、一瞬、ねーさんが来たのかと思ったのだ。体格が似ているというだけでなく、どっか・・根本のところで共通した“気”というか、気配というか・・そういう部分に似た匂いを感じる。
「何、自分だけで納得してんだよ!」
「多分・・西王母なんダ」
「へっ?」
(私はあなた。あなたは私)
「現皇帝にとっテ、彼女が西王母だっタ・・んだト。オレも詳しくは知らネーんだけド。で、オレも東の王になれルんなラ、西王母に逢うだろウって、言われタ。その力を得て、王位に就くことができルはずダっテ・・」
「なんか、すんげー照れくさいだけど・・50万人の命運と引き換えだとか、俺が西王母だとか・・すんげー話が大袈裟すぎだし」
「ウン、ソダネー。でも、ホントのコトだヨ」
真面目にそう言った直後、キスでもしようとエドの方を振り向いたリンが、その格好につい、プッと吹き出してしまった。
「・・シリアス、ぶち壊しダネー、そのドレス!」
「あーもう、腹たつったら! じゃ、俺んホテルこっちだから・・またな!」
夜の闇がねっとりと肌にまといつく、暑い夜だ。一度シャワーを浴びたはずなのに、再びじんわりと汗をかいている。エドを見送った後、リンは、なにげなく腰にたばさんでいたあの白い扇を抜いて、パタパタとあおいだ。
ああ、そうか・・と、リンは漠然と思いついていた。
ヤンフィが、一度は自分を捨てて放り出した男の元にあえて帰っていったのは、それが必要だったからだ。 皇帝は病床でヤンフィの房中術を必要とし、ヤンフィは彼女自身の目的があって・・俺が自惚れてもいいのなら、俺が賢者の石を持ち帰るまで、なんとか皇帝を生かしておくために。
いつかまた、ガラクタのように捨てられると分かっていても、今、必要とされるのなら、そのために全身全霊で尽くそうと。
『・・つまり、俺も全力を尽くせってコトだよね? ねーさん?』
不老不死の秘密探しも、エドのことも・・見上げると、既に金星は沈んでいたが、代わりに満天の星々が微笑んだような気がした。
「そうそう、その子がさぁ、すっごくカッコ良かったのよ! ウエストが細くて、でも筋肉がこう、盛り上がっててねぇ」
「へぇ? もう大佐から乗り換えちゃえば?」
「そーいうんじゃないわよぉ、私と大佐は。でも、確かに大佐って最近・・」
一瞬静まり返り、次の瞬間、ドッと一同爆笑する。そこは、中央軍指令部の機密情報が集う、男子禁制の聖域・・すなわち、給湯室であった。
「そりゃ言い過ぎよぉ!」
「でも、きっとそーよ!」
「誰か見た人いないの?」
「あんた、口説かれてなかった?」
「やだぁ、リザの想い人を寝取るなんて真似、できっこないじゃないのぉ!」
ムムッ、私の噂か? たまたまその前を通りがかったロイ・マスタング大佐の耳が、ダンボになる。
「でね、その子って黒髪で糸目でねー」
「あれ、それって大佐に似てるんじゃない? リザってそーいうのタイプなんだぁ」
「そんなんじゃないわよぉ! 似てないってば!」
誰だ? 誰のことを話している? ロイは思わず、ヤモリのように扉に貼り付く。
「あーでも、野心家タイプには弱いかも。男の野望のために尽くすのって、もえるわぁ。その子もシン国の王になるって目標があるんだって。偉いわよねぇ」
「大佐も目指すは大総統だもんね」
「うんうん」
なぜにリン? ロイの頭の中が真っ白になっていると、その噂の張本人が廊下の向こうからキョロキョロしながら歩いてきた。
「こっ、こら、貴様、なんでこんなところにっ!」
「アン? アア、昨夜イロイロあっテ、リザさんの風呂使わせてもらって、着替え借りタから、返しニ来タんダヨ」
「イロイロ? 風呂? 着替えだと!?」
「アンタのジャケットとズボン・・裾丈は多少ガマンできても、ウエストゆるくて困ったヨ・・んで、キュートーシツってココ?」
「あ、そうだが・・待てっ! 大佐である私ですら入室を禁じられている乙女の花園に、貴様が何の用だっ!」
