2 貴人酔夢
しかしまぁ、一体何を食べたら、これだけスクスクと育つのか。
リンは、己の掌が覚えているエドの小さな肢体と、目の前にいる本人とがどうしても重ならず、途惑った。一緒にシン国に帰って、成長していく過程を見ていたら、また別の感慨があったのだろうか。いや、俺ならこっそりお抱えの錬丹術師なんぞに命じて、成長を止めさせたかもしれないな。もちろん、そんなことをしたら本気で怒っただろうけれど。
もしかして、いっそ再会しない方が良かったんだろうか?
だが、見つめているうちに、記憶の方が妥協していき、愛しさが長い歳月の空白を埋めようとし始める。
「皆ハ元気なのカ?」
それはあまり深い意味のない、挨拶代わりの質問であった。広すぎるベッドにふたり腰掛けて、大きなクッションにもたれてくつろいでいた。
「ああ、皆相変わらずで・・あ、そうそう。アルはウィンリィと結婚したんだっけ。こっち来る前に久しぶりに逢ったよ。ウィンリィ、お腹おっきくなっててさ・・」
「へぇ? あのアルがパパになんのカー」
「そうそう」
「子どもか。カワイイんダローナー・・どっちに似ても、カワイイダローナ。オレも6人ぐらい子どもいるらしいけど、自分の子ども抱いたことネーヤ。ま、オレも親父の顔見たことすらほとんど無かったカラ・・東宮の方でそれぞれ次期皇帝の座を狙って、英才教育してるヨーダネ」
「6人“ぐらい”って・・おまえねー・・」
「ソソソ、父親の自覚ねーの。全然。ダッテ、無理ダヨ、顔と名前が一致しないヨーナ、妻妾を取っ替え引っ替えでサ『産み月を計算して記録と照合したところ、確かに皇帝の種で間違いございまセン』って報告受けてサ、それだけダヨ・・ま、そーゆーシステムで何千年もやってきたワケだし、しかたナイんだろーケドネ」
「・・大変だなぁ、皇帝って」
「なりたくてなったっツーより、そのためニ産まれてキタんだかラ、仕方ないのヨネ・・ンデ?」
「あと変わったことといったら、大佐が准将になったぐらいかな? 今、同じアパートに住んでてさ。大佐の、ほら、あの殺風景なあのアパルトメント・・あんまりにもひどいから、俺が壁紙張り替えしたんだぜ?」
しまったとリンが思う間もなく、エドがのろけ始めた。
考えてみたら、自分という障害物がいなくなったのだから、ロイとエドが心置きなくおつき合いしていることぐらい、簡単に想像がつきそうなものだ。ロイがあの女側近に強引に迫られて結婚してしまって、エドは独り身で・・などという都合のいい展開を期待していた自分がバカだった。
リンは気付かれないようにため息をつくと、エドが夢中になって喋っている間に枕元からそっと長煙管を取り出した。
実はその頃、そのロイとエドの甘い生活が根底から覆されかねない危機に陥っているなどとは、エドは夢にも知らなかった。
「別にいいんじゃないですか? 大総統ファミリーの一員になるというのも。それともマスタング准将、ホークアイ中尉がお嫌いなんですか?」
ブレダは呆れたようにそう言いながらも、顔色を変えた上司が持ち込んだ『勝てないアナタもみるみる上達〜チェス入門応用編』なる本を受け取って、太い指でパラパラとめくった。
定時を過ぎた司令部のオフィス、今日はほとんど残業する者もなく、ブレダもぼちぼち帰り仕度を始めようかというところで、呼び止められたというわけだ。
「いや、別にリザ君が好きだとか嫌いだとか、そういう問題ではない。この私が、チェスにもうすぐ50連敗しそうだという事実そのものが問題なのだ。それに、だ。女性の人生を賭けの対象にするというのも、いささか問題があるとは思わないかね?」
「中尉自身は、どう思われているんですか?」
「知らん。一応、大総統に思いとどまるように伝えてくれとは言ったが、彼女がどう思っているかなんてのは、聞いていない」
「そうですか・・でもねぇ、こんな付け焼刃で勝てるほど、大総統のチェスの腕は生易しくないと思いますよ・・あと何戦ですか?」
「先日45敗目を喫したから、あと5戦だ」
「はぁー・・もう、諦めたらいかがです?」
「いーやーだーっ!」
やっぱりそれは、エルリック中佐がいるからですか?・・とは、ブレダはあえて言わない。
そのとき・・「准将は、ここかのぅ?」という間延びした声。ロイの顔面から血の気が引き、今にもぶっ倒れそうな虚ろな目になる。そして次の瞬間、わっとばかりに机の下に頭を突っ込むようにして、潜り込んだ。
「・・何してるんですか?」
「しーっ、しーっ! 隠れているに決まっているではないか!」
それを見ていたファルマンが「ふうむ。まさに頭隠して、尻隠さず・・ですな」 などとボソッとつぶやいたものだが、ロイは真剣そのものだ。
ブレダもそんなロイの子どもっぽい抵抗に呆れ返っていたが、そこはさすがに元東部司令部組。
さりげなく立ち位置を変えて、己のコートの裾でロイを隠すようにして、匿ってやった。そこに、黒い犬を連れたグラマン大総統が入ってくる。
「どこじゃ? うーん・・ブラックハヤテ号、探してくれるか?」
ばう!
