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砂の記憶


4 醒


アルフォンスは、確かにロイの自宅まで行ったが、ノックしても返事がないので、あっさり戻ってきてしまった。
自宅にもいないようだ、ということになって、リザは半ばパニックになり・・ただ、それが大事になるとロイの立場が危うくなりかねないので、リザに代わって、元東部指令部組の男性陣が奔走して、うまく誤魔化しきった。

一方、エドは、落ち着いて考えたら、前回のイタズラはやり過ぎた・・と深く反省して、あえてロイに連絡をとろうとはしなかったため、うかつにも彼が「行方不明」になっているとは数日間、知らずにいた。



「やっぱり、ジシュテキなシッソー・・ってヤツなのかなぁ?」

エドがルームサービスで取り寄せたモーニングセットをぱくついていると、アルがそうボソッと呟き、何気なく「誰が?」と聞き返す。

「誰って・・大佐だよ」

エドが、フレッシュジュースを吹いた。アルが素早く飛びのく。

「やめてよ兄さん。ジュースなんか浴びたら、鎧がサビちゃうでしょーが!」

「わりぃわりぃ・・んで? 大佐が失踪したって・・マジかよ」

「うん。ここんとこずっと、中尉達が捜し回ってるんだけど・・ファルマンさんが『そういえば、大佐が失踪マニュアル読んでたことあったよなぁ。逃走犯の裏をかくための研究だって言ってたけど』って言い出して・・どこにもいないようだし、これだけ市内をさがしてもいないから、とっくにセントラルを出たんじゃないかって・・」

「なんで、そんな大変なこと、俺に黙ってたんだよ!」

「あれ? 言ってなかったっけ? あ、そーか。最初に中尉から電話があったとき、兄さん眠ってたんだっけ。んで、大佐の話、してくることなかったから、ケンカでもしたのかなーとは思ってたんだけど。ほら、ケンカした直後で、大佐の話すると怒るでしょ、兄さん」

「そーゆー重大なことは別だろーがっ!」

「・・兄さん、どこ行くの?」

「大佐んち!」

「いないよ。最初の日、ボク行ってきたし」

「戻ってきてるかもしんねーだろーが! それに第一・・大佐んち行ったって、おまえ、中まで入ってみたのかよ!?」

「いや、鍵かかってたし、ノックしても出なかったし・・だから、鍵かかってたから、誘拐とかではないだろうってことなんだけど・・」

「居留守かもしねーじゃんか! 行ってくる!」

「その前に、吹いたジュース、片付づけてから行ってくれない? 錆びちゃうから、ボクが床掃除すんのヤなんだけど」

「そんなもん・・掃除婦に来てもらえ!」





「・・大佐? 入るよ?」

返事はない。鍵がかかっていたが、エドは頓着せずに両手を打ち合わせて、ドアに触れた。ノブがググッと動き、やがてカチャリと鳴った。
何回か、壁に穴を開けて押し入ったり、壁が駄目ならと扉に穴を開けたりしては、ロイに「強盗のようなマネをするな」と叱られていたので、なんとかドアの内側からロックを外す方法を会得したのであった。
錬成で“出入り口”を作ることに文句をいうぐらいなら、そうせずに済むよう合鍵をくれれば良さそうなものだが、要は他の女性を引っ張り込んでいる最中に押しかけられたら困るという理屈らしい。
まぁ、エドも東部では、ロイの自室よりも指令部の執務室で逢う方が好きだったとこもあり、合鍵を欲しいなど言ったこともなかったのだが。

そっと扉を開けると、カーテンを閉め切っているらしく、部屋は薄暗かった。空気がよどんでいて、少し息苦しい・・耳がツンとする。締め切っていたせいだろうか? 心なしか酸素も薄い気がする。
そして、ガランとした室内。いいかげん、中尉に片付けに来てもらえばいいのに・・だが、荷物は多少引っ掻き回した跡があって・・ベッドの上に、毛布の塊。

「大佐?」

大佐が横たわっているにしては、ボリュームが足りないような気がしたが、とりあえずそう呼びかけて、そっと手を乗せて揺さぶる。

「・・鋼の・・?」

バカアル・・いるじゃねーか。ちゃんと、ここに。
ホッとすると、やがて苛立たしさが鎌首をもたげてきた。皆心配してるっつーのに、何やってんだ、まったく。
乱暴に毛布を剥き、ガツンと怒鳴り付けてやろうとして・・現れたやつれ切った顔に、闘志が削がれてしまった。