「ダカラ、リザさんに服返しに来たンダッテバ」
リンは一向に頓着せずにドアをノックし、返事も聞かずに扉を開ける。ロイの鼻先で扉が閉じられた途端、キャーッという黄色い声が上がり、続いて「リザ、この子?」「カワイーッ!」という歓声がわく。
「絶対、大佐よりイイって!」
「その上着、ちょっと脱いでみてくれる? きゃーっ!」
「リザが乗り換えないっていうんなら、私が食べちゃおうかなぁ。年上の女の人ってどう?」
「よしなさいよぉ、この子にはこの子の恋人がね・・」
「そーなんだぁ・・恋人いるんだぁ。残念っ!」
なっ、なっ、なんなんなんなんだ! ロイが口をパクパクさせていると、リンがひょっこり出てきた。
「アー・・ビックリシタァ・・」
「ビックリシタァはこっちの台詞だっ! 中央指令部のギャルのハートは私が一人占めにしていた筈なのに、なぜ貴様ごときにかっ攫われなければならんのだ!」
リンは一瞬、状況を理解できずにポカンとしていたが、やがて飲み込んだらしく、ニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「ギャルのハート・・ダケじゃナイかもヨ? エドだってもしかしたら・・」
「バカな! 貴様ごときに負ける私ではないわ」
不意に、リンが手を伸ばして、ロイの脇腹を掴んだ。
「・・でも、ウエストはオレの勝ちダナ」
「なにおっ! 私だって軍人だ! 鍛え直せば、こんな肉、すぐに・・」
「知ってルカ? 筋肉の上に乗った脂肪は、後になっていくら腹筋鍛えても、脂肪の下の筋肉が厚くなるだけデ、余計にハラ出るんだってヨ」
「なっ、なんだと!?」
「人体の神秘ってヤツでネー・・ご愁傷サマ」
カッカッカッと高笑いしながら、リンが去る。ロイは茫然とそれを見送り・・やがて我に返って飛ぶように、己のデスクに戻るや、猛然と「不法入国者逮捕命令書」を書き上げた。
もちろん、その超力作は、受け取ったリザによって、こっそりゴミ箱に捨てられたのだが。
「今夜、空いてるから、遊びに来たまえ」
あんな若造に鋼のを取られてはなるまじと、ロイが電話をかける。元々、鋼のは私が幼い頃から見い出して、遠くからそっと育っていく姿を長年に渡って見守ってきて、私が一から手ほどきして咲かせた華だ。それを横からしゃしゃり出て来た輩に、やすやすと手折られてたまるものか。
しかし、そんなロイの意気込みを知ってか知らずか、恋人からは「あーえっと・・今日は予定があんだけどぉ」と、歯切れの悪い返事が返ってくる。
「・・誰だね?」
予定が何、と聞くのではなく「誰」と聞くあたり、既に答えは半分予測がついている。
「その・・リンなんだけど。夕方ぐらいまで組み手でトレーニングして、晩は、シェスカから借りたシン国の資料を、一緒に解読しようって・・」
組み手ぐらいなら、ロイでも筋肉痛覚悟でお相手がつとまるかも知れないが、シン国の資料調査となったら、完全にお手上げだ。
くっそぉ、そういう餌で鋼のを釣るか、卑怯者め・・と、ロイは歯噛みして悔しがる。
「そ・・そっか。じゃあ、仕方ないな。せめて組み手で存分にヤツを叩きのめしてやってくれ」
「ああ、わーった、わーった。頑張るよ」
「・・鋼の」
「あん?」
「愛している」
「うん、知ってるよ。ありがとう・・じゃ、またね」
大佐が自分を愛してくれているのは、よく知ってる・・でも今は、リンの気持ちもよく知ってる。エドは電話を切ってから、ため息をついた。
あの河原の辺りに、ボートハウスだったらしい空家を見つけたって、リンが言ってた。シャワーも使えるみたいだから、バスタオルも持って来いってさ。
・・まだまだ、暑い夏が続くのだろう。
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