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応竜〜A dragon with a wing


4 虚美人草


実際にその光景を見たことは、多分無い。
赤ん坊の頃の記憶が残っているものが稀に存在するとは聞いたことがあるが、脳裏に焼きついているその映像はむしろ、後々に人から聞かされた話から想像した光景なのだろうと思う。しかし、それにしては鮮明でリアルだ。

薄暗い産室に忙しく行き交う女官や侍医、生臭い匂いと立ち込める湯気・・その中央に転がる女の白い太股は脂汗でぎらぎらと、まるで金属のような鈍い光を放っていた。

『姉者のご様子はどうじゃ?』

女が虚ろな目であえぎながらも、気力を振り絞ってうわごとのように尋ねる。

『姉上様も、陣痛が始まったそうでございます』

『一刻でも一瞬でも、先に産まれた方が、皇子じゃ』

皇帝と、そういう約束を交わしたのだという。
単に他の部族がひとりずつ娘を贈っているのに、ヤオ族だけが双子の娘を贈るのは不公平だ・・というのなら、最初から姉のターレンに決めておけば良かった筈だ。あえて妹のシャオレンにも機会を与えたのは、権力者特有の単なる気まぐれもあろうが、皇帝自身が同腹の兄から帝位を奪って即位した“弟”だから、だろう。

・・芸妓を贈って、兄帝を暗殺させたのだという噂も聞く。

一緒に妃になれたら良いねと笑い合って育ち、もしも子どもができたら名を分け合おうとまで誓っていたはずなのに。その皇帝との約束が、仲の良かった筈の姉妹の間にクサビを打ち込んだのかもしれない。

同い年、同じ容姿で、裁縫も料理も歌も踊りも甲乙付けがたいというのに、ただほんの数刻、産まれ落ちるのが遅かったというだけで、年少者の扱いを当たり前のように受け続けていたシャオレンが、懐妊に気付いた時の悦び・・そして、同時に姉も身篭っていたと知った時の衝撃と、姉の腹の子が流れるように願う暗い感情と。


『・・侍医を呼べ。産道が広がるまで悠長に待ってはおれん。会陰を裂いて子を出させるよう、命じよ』

『無茶です! そんなことをすれば、お命に関わります!』

『構わぬ。ここで姉者に遅れることがあれば、姉者は正式に皇帝陛下の妃となり、私は・・ただの・・いや、妾にさえしてもらえないかもしれない』

ここで周囲がシャオレンをなだめたり、侍医がそんな無謀な手術を断ったりしていれば、運命はガラリと変わっていたことだろう。あるいは、シャオレンの子が女子であれば。
だが結局、シャオレンは己の腹を裂かせ、血みどろで我が子の産声を聞いた。そして、痛みに朦朧としながらも『姉上様はまだ、破水もしていないそうです』という報告を受けると、カッと目を見開き『勝った』と高らかに笑ったのであった。




目を閉じれば、今でもレイの耳には、叔母のその勝ち誇った笑い声が聞こえてくるような気がする。




後日、シャオレンは意気揚々と我が子を抱いて、皇帝陛下に謁見した。切り裂いた下腹の傷が痛まない筈はないのだが、彼女は背を伸ばして快活に歩き、そんなそぶりは全く見せなかった。

『名は、リンと名付けました。聖獣・麒麟の“麟”です』

『姉君も男児を産んだようだが?』

『ええ・・そちらはキと名づけたそうです。ふたりで“麒麟”と・・でも、リンの方が先に産まれました。リンが皇子ですよね?』

皇帝は一瞬ひるんだ。シャオレンの大輪の牡丹のような笑みに、過去の己と重ねてゾッとするものを感じたのかもしれない。

『ああ、確かにそういう約束だった』

皇帝は、表情が読みにくい細く吊り上がった目をさらにすがめて、己の脳裏を過ったものを払い落とすかのように視線を逸らしたものだった。
こうして・・リンは第十二子として皇帝に正式に認知され・・長じたリンはさらに苛酷な旅と熾烈な後継者争いを闘い抜いて、即位した。