その鳴き声を聞いて、ブレダの顔色がスーッと青冷めた。
ブレダは犬嫌いなのだ。子犬の頃ならいざ知らず、体重20キロ近い成犬になったブラックハヤテ号にクンクン周囲を嗅ぎまわられては、とてもじゃないが平静を保てそうにない。
ううむ、犬を使うとは大総統、卑怯なり・・絶対絶命かと思われたその時、今度はファルマンが、なにげないふうを装って「おーいブレダ、先日の報告書の下書き、どこに置いてる?」などと大声で独り言しながら、ブレダの机の引き出しを勝手に開けて引っ掻き回す。つまみ食い用のクッキーやらビスケットやらがバラバラと床にこぼれ落ちた。
グラマン大総統と一緒にオフィスに駆け込んできたブラックハヤテ号は、ブレダが固まって突っ立っているデスクをダッシュで素通りすると、そのお菓子に飛びついた。
「あーあ、ブレダのクッキーが・・」
「おお、すまんことをしたのぅ・・ところで、マスタング准将は見なかったかね? チェスの相手をしてもらおうと思っているのだが・・」
「さぁ? 見かけませんでしたよ。チェスでしたら、自分がお相手しましょうか?」
普段からポーカーフェイスな男であるが、よりいっそう表情を乏しくしながら、ファルマンがしらじらしく応対してみせる。
「いやいや、是非とも准将と対局しようと思っておってのぅ。見かけたら、大総統執務室まで来るように、言っておいてくれんか? はてさて、どこに行ったのやら・・もう帰ったのかのぅ? 受付嬢は出て行くところは見とらんと言っておったのじゃがのう?」
すっかり誤魔化されたのか、ブラックハヤテ号を連れて、首をひねりながらオフィスを出て行く。
「もう大丈夫ですよ、准将・・」
「ううむ。助かった。ふたりには、今度おごる」
「でもねぇ・・自分は、いっそ腹をくくった方が良いような気もしますよ? 今、逃げられても、いつかは必ず対局するハメになるんだし・・45連敗もしてるんじゃ、あと5戦で勝つっていうのも、かなりキワドイと思いますし・・」
床に散らばった(というより、わざと散らかした)お菓子のクズを片付けながら、ファルマンがそう口をはさんだ。
「だからっ! ブレダに勝てるよう指南してもらおうと思っているのだよ!」
「そんなことできますかねぇ?」
「正直、俺も自信ねーよ。ファルマンも手を貸してくれ」
ブレダが『勝てないアナタもみるみる上達〜チェス入門応用編』をファルマンに投げてよこす。ファルマンは、分厚いその本を、両手で拝むようにキャッチすると、肩をすくめて苦笑いしてみせた。
「マスタング准将?・・いや、こっちにも来てませんでしたよ」
ブスッとした顔で帰り支度をしていたのは、医務局長のノックスであった。
「うーん、こっちにも来ておらんか・・一体、どこに行ったのやら」
「大総統、チェスの相手ならおつき合いしましょうか?」
「いやいや、これはマスタング准将と対局することに意味があるんじゃ」
「はぁ」
「実は、わしが50連勝したら、うちの孫娘とマスタング准将を結婚させることになっておってな」
「はぁ?」
「それでもう45連勝なのじゃ」
「・・はぁ」
ノックスはすぐに「あのクソガキ、それで逃げ回っているわけか」と、ピンとくる。
ちゃんと「男の子と同棲しているから結婚できない」と正面切って断わればいいのに、どうせ中途半端な返事をしたのだろう。それにしても45連敗とは豪快だ・・前からバカだバカだと思っていたが、本当にバカらしい。
「もう定時過ぎてますし、とうに帰ったんじゃないですかね? 大総統もそろそろお帰りにならないと」