「・・大佐?」

顔色が蒼白をこえて白茶けており、血の気のない頬がこけて、目の下にクマができており、無精髭まで生えていたのだ。

「鋼の・・これは、夢ではない・・のか」

「何言ってんだ、どーしたんだ、一体?」

「・・分からん。現実か、幻覚か・・自分が起きているのか夢の中なのか、よく分からない状態で・・あり得ない声やあり得ない匂いがして・・本当に鋼のだな? これが幻覚なら、相当ヤバいぞ」

「あーのーなーっ!」

エドはロイの肩をぐいっと掴むと、唇を重ねた。ロイの口の中がカラカラに乾いているのが分かる。ずっと水も飲んでなかったのだろうか? せめて口腔がいつもの湿り気を取り戻すまで、ねっとりと舌を絡めてみた。

「どお? 幻がここまで濃厚にキッスできる?」

「・・残念ながら、その手の夢魔のご訪問も受けたよ」

“夢魔”とは性夢を司る悪魔の一種で、男性の姿で女性を誘惑するのはインキュバス、逆のパターンはサキュバスという。ロイに訪れるならサキュバスだろうが、なぜかこのとき、ロイは“夢魔”を“インキュバス”と発音していたが、エドは幼少時から錬金術の勉強ばかりしていて、いまいち神学に疎かったため、その点には気付かなかった。

「そっか・・王子様のキッスでも覚めねーか」

「お姫さま、じゃないのかね?」

「そーゆー減らず口が叩けるってこたぁ、ちったぁ調子が戻ってきたよーだな・・水くんで来ようか?」

「うちの水道水は飲めない」

「なんでだよ・・げっ、赤水出てやがるっ! 東部のアパートよりひでーな、まったく」

ぶつくさ言いながら、エドが室内を歩き回り、カーテンを引いて窓を開け、空気を入れ替える。まぶしいのか、ロイが手をかざして陽光を遮った。エドはさらに、なぜか大量に散らばっているマッチの燃えカスをくずかごに放り込むと、食料庫の類いがからっぽなのを確認して、天を仰ぐ・・まったく、俺がいなかったらこの人、ここで野垂れ死にしてたに違いない。

「ちょっと待ってろよ。なんか、食いもん買ってきてやる。なっ? こんな親切な悪魔はいねーだろ?」

「ああ、天使だ」

エドはニコッと笑顔を見せると、バタバタと出ていった。
ロイは再びがらんどうになった部屋に取り残され「さっきの鋼のは、本当に、現実の鋼のだったのだろうか?」とぼんやりと考えていた。ここ数日、幻覚に悩まされていたロイは、それほど自分の五感と記憶力が信用できなくなっていたのだった。




エドは、リンが行き倒れたときのことを思い出して、パンだのハムだのチーズだのを大量に買い込んできたが、人間、何日も絶食した後は普通、そうそう急にモノを食べられるものではない。それができるのは相当、五臓六腑が丈夫なのか、絶食慣れしているからだろう。
ロイは食べものを見ただけで、ゲップが出そうになった。だが「食わなきゃ死ぬぜ」と、エドに促され、とりあえず脳に栄養が行き渡るように、糖分と炭水化物だけでも摂ろうと、ピーナッツバターをこってりとパンに塗って、口に押し込む。

「余った分は、ここに入れておくぞ! 腐らせる前に食えよ!」

「ああ、分かった・・」

無理矢理飲み込んで、瓶詰めの炭酸水を口を漱ぐようにして飲み下すと、ようやく現実感が戻ってきた。
どんな幻覚を見ていたのか、エドに話してやろうとして、そのイメージが急速に失われていくのを感じた。そう、両手ですくい上げた砂が、こぼれていくように・・サラサラと音が聞こえそうなその喪失感の向こうに、夢魔が笑っているのを感じた。



「鋼の・・聞いてくれるか?」

「え? 何?」

「言葉にしないと、忘れてしまいそうだ・・何度も、思い出しては忘れていたんだ」

「その・・ここ何日か見てた幻覚ってやつ?」

「それだけじゃない。何年も何年も・・そして、それを忘れるたびに、記憶がねつ造されてきたんだろうな」

「そーゆうことは、よくある話だよ。昔のこととかって、ケッコーつごーよく忘れてたり、記憶違いしてたりするだろ? それぐらいなら俺だって経験あるぜ。気にしすぎなんじゃねーの?」