この、竜と天空の星々が刺繍された礼服と、あの小袋の中に納められている“玉璽”を、その証として。




『いっそ、女の子を産めば良かった』

妹に出し抜かれた形のレイの母親は、レイがまだ幼かった頃、我が子がまだ理解できないと思ってか、しばしば酒を煽りながらそんな愚痴を言ったものだ。

『女の子だったら・・次の皇帝の妃として嫁がせて、皇子を産ませるのに。あんたが男の子で、しかもぐずぐずしてたせいで、シャオレンは後宮に入り、あたしは行かず後家、か。皇帝のご落胤が連れ子じゃあ、そう簡単に結婚できやしない。どうしてくれんのよ』

女の子だったら・・か。

もし、女に生まれ変われるのなら、自分の運命も変わったのだろうか?
次の皇帝の妃として嫁いで、皇子を産むと? 冗談、兄貴の子どもを産めっていうのか?




『・・陛下? お聞き遊ばされておりますか? 陛下?』

レイは、その声にハッを我に返った。兄貴はいつも、会議は退屈だ退屈だと愚痴っているが、なるほどこれは確かに苦痛だ。さらに早朝で、こちらも寝不足気味で、御簾越しにコムヅカシい報告書を朗々と朗読されると、どうにも眠たくて堪らなくなる。

『ああ、済まん、少しだけ聞きそびれた』

そう言って誤魔化し、玉座に深くもたれていたのを、姿勢を変えて少しでも眠気を払おうとした。礼服は伝統的な・・というと聞こえは良いが、要は時代遅れの製法で織られており、布地が厚くてごわつき、いまいち着心地が悪い。通気性が悪いのか体温がこもり、不快な汗が背中を滴った。
・・例え影武者の身とはいえ、こうして玉座に座り、文武百官を見下ろしているというのに、ちっとも楽しく感じられない。本物の皇帝として座っていたら、感慨も少しは違うのだろうか?

『続けよ』

そう言って、レイは片手を鷹揚に振ってみせる。再び、報告書の朗読が子守唄のように流れ始めた。






グラマン大総統との不毛な押し問答からようやく解放され、よろよろと帰宅したロイは、アパートメントの部屋が真っ暗なことに気付き「鋼の? 昼寝でもしているのか? もう外は真っ暗だぞ」と口走りながら、そういえば彼はシン国に行っていて、ここにはいないのだな・・と気付く。

いつのまにか、傍にいるのが当たり前になってしまっていた。

苦笑しながら指を鳴らしてランプの火を灯し、ついでにヤカンに水を入れると、こちらも指パッチンで火にかける・・紅茶でも飲もうと思ったのだ。エドが見ていたら「錬金術をセコいことに使うな」と叱られるところだな・・と、ふと考えている自分に気付き、コートを脱いで・・いつもだったら、エドが甲斐甲斐しく受け取って、クローゼットにかけてくれるところだが、面倒くさいのでソファに投げ出す。

おいこら、シワになるじゃねーか! またアイロンがけしなくちゃいけねーだろ!
面倒なら放っておきたまえ。シワになったら、中尉にアイロンをかけてもらうから。
バカッ! なんでそこで中尉が出てくるんだよ、ちくしょーっ!

何十回も繰り返したお決まりの口喧嘩が、ロイの脳裏をよぎる。

くそぉ、なんでここにいないのだ、鋼の。なんで・・あいつのところに行っているのだ?