「うむぅ・・」
ノックスはグラマン大総統を送りだすと、あまりのバカバカしさに、気力が萎えて傍らのベッドに腰を下ろしてしまう。
あの金髪おさげのガキ・・エドワード・エルリックが「ロイを護るために、右手を機械鎧に取り替えたいから、手術してほしい」と言い出したのは、3年前だったろうか。せっかく取り戻した腕だというのに、どこにも怪我や腫瘍もない健康な腕を切り落としたいとは何事だとさんざん叱ったのだが、エドの決意は固く、翻意させられなかった。
「先月のテロで准将が狙われてさ、俺達ふたりとも丸腰で・・俺、准将を護れなくて」
「ふん、肩をかすっただけじゃないか。そんなに大袈裟に考えることはない。あいつの肩にちょっと風穴があいたぐらいで、おまえさんが腕を切り落とすことはない」
「でも・・同じことがあったら、今度は命をおとすかもしれないでしょ? 准将が死んじゃうことを考えたら、俺、腕ぐらいどうってことない」
「・・あいつは、この手術に賛成なのか?」
「いや、反対してるけど・・でも、俺がそうして欲しいと思ってるんだから・・ノックス先生、お願いします」
「オートメール職人は手配してんのか?」
「ウィンリィは絶対にやってくれないって。でも、あんまり上手じゃないけど代わりの技師は見つけました」
結局、ノックスがその無謀な手術を引き受けたのは、そこまでしてロイを護りたいというストレートなロイへの愛情表現に、羨ましさすら感じたからだ。
正直、俺にはできねぇ・・と思った。
男同士でくっついてねぇで、とっとと可愛いねーちゃんでも見つけて結婚しろ、と言い捨てることは簡単だろうが、結婚生活を破綻させているノックスが「結婚はいいぞ、子どもは可愛いぞ」と言っても、説得力はないだろう。
「まぁ・・あいつ、どっか弱っちくて、誰かに護られてねーと・・てとこ、あらぁな。だがよ・・切り落としてから後悔すんじゃねぇぞ?」
ゴム管で二の腕を縛り、局部麻酔の注射を打つ。本来なら全身麻酔をかけるべき大手術なのだが、あえて手術の全工程を己の目で見させた方が良いだろうと考えたのだ。
「手首のあたりから、肘の手前ぐらいまで皮を剥く。これは切断面を塞ぐための皮膚移植のために使う。それから、神経を切らないように腕の肉の中から引っぱり出す。この作業に3時間ほどかかる。途中で恐くなっても、この時点ならまだ引き返せるから、3時間ゆっくり考えろ。神経を引き出したら、チェーンソーで一気に肉と骨を断ち、神経を引き出した状態で皮をかぶせる。神経は乾いてしまわないように専用の液に浸したガーゼで包んでおき・・オートメールの配線につなぐのは、俺の仕事じゃねぇ」
そして結局・・エドは最後まで己の手術を見守ったのだった。しまいには「そこまで好きなら・・別に男同士でもいいんじゃねーのかな」とすらノックスは思ったものだ。
それに引き換え、あのクソガキ・・ちゃんと恋人がいますと宣言しておけば、大総統だって諦めようというものを、ええ格好しいで曖昧にしているから、こうなるんだ。ホント、あいつバカだ。
そんなんでホントにあと5敗して、あのねーちゃんと結婚することになったら・・まぁ、あのねーちゃんもロイが好きで、仕えている間に婚期を逃したりしてて、可哀相っちゃあ可哀相なんだが・・でも、腕まで切り落として尽くそうとしているヤツの気持ちも考えてやらねぇと。
ノックスはため息をつくと、胸ポケットからくしゃくしゃに潰れたタバコの箱を取り出して1本引き出し、フィルターを噛み潰すようにくわえた。