「・・私は、士官学校時代、野外演習中に・・レイプされたことがあったらしいんだ」

明るくカルく、フォローしようと片手を上げたエドが、思わず固まってしまった。
マジで? と聞き返すこともできない。以前、リザに車で送られる際に「大佐ってさ、昔、なんかあったのかな」と尋ねたときの、そのイヤな予感が、まさに適中してしまった訳だ。
“らしい”という言い回しに、再び記憶が失われつつあることが知れた。ここで“夢魔”を逃しては、いつまた再びそいつが顔を出すかもしれない。

「・・続けて。大佐が忘れても、俺が覚えていてあげるから。全部、話して」

だが、ロイの視線は宙を泳ぎ・・しばしの沈黙の後、がっくりと頭を抱えてしまった。
エドはロイに歩み寄って、その頭を撫でてやる。そんな過去があったなんて、知らなかった。知ってたら、あんな悪ふざけはしなかったのに・・自分よりも体格は上とはいえ、他の軍人と比べれば若干小柄なロイの身体が、いつもよりも小さく、儚く見えて、エドは子どもを抱くような気分でその髪を、背を、撫で続けた。



「・・ねぇ、大佐、病院で診てもらおうよ。その・・記憶障害みたいなやつ・・もしかして、脳に腫瘍とかがあるのかもしれないじゃん? 病院がイヤなら、せめてノックスさんに診てもらうとか」

落ち着いた頃合を見計らって、エドがそう囁きかけてみる。

「冗談じゃない。そんなもんあったとして・・手術を受けろと? 頭蓋骨なんか開けたら、どれだけの間、入院しなきゃいけないと思ってるんだ。大体、ノックスは監察医だから、死体専門だぞ」

「じゃあ、カウンセリングを受けてみるとか」

「何と言えばいいんだ? この私が、レイプされたトラウマで苦しんでますとでも言うのか? それも10年も前のことで!」

「でもさ、あんた、このままじゃ・・」

ふと、エドは「アッ」と小さく叫び、ロイが顔を上げた。いいことを思いついた。でもそれは、決してロイは受け入れない提案に違いなくて。

「・・あの薬・・」

いつぞや、リンに飲まされたシン国の薬。俺、あれを飲んで、記憶が消えたんだっけ・・うまくすれば、大佐のその悪夢も完全に消せるかもしれない。
むろん、ことエドが絡むとなると、ロイとリンはどちらもいい顔をしない。でも、今回はそんなゼイタクを言っている場合ではないではないか・・と思う。

「その夢魔を退治する・・ことができるかもしれない。それで、大佐が少しでも楽になるのなら。でも・・その・・それができる相手ってのが・・怒らない?」

「誰かね?」

誰かねと尋ねつつ、ロイは既に回答を知っている顔だった。片頬が不自然に引きつっている。

「その・・リンなんだけど・・」

「あの男の助けなら、要らない」

ほら、そう言うと思った。どーしてこう、意固地になるかな・・と、エドは自分が二股かけていることが原因なのを棚にあげて、そんなことを思う。

「過去のコトはいい加減、水に流してくれよ。賢者の石の秘密を探るためには、仲間同士でいがみ合いしてる場合じゃないだろ?」

とっさにひねり出したにしては、我ながら素晴らしいキレイゴトだ。これには、ロイも顔をしかめながら「まあ、そりゃあそうだが・・」と呟くしかない。

「だが、相手が何と言うかね」

ロイは、まだそんなことを言ってグズグズしている。エドは「ちょっと待ってて」と言い残して、部屋を出た・・どうせ、リンが一部始終、のぞいていることは見当がついていた。最近はリンの体調不良のために中断していたようだが、以前は不老不死の手がかりのために、ずっとエドを尾行していた・・らしいからだ。