「大丈夫ですよ、シン国の皇帝といえば、国民にすら素顔をほとんど見せない、いわば象徴的な存在ですからね。外国からの使者で、しかも一通訳にしか過ぎないエドワード中佐が、個人的に会うような機会なんて、ある訳ないじゃないですか」

ファルマンはそう気休めを言ってくれたが、あの鋼ののことだ。絶対、忍び込むとかなんとか、無茶をしてでも会おうとするに違いない。それが、鋼のの方では無邪気に「昔の友達に会いに行く」と考えての行動だったとしても・・あいつは鋼のに惚れていたんだ。



そして、鋼のも、一度はあいつを選んだんだ・・



「そりゃあ、あんたは俺にとって、初めての人だったかもしれないさ」

あの日の鋼の目は忘れられない。まるで初対面の人に向けるような、警戒心をむき出しにした冷たい瞳で、なごませようと金髪に触れた手を、まるで蠅でも追うかのように振り払ったんだっけ。

「でも、俺があんたにとって最後の人になれるかどうかは、分からないじゃん・・でも、リンにとって俺は初めての恋人で・・多分、最後の人だって。本気でそう言ってくれて、俺、それがすごく嬉しくて・・あんたが口先だけで、愛してるだのカワイイだの言ってくれるのと、全然違うって思ったんだ」

「そんなことはない。私の言葉はいつも真実で・・」

「俺を口説いた舌の根も乾かないうちに、オネーチャンの尻追っかけてるじゃねーか。それに・・」

そこで、彼が何を言いかけたのか、ロイには見当もつかなかった。後に本人に尋ねても教えてくれなかった。そして、くるりと背中を向け、街中の雑踏に溶けていく小さな後ろ姿・・追い駆けようとすると、スッとあいつが現れて彼の肩に手を回し、鋼のがあいつを見上げて笑いかけ、ふたり何かを囁きあいながら遠のいていく。



・・今でも、そのシーンが夢に出て、夜中に汗だくで跳ね起きることがあるなんて、彼は知っているだろうか?
准将にまで昇り詰めた、この私が、だ。たかが夢を見て、泣くんだ。

だから、その後・・ある雨の日に「やっぱり、あんたんとこに居ることにした。あんた、俺がいねーと情けなくてさ、見てらんねー気がすっからさ」と言われても、心のどこかで信用しきれなかった。あいつと別れてくれたのは嬉しいし、自分の側に居てくれることはありがたいのだが・・もしかしてそれは、愛ではなく単なる同情なのではないかと疑っていた。

だから、ずっと鋼のの気持ちを試すような意地悪ばかり繰り返して。

いい加減にしろ! もうヤダ、やっぱ俺、あいつんとこに帰るっ! 鋼のが、キレてそう叫んだことも1度や2度ではなく。



そして・・鋼のは、周囲の大反対を押し切って「あんたのためだ」と言って、わざわざ取り戻した腕を切り落として、機械鎧にした。

同情なんかじゃ、ここまでしねーだろ? フツー。なぁ? あんたを護るためだったら、腕の1本や2本惜しくねーぐらい、俺、あんたんこと好きなんだってば。いい加減に、分かってくれよ・・ねぇ、あの時リンを選んだことを、まだ許してくれないの? でも、もう別れて、今はこうしてあんたと一緒にいるじゃん。それでも駄目なの?

どうして、その時に抱き締めてやれなかったのだろう?
そうしていれば・・例え鋼のをシン国に送りだしたとしても・・仮に、もう一度あいつと間違いがあったとしても・・必ず私の許に帰ってくるという自信に満ちて、平然と待っていられただろう。こんな、そわそわと落ち着かない気分にはなっていなかった筈だ。

こんな精神状態で集中できるわけがない。確かにチェスは得意ではないが、48連敗など、本来あり得ない。

ヤカンの湯が沸騰して、ピーピーとうるさく鳴いた。
あんた、火をかけたまんま忘れたりするから、笛付きのを買ってきたぜ・・そう言ってニッと白い前歯を見せて笑う鋼のの顔を思い出す。永遠の別れなどではなく、もう数週間もすれば帰ってくるというのに。
だが、その笑顔が今、この瞬間、遥か東の地で、自分ではなく恋敵に向けられえているのかもしれない・・という黒い感情が沸き上がると、思わずロイの指が動いていた。