「リン・・どうしたの? こわい顔して・・怒ってるの?」
エドはようやく、リンの様子がおかしいことに気付いた。そういえば、シン国に行く前にアルが「リンにはマスタング准将の話はするな」と言っていたっけ・・どういう意味かあの時は分からなかったが、そういえば准将とリンは恋敵だったんだっけ。
「別ニ・・」
「ごめん・・その、リン、聞くのイヤだったよね、大佐・・いや、准将の話なんて・・」
「イイよ、別ニ・・怒ってネーヨ、一応、笑顔で応対しようト努力してるカラ、サ」
そう吐き捨てて、煙管に火を灯す手が、軽く震えていた。
「大丈夫、モ少ししたラ、効いて来るカラ・・」
「なっ、効いてくるって、何吸ってんだ!」
「とてもシラフじゃ聞けないよーなオハナシなもんで・・」
「そんなん・・大丈夫なのかよ!?」
エドは慌てて煙管を取り上げようとするのが、リンは片手でそれを払い除けた。
「麻黄っていって、漢方の一種ダ。煙草よりは常習性ネーヨ。煙、そっち行くノカ?」
「そーいう意味じゃねーって・・煙たかった訳じゃねーってば」
「ソウカ?」
リンがもう一口、深く肺に溜め込むように、煙を吸い込む。
軽く目を閉じ、自分に暗示をかけるように、口の中で何かを呟いていたようだった。
「大丈夫、もう、大丈夫・・」
やがて、リンがニッと笑ってみせる。そんな状態で、無理に笑ってくれなくてもいいのに。
「でさ・・その右手・・ドしたノ? 取り戻しタんジャなかっタッケ?」
「あの、えっと・・俺、軍に残ることにして、そんで・・俺ってば、ふたつ名が“鋼”だろ? なーんちゃって・・」
「だからっテ斬り落とすコトねーダロ? それ、武器みてーダケド?」
「うん・・丸腰だと何かといろいろ、ね。護身用というか、護衛用というか・・その、昔要人テロがあって、俺、たまたま非番で丸腰でさ、准将を護り切れなくって・・」
「アイツのために、そこまでヤルかぁ?」
呆れたようなリンの声は、微かに掠れていた。エドは一瞬、リンが泣いているのかと思ったが、リンは口角を上げた作り笑いのままだった。
「その・・リン、ごめん、本当にごめん・・」
「責めてるワケじゃナイ。君ガあの男を選んダのハ、分かってルんダカラ・・君にとっては・・」
さすがに声が詰まった。続きは言わない方がいい、とも思ったし、もし言おうとしても声が出なかったろう。君にとっては、オレとのことは遠い過去でも、オレにとっては、過去じゃない・・とは。
言ったところで、今さら逆転があるという妄想は持っていないし、お互い、放り出すには重すぎる地位にあるのは、重々承知している。
ふぅ、と息を吐いて、おもむろにリンが煙管の吸い口を唇にはさんだ。
「おい、もう、いい加減にやめとけって・・」
確かに、もうすっかり全身に成分が回っているようで、すでに軽いめまいがしている。全身の皮膚にも、バァッと鳥肌がたったような違和感がはしっていた。
「エドが・・今晩ダケは、エドワードがオレのものになってくれるんナラ、ヤメてあげてもイイヨ」
リンがスッと手を差しのべ、エドの右手をすくいあげる。そして、鋼鉄の指を口許にもっていくと、挑発的な視線をエドに据えたまま、そっと舌を這わせた。ウィンリィ特製の高性能なオートメールと違うため、その感触をエドは感じることができない。ただ、その表情にドキリとする。
「今晩だけ・・ね」
薄暗い室内に、リンの肌が紙のように白く浮き上がり、唇だけが異様にぬれぬれと紅い。その姿が儚く感じられて、エドは思わずリンを抱き寄せていた。
|