「リン、聞いてたんだろ?」

扉を閉めながら、虚空に向けてそう呼ばわる。そして振り向くと・・

「ホント、君って図々しいネ。ヒトのことを過去のことヨバワリして水に流しておきながら、そーゆーコトはチャカリと頼もーってんだからサ」

確かに無人だったはずだが、まるで最初からそこにいたかのように、リンが腕を組みながら、壁にもたれていた。




「頼むと決めた訳じゃないぞ」

「オレもできると請け負う訳じゃナイ・・というか、最初に確認しておきたいんだガ・・アンタ、クスリの耐性あル?」

「立場上、ある程度は薬物に身体を慣らしているが・・」

「自白剤のタグイは?」

「それは当然、耐性がある」

「じゃあ、無理かもしんねーヨ? 一応、今、ランファンに取りに行かせてルけどサ」

「チオペンタールか? 確かにあれは耐性がつきやすい」

「こっちでどういう名前をつけてるか知らネーけど、植物系じゃネーヨ・・エド、効かなくても恨みっこなしダゼ。こちらサンの体質の問題だかラナ」

ロイに、薬への耐性があるなんて可能性は、考えた事もなかった。エドは自分のアイデアが安易過ぎたかと、ちょっと反省する。
それに、案の定というか何というか、顔を突き合わせているふたりは、同席しているエドまで胃がキリキリしそうな程、険悪な雰囲気で。

「植物じゃない? 鉱物か、化学合成か・・そんな得体の知れないもの・・御免被りたいな」

「ア、ソウ。じゃ、オレも帰ってイイ? エド?」

わざわざエドに声をかけるのは、嫌がらせなのか、あくまでもエドを立てているつもりなのか。

「そう言わずに・・ものは試しで、一応やってみようぜ? 大体、そのままじゃ任務にもつけねーだろ? んで、大佐は医者に行く気も、カウンセリング受ける気もねーんだろ? な?」

「こいつに頼むことを考えたら、カウンセリングルームの敷居の方が低いような気がしてきた」

「ジャ、そうしたラ?」

「・・リンまでそんなことを言う・・」

エドがかっくりと肩を落としたちょうどそのタイミングに、窓ガラスがコツコツと叩かれた。振り向くと、窓の向こうにランファンがいて、片手に小さなヒョウタンを持っていた。

「ア、ゴクローサン」

「・・ここは二階だぞ? いや、ともかくお入りなさい、お嬢さん」

ロイは愕然としていたが、なんとか立ち直って、窓を開けてやる。
だが、ランファンは窓枠にしがみついたままで、代わりにリンがそのヒョウタンを受け取る。

『リン様、あとは?』

『誰かこちらに来ないか、見張っておけ。できるだけ、人を寄せつけないように・・どうしても誰か来るようなら、知らせてもらおうか』

『分かりました』

そこまで言うと、ランファンは手を離した。ロイがギョッとして手を差し伸べるが、もちろん間に合うはずもない。思わずリンを押しのけるようにして下を覗き込むが、ランファンの小柄な黒装束はなく・・実際には、ランファンはとうに身を翻して、屋上まで跳んでいたのだが。

「ンデ? ブツは来たけど、ドーすんノ、エド? コレ使うってアイデア、あながち的外れでもねーからナ。思い出せネー記憶ってーやつハ、薬物で引っ張りだせる場合もあるシ、その後、再発しないよう暗示をかけレバ・・」

リンが、ヒョウタンを振ってみせる。
とぷん、たぷん、という重い液体の音がした。エドがそのヒョウタンを受け取り、ロイの顔を覗き込む。

「・・だって。大佐、ねぇ、お願いだから“治療”しようよ」

「じゃあ、鋼のが口移しで飲ませてくれるなら、それを飲んでやろう」

「あーのーねーぇ・・」

エドは脱力しかける。こんな事態に、言うに事欠いて“口移しならいい”なんて、何考えてるんだろう、大佐は。
だが、ロイは椅子に腰掛けると、足を組んで深くもたれながら、ニヤニヤとエドとリンを見比べていた。
さぁ、どうする? そいつの目の前で、私と口付けしてみるか?

エドの表情が揺れた。迷いながらも、ヒョウタンを手にする。これで、大佐が助かるなら、安いものかもしれない・・キュポン、と音を立てて栓を抜いて、ゆっくりとロイに歩み寄った。
ロイの口元が、勝利の感情に緩む・・不意に、リンが動いた。
リンが、エドの手からヒョウタンをひったくり、自分の唇にその中身を流し込むや、ロイの髪をぐいっと掴んで仰向かせる。