ボゥと焔が膨れ上がり、ヤカンを丸ごと包んだ。中の水が一瞬にして蒸発し、ヤカンの鉄をも赤く溶かして、やがて消し炭のような黒い塊が台所に転がるだけになった。
ロイは自分の暴挙に我に返り、ため息をつくとベッドにへたり込んだ。






遠慮のない足音に、リンはふわふわした夢から引きずり出された。

夢の中では、腹の上にエドが座って、くすくすと笑いながら腰を振っていた。時折、手を伸ばして頬を撫でてくる。こんな生々しい夢を見たのは、ついさっきまで、エドと快楽を貪りあっていたせいだろうか。

『あなたの子どもを産んであげるから』

夢の中のエドはそう言って赤い唇の端を吊り上げた。俺達の間に、決して子どもなんか出来ないのに・・だが、その嘘はリンの胸を熱くした。

『ああ、俺もエドの子どもが欲しい』

『エドっていうのね。陛下が愛している人は』

『・・お前は、エドじゃないのか?』

その問いには答えず、かすめるように唇を重ねて来た。どうせ夢なら・・これはエドだと思っても良いんじゃないか・・リンは朦朧とした意識の中でそう考えていた。髪に触れたくて手を持ち上げようとするが、全身が鉛のように重く、指一本動かない。リンは丸太のように寝転がったまま、やがてエドの腰使いで高みへと押し上げられていく。

『・・そう、エドよ。エドって呼んで。貴方の愛しい人の名で、アタシを呼んで・・』

うわ言のように口走りながら腹の上で身をよじり、啜り泣く姿が愛しく感じられ、リンも無我夢中でエドの名を繰り返し続けて・・平手打ちされてようやく完全に覚醒した。



『こんなところで、素っ裸で・・風邪を引きますよ』



皇帝陛下であるリンに、こんな乱暴な仕打ちができるのは、幼少の頃から教育係を務めているヤンフィぐらいだ。小さい頃は、悪戯をやらかしては彼女に何回、尻をひっぱたかれたことか。
自分が横たわっていた支度部屋の室内を見回しても、当然エドがいるわけもなく、呆れ顔で見下ろしているヤンフィと、脱ぎ散らかした服を畳んでいるセイの後ろ姿があるばかりだ。

『・・夢、か』

あれはヤンフィだったかもしれないと、一瞬考えていた。
エドと彼女はどこか・・似たところがある。ヤンフィが黒髪ではないからとか、小柄で細身だからというだけの理由ではなく、気配のようなものが。

『お薬の効果が抜けきっていないのですね。そろそろレイも戻るでしょうから、こちらの服をお召しになって・・陛下の服は、セイに受け取ってもらいますから、先にお部屋に帰って休みましょう』

抱き起こされ、薄衣を羽織らされると、ヤンフィの体臭が微かに匂った。砂漠向こうの人種の血を引くヤンフィは、純粋なシン国人とは体質が異なり、体臭もどこか違う・・いわば挙体異香というやつだ。かといって・・冷静に考えれば、あれはエドではなかった。エドの体臭には、さらに金属と機械油が入り混じっており、他の人間と間違いようもない。

『この部屋に、誰かが居なかったか?』

『ええ? 陛下おひとりでしたよ』

どうせエドの夢を見るのなら・・それも俺の子どもを産むだなんて、心憎いことを言ってくれる夢なら、匂いもエドのものであれば良かったのに。

念のため、首にさげている小袋に触れて、中身を確認する。比喩ではなく文字通り、リンの生命よりも大切な、その四角い小さな石は、きちんとそこに納められていた。この玉璽こそが皇帝の証で、これを手に入れるがために、古来より多くの人の血が流され、時には戦争すら起こり・・リン自身も砂漠を越える旅をし、それこそ命懸けで化け物と闘ったものだ。

そして、この石がちゃんとある・・ということは、先ほどの夢は、決して幻術の類で惑わされて見たものではない、ということを意味する。ということは、本当に単なる夢を見ていたのか・・あるいは、夢うつつの状態で誰かを本当に抱いていたのだろうか。

リンのその仕種に気付いたヤンフィが『失くしたり盗まれたりしては一大事なんですから・・そうそうあちこちで行き倒れたり、眠ったりしちゃいけませんよ』と小言を言った。その、子どもに諭し教えるようなヤンフィの口調にリンは苦笑しながら、彼女の華奢な肩を借りて立ち上がった。くらっと軽い立ちくらみがしてよろけたが、なんとか踏み止まる。

『夕方の会合には出られそうですか?』

『分からんが・・これはさすがに、レイには任せられないからな』

それにいわば身内だけで行う朝政と違って、夕方の会合にはアメストリス側の使者も出席するだろうから・・通訳としてのエドの姿が、御簾越しに、数十メートル先であろうとも、見られるかもしれない。

『それまで・・寝ておく。ねーさん、膝・・貸して』

『そういうお戯れは、奥方様のどなたかに頼むものです』

『水くさいこと言ってくれるなよ』

ヤンフィの琥珀色のアーモンドアイで、メッと軽くにらまれたが、まだ先ほどの夢の余韻に浸っていたかったリンは、化粧くさい他の女を寄せ付けたいとは思わなかった。
『エドにつけられた傷だらけの身体を、そうそう女どもに披露するわけにはいかんだろう?』などと、もっともらしい理屈をでっちあげて、ヤンフィを説き伏せる。






湯あみをして昨夜の情事の名残りを洗い流し、パリッとした服に着替え終わった頃、訪問者が現れた。

「ああ、居た居た・・昨夜は一晩中、どこにいらしていたんですか?」

スオ・リゥがストレートに尋ね、エドはちょっとだけドギマギする。本当のことなんて、言える訳がない。だが、言い訳をでっち上げようとするのを許さぬように、スオ・リゥが目を覗き込んでくる。その瞳は漆黒を通り越して、深い海の色に見えた。

「えっと、その・・こっちで友達が出来てね、それでちょっと」

「ああ、それはそれは・・お泊まりをするほどの友達ね。隠さなくてもいいですよ、恋人でしょう? なにせ、エルリックさんは男前ですからね。女性の方で黙っておかないでしょう」

呆気なくエドの言い訳を鵜呑みにしてくれたのか、それとも疑いながらも見て見ぬふりをしてくれたのか。エドにはどちらとも判断できなかった。ただ、首筋にキスマークがついているのではないかと、軍服の詰め衿を、さらに立てるようにしてそっと庇う。今までリンがエドの身体になんらかの情事の痕をつけたことなどほとんどないのだが、昨夜の乱れ方を思えば、無我夢中でどこかにつけていないという保証はない。

「・・エルリックさんなら、男も放っておかないのではないですか?」

「なっ・・」

「ははは、冗談ですよ」

だが、その目の奥は笑っていなかったような気がした。
こっちの国では、男同士の肉体関係はタブーではなかったっけ? だが、禁忌というのは、それを破る者がいるからこそ、定められるものだ。

「夕方の会合まで、私の館でお茶でもしながら、ゆっくり話でもしませんか? エルリックさんは錬金術というものをお使いになられるとか・・私はそういうものに興味がありましてね、是非、話を聞かせて頂きたいと」

「そ・・その、ちょっと今日は寝不足で・・」

「眠たくなったら、お眠りになれば良ろしい。うちの館の中庭の芝生はよく手入れしてありましてね。昼寝をするのにはもってこいです」

スオ・リゥの瞳の奥の海の底に、何か得体の知れない怪物が息づいているかのような錯覚に陥り、エドは足がすくんだ。スオ・リゥはあくまでも穏やかな笑顔を見せているというのに。