そして・・上から覆いかぶさるように、唇を重ねた。



「でぇっ!」・・と、叫んだのはエドだった。
ロイは事態を把握できずに呆然としたまま・・やがて、のけぞったのど仏がぐびりと動いて、注ぎ込まれた仙薬を飲み込んでいた。
時計の音だけがチクタクと、異様に大きく響く・・そして再び時間を動かしたのは、やはり、リンだった。
脱兎の勢いで台所に駆け込むと、蛇口をひねった。ザーッと流れ出す錆くさい水を手のひらで受け、口をすすいでは吐き出す。

「なっ・・ななな・・何したんだっ、リンっ!」

「何っテ・・ヤツと君のキスシーンなんザ見たくねぇし・・大体、アレは粘膜からも吸収すルンだゼ。君がボヤッとしながら口移しなんてしたら、一緒にラリっちまうゾ」

「あ、ああ・・そっか・・」

一応、理屈では納得できたが、先ほどのショッキングな光景に、エドはすぐには立ち直れそうにない。
リンも、ベッベッとやたらと唾を吐き散らした。マジ、キモチワリィ・・仙丹の甘く腐ったような味、重ねた唇のぐにゃっとした柔らかさ、あごや上唇のちくちくした無精ひげの感触・・それも、大嫌いな野郎の! ああ、汚らわしいっ!

そして、当のロイは呆然と椅子に座ったまま、動かない。

「・・大佐?」

「ショック死でもしたカ?」

まぁ、死んでくれた方が、俺もアリガタイんだガネ・・という軽口は、あえて飲み込む。ロイの“気”の流れがおかしいことに気づいたからだ。
手の甲で唇を拭いながら、リンがロイに歩み寄って、再び髪の毛を掴み、顔を覗き込む。目がとろんと濁っていた。

「効いてきたのカナ・・」

この流れ方は・・リンは自分が熱を出して、寝込んでいたときの感触を思い出していた。気の流れが混乱して、アイデンティティが崩壊する感覚。
リンは、その状態で軽く頬をピタピタと叩いてやりながら「オイ・・聞こえるカ? アンタ、自分がダレか分かるカ?」と、呼びかけた。

「ロイ・・ロイ、マスタング・・」

一瞬、ホッとしかけたリンとエドだったが、さらに小声で「・・クピド」と続いたことに、凍りついた。

「クピド? 何モノダ?」

リンがロイの髪から手を離すと、その正面にもう一脚、椅子を持ってきて座った。ロイはうなだれた格好で、なにやらブツブツと呟いている。

「クピドちゃーン、自己紹介してくんないノ?・・返事ネーナ。もーいっこのジンカクってヤツくさいんだけド・・マーいいや。とりあえず、マスタング大佐でも、クピドちゃんでもどっちでもイーから、話せる方。ソノ・・出たり消えたりする記憶ってヤツについて、洗いざらい喋ってチョーダイ」



ボソボソと、数名の男から受けた暴行と、その最中に乱入してきた得体の知れない化け物に襲われたことが語られた・・確かに覚えておきたくない記憶かもしれないな、とリンとエドが目と目でうなづき合う。

「じゃあ、クピドってぇのは、この記憶から逃れるために作られた、第2人格ってところカ?」

「違う・・アイツを焼き殺したときに・・あの赤い臓器から、その思念が流れ込んできた・・」

「赤い臓器・・ちょっと待テヨ、ソレって・・賢者の石ジャネーノ!?」

「そうだ・・言われてみれば、あの女の胸にあったやつと似ていた・・気付かなかった・・」

「気付いてリャ、イロイロハナシは早かったかもシンネーのに!」

「まぁ、仕方ないよ。大佐、この事件自体、忘れてたんだからさ」

「マーそれもそうカ・・ア、それトサ・・ちょっト引っかかるコトあんだけど・・ナンだったッケ」

リンが指先で眉間を揉むようにして、何かを思い出そうとする。そして、なぜかエドとロイを何回か見比べて・・アッと小さく叫んでから「ソウダ、アンタ、そいつを焼き殺しタ時、錬成陣はドーシタ!?」と尋ねた。