「何を怯えているんです? 怖いことは何もありませんよ」

スオ・リゥに腕を掴まれそうになり、エドはつい、両手を合わせていた。掌の間に、パシッと錬成反応の火花が散る。何をどうしようという意図はなく、とっさの防御行為であったが、その火花だけでもスオ・リゥへの威嚇には十分だったようだ。スオ・リゥの顔がさすがに引きつる。

「・・分かりました。では、夕方、会議でお会いしましょう」

スオ・リゥが出ていくと、エドは思わずへたり込み・・無意識のうちに、右手を刃物に錬成させていたことに気付いた。確かに、腕が突然こんなものに変化したら、相手もびっくりするだろう。
悪いことをしてしまったな・・と、エドは少しだけ反省し、後で謝りに行こう・・と考えていた。







『今日の朝政は、僕だったんだよ』

戻ってきたレイに言われるまで、スオですら気付いていなかった。

『そういえば確かに、今日の皇帝陛下は居眠りをしてたな』

『だって、寝かせてくれなかったじゃないか・・なのにさ、セイが今朝、急にやって来て、兄貴と替われって』

軽くあくびをし、レイはまるで自分の館のように、勝手に椅子を引き出して座り込む。

『今朝、急に? 陛下はお加減でも悪かったのか?』

『さぁ? でも、昨夜はお盛んだったらしくて、背中がすっごい傷だらけだったよ。爪で引っかいたような傷・・顔色、真っ青でさぁ』

『後宮の女に、そんな不躾なヤツはいないと思うがね?』

『誰と寝たかなんて、宦官が記録つけてるんだから、すぐに分かるんじゃないの?』

『昨夜は・・ツァオ姫もシェ姫もお断りになったはずだがな』

レイは、そのままテーブルに突っ伏して、うとうとし始めている。スォはそれを見下ろしながら、ふとエルリック氏も寝不足だと言っていたな・・と思い出していた。友達に逢いに行っていたと。
そういえば、エルリック氏は陛下の友達だったとかで、何度も陛下に直接お会いする方法はないかと尋ねていたっけ・・、だがスオは自分が妙な結論を導きつつあることに気付き、頭を振ってその妄想を打ち払った。


そんなことは・・多分、あり得ない。
陛下とエルリック氏がそんな・・だが、自分とレイの関係だって、他の人間が聞けば「あり得ない」と言うだろう。

錬丹づくりに通じたファーダ老師がヤオ家の食客の末席に居ると知り、ある秘薬の調合をしてくれれば、リゥ家の客人として優遇すると約束した。その研究に興味を持った少年がいて、初めての人体実験の時に、被験体となってくれたが、ある後遺症が残った・・それがレイだった。
当時はただ、申し訳ないことをしたと思い、お詫びも兼ねて可愛がっていたのだが、後に彼が第十二皇子リン・ヤオの従弟で、しかもリンに容姿がそっくりだと知って驚いた。
さらにリンが後継者争いに食い込み、最終的に皇位についた時、レイをうまく利用できないかと考えるようになっていた。


『そんなところで寝るんじゃない。寝室へ行きなさい』

『歩けない。連れてって』

『君の体重を抱き上げたら、腰を痛める。私は若くないんだから』

だが、肩を揺すぶってもレイは動こうとせず、本格的に寝入ってしまった。こうなると、テコでも起きない。スオは諦めて、レイをほったらかしにしたまま、水煙管のガラス壺を引き寄せた。

それにしても・・今朝の入れ替わりには、本当に気付かなかった。今まで、レイが影武者として入れ替わっている時は大概、前もってそれを知らされていたから、他の人々が気付かないのが不思議だと思っていたほどだ。
これほどまでとは思わなかった。彼らの母親ですら間違える、というのもあながちウソではなさそうだな、と思う。



そして、それを見抜くという、ランファンとヤンフィさえ居なければ・・スオはそこまで考えると、あとは阿片に意識を委ねることにして、思考を停止させた。計画は走り始めているのだ。
ヤオ族の長老の了承も取り付けている。







夕方の会合を目前にして、唐突にスオ族がアメストリス支持に回ったらしいと宦官から聞き、リンは条約締結できることへの安堵よりもむしろ、何か影で取り引きがあったのではないか、という不信感を抱いた。しかし、反対派が総崩れになったというのに、こちらがぐずぐずしているのも妙な話だ。

こんなとき・・相談できる相手が居ないというのは不自由なものだ。

いや、一応側近は居る。大臣相手でもいい。だが・・彼らもそれぞれの出身部族を背負っており、与えてくれる助言が、本当にシン国のためになされているのか、それとも彼の出身部族の利益のためになされているのか、あるいはまた別の思惑があるのか、判断が難しい。

いっそ、愚鈍な王になって、己の出身部族・・ヤオ族のためだけに権力をかざしてしまえたら楽だったろうに。
いや、ヤオ族がそれを望んで、自分を帝位に押し上げるために運動し続けていたことは分かっている。そして、期待していたほどの見返りがなかった現状に、不満を抱いていることも。

なぜ気付かないのだろう?
彼らが求めるものは、先帝の病床の枕元で醜く繰り広げられた、各部族の足の引っぱり合いで被った損失と、それに反比例するように膨らんでいく互いへの憎悪・・あの繰り返しでしかないということを。

己の部族の幸福のみを追求すれば、必ずや他部族の恨みを買って諍いが起こることを。
現状では、シン国の豊かな土壌が、その争いをも包み込んで癒してくれているが、そんな不毛な争いを続けていれば、いつかこの大地も痩せて滅んでしまうだろうことを。



姻族が蔓延る政治体制は、亡国が近い証だということを。



『まったく・・ねーさん、うらみますよ。ねーさんが、ご立派な皇帝に俺を育ててくれたから』

冗談めかして言うと、膝を貸していたヤンフィが困ったように眉をひそめたが、特に何を言い返してくるでもなく、ただリンの髪を撫でていた。

『・・そろそろ身支度をされませんと』

『ああ、そうだな』

起き上がると、昨夜の薬はすっかり身体から抜けたらしく、全身の倦怠感は取れていた。代わりに背中がヒリヒリと痛むが、これはお仕置きとばかりに、わざとしみる薬を塗られてしまったせいだ。

・・エドにつけられた爪の痕。

だが、その感慨を打ち消すように、ヤンフィが手早く肌着を着せつけると、パンパンと両手を打ち鳴らして従者を呼び『皇帝にお支度を』と命じていた。


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【後書きその4】エドの「それに・・」の後の台詞。
当初は、そっちだって、ノックス先生やヒューズさんとか引きずっているじゃないか・・などと言いたかったのかな、と考えていましたが、その後、つい「リンとロイの仲のことだったら、どうしよう」と妄想してしまい「フォーーーーッ」と悶絶(自爆ともいう)!
そりゃあ、エドも口に出して言えないだろうさ・・ええ、私、バカです。

あと、レイのイメージが『素女丹騒動記』(特に女体別館掲載分)と丸っきり異なることに驚かれた方もいらっしゃると思いますが・・私は当初から、こういうイメージだったんですよね(苦笑)・・初出を見るとちゃんと、一人称『僕』ですし。
攻めで鬼畜なレイは、パラレル設定ということで・・というか、自分でも書いてるし(ヲイ)。

こんなアホな作者を置き去りにして、ストーリーは『シン国騒乱』『チェスゲーム幻の50戦め』『素女丹騒動記・真説』へと、大河ドラマさながらに雪崩れ込んでいきます。
初出:2005年10月13日

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