「その時も、錬成陣、なかったダロ? その・・火種はあっタケド」

「俺のときと同じ・・?」

「ソイツも錬成陣そのものダッタんだ・・ンデ、長い金髪のシルエットを見た・・そうだナ?」

ロイは答えない。代わりに、エドが「そんなバカな!」と叫んだ。

「俺がその、化け物と一緒だっつーのかよ!」

「可能性のハナシ・・ソノ化け物・・クピドちゃん? そいツの人格が入り込んで、君に共鳴してるっつーカ、大佐の精神に影響してる可能性もあるってコト」

「・・あり得ねーよ」

「あり得るか、あり得ないかハ、君が決めることジャないデショ。君ダッテ錬成の失敗で、アルの精神が混線してルってんダカラ、まったくあり得ないハナシじゃネーヨ」

「あり得ないってことは、あり得ない・・か」

「ナンダ、ソレ」

「ンー・・とうに死んじまった人造人間の口癖」

「フーン・・ンデ? お返事ハ? 実際ンとこ、どーなノ? 大佐でもクピドちゃんでもイーから答えてくれル?」

リンはそう尋ねながら顔を覗き込み、ロイの瞳の様子から薬効が切れかけていることを知った。シャーないナァ、モォ。追加投与すっカ・・リンはまたヒョウタンの口をねじり開けると、唇をつけた。ロイのあごを捉えて、上を向かせる。





「・・ウガイしてクル」

「あ、ははは・・ハイ、ドーゾ、ドーゾ・・」

リンとロイの2度目のキスシーンを目撃して、エドは乾いた声で笑うしかない。後で、この光景の記憶も五石丹で消してもらえないかしらん?

「もうひとつ、思い出した・・」

リンが台所で豪快にバシャバシャやっている間、ロイがボソッと呟いた。エドが小声で「なに?」と尋ねる。

「マースと別れたの、あいつが結婚したせいだと思い込んでた・・でも、違った・・あの事件直後から、もう、終わってたんだ・・」

エドの顔が引きつる。マースって、ヒューズさん? んで、別れたって何事? 付き合ってたわけ? あのとき、大佐の反応に「男に抱かれた経験があったんじゃないのか」と直感したが、まさか、その相手が、ヒューズさんって・・マジ!?

「終わってたって、どういうこと? でも、親友だったじゃん、ずっと」

「あの日以来、受け入れることができなくなって・・なぜか、直後からその事件のことを忘れてしまっていたんだけど、その・・行為の時には記憶が蘇るらしくって、助けてって叫ぶらしくって・・その、助けを求めてるマースの腕の中だというのに・・それで、何度もカウンセリングを受けに行こうって言われたんだけど・・できなかった」

「なんで? そのときに処置してたら、とうに治ってたかもしんねーのに?」

「私が、マースとの仲を公にするのを拒んだから・・マースは私が治るのならそれでも構わないと言ってくれたのだが、私のつまらないプライドが、それを許さなかった・・それでも、マースは恋人でなくなってからも、親友として優しくしてくれて、ずっと・・だから、痛みを感じることがなくて、いつ別れたのかもはっきりしなくて・・事件のことが記憶から消えて、代わりに・・彼が結婚したからだって信じ込んでた・・本当は逆だったんだな」

きっと、ロイと別れた寂しさを埋めるように、彼女と出会い、結ばれたのだろう。
ロイが口元を手で覆って、身をこごめた。涙が一筋、こぼれ落ちる。思わず、エドが手を差し出して抱き締めようとした。

「アーア、興奮させちゃヤバいヨ。あんまりトバすと、バッドトリップして、帰って来れなくなっちゃウカラ・・オレは大佐がドーなろーとイーんだけど、君達が困るデショ。ソーユー湿っぽイ話はヤメヤメ・・」

不意に、リンが割り込んだ。そして、グィッと髪の毛を掴む。

「サて、記憶の回路が気持ちヨーク開いている間に、モ一回尋ねるネ」

髪の毛、あんまり乱暴に掴んで大佐がハゲたらドーシヨー・・もう中年なのに・・とエドが一瞬、余計な心配をしてしまうが、リンはお構いなしだ。

「アンタ、例の化け物を焼き殺しタ時、錬成陣はドーシタって質問・・マダ答えてネーヨナ。んで、それってエドん時のんと同じジャネーノ?」

「ソウ・・カレハ、ワタシトオナジ・・」

来タッ・・ロイのものとは明らかに違う口調に、リンもエドも緊張する。

「サー、クピドちゃん、思いの丈をゼンブ吐いちゃってチョーダイ。賢者の石についても洗いざらいネ・・イーコにして答えてクレタら、気持ちヨーく成仏させてアゲルヨ」

リンが口角を上げて、見ようによってはサディスティックにもとれる笑みの形に歪めながら、そう低く囁いた。